聖書:イザヤ書53章1~12節・ペトロの手紙一2章18~25節
説教:佐藤 誠司 牧師
「召し使いたち、心から畏れ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、気難しい主人にも従いなさい。不当な苦しみを受けても、神のことを思って苦痛に耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ち叩かれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょうか。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたは、このために召されたのです。キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を示されたからです。」(ペトロの手紙一2章18~21節・聖書協会共同訳)
「なぜなら、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているからです。」(フィリピの信徒への手紙1章29節・聖書協会共同訳)
今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を少しずつ学んでいます。使徒信条は、まず父なる神、造り主なる神を信じる信仰を語りました。次に使徒信条は、父なる神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰を語ります。この部分は、次のように語られます。
「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、」
ここまで読んで、皆さん、何か気付かれたでしょうか。これは多くの人が指摘することですが、使徒信条は「処女マリアから生まれ」というふうに、主イエスの誕生を語ったと見るや、すぐさま「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という具合に、主イエスの受難について語っている。福音書が語っているように、誕生と受難の間には、主イエスの様々な御業があり、お語りになった珠玉のようなお言葉があります。多くの人が、それらを心に刻んでいます。信仰の支えにしたり、愛唱聖句にしたりしています。ところが、使徒信条は、それらをものの見事に省略して、誕生から急転直下、受難へと突き進む。これには、どのような意味が込められているのでしょうか。
今、私は省略という言葉を使いました。「処女マリアより生まれ」と「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」の間には、様々な主イエスの御業があり、語られた珠玉のようなお言葉がある。使徒信条はそれらすべてを省略して、誕生から一気に受難に突き進んだのだと言いました。
しかし、本当にそうだろうかという思いが拭いきれません。使徒信条は主イエスの御業と御言葉を省略したのではなくて、むしろそれらすべてを「苦しみを受け」という一言で言い表したのではないか。ルカ福音書によれば、誕生すら「苦しみを受け」の中に飲み込まれている。「宿屋には彼らの泊まる所がなかった」とハッキリ語られていました。客間に居場所がなくて宿屋から追いやられて、馬小屋で生まれた。それからあとも、追いやられて追いやられて、ついに十字架の上に上げられた。
このように考えますと、イエスというお方は、その誕生すらも「苦しみを受ける」ことの始まりであって、このお方の歩みは、それこそ「苦しみを受ける」ことの連続であったことが分かります。
使徒信条は「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と語ります。私たちが告白するのは、日本語に翻訳された使徒信条です。「苦しみを受け」という日本語を見ますと「苦しみ」という言葉と「受ける」という言葉があるように見えます。二つの言葉が結び合わさって「苦しみを受け」という言葉になったのだと、そういう印象を受けてしまいます。これは、おそらく日本語の特徴なのでしょう。
しかし、使徒信条のもとの言葉は「苦しみを受け」というのは一つの単語です。使徒信条がここに使いました言葉は「パッション」という英単語の元になった言葉です。「パッション」というと、日本では「あの人はパッションがある」というふうに「情熱」という意味で使われることが多いと思います。しかし、この言葉は元々は「受難」「苦しみを受ける事」を表わす言葉でした。そういえば、ヨハン・セバスチャン・バッハの「マタイ受難曲」は英語では「マシューズ・パッション」ですね。
このように、「パッション」という言葉は「苦しみを受ける」という意味を持っていますが、さらにさかのぼりますと、この言葉は苦しみは苦しみでも、自業自得の苦しみではなくて、他者のために甘んじて受ける無償の苦しみのことだったのです。どういうことかと言いますと、ある人が大きな苦しみを受けている。しかし、その苦しみの原因は、この人の中には無い。苦しみの原因は他の人々の中にある。「パッション」という英単語の元になったギリシア語は、そういう苦しみを意味していたのです。
でも、どうでしょう。自分の中に原因が無い苦しみなら、冤罪もパッションと言えなくもないですね。冤罪といえば、袴田巌さんの事が有名ですが、確かに袴田さんも自分の中に原因の無い苦しみを無理やり背負わされました。その意味では袴田さんもパッションと言えなくもないと思います。しかし、冤罪で苦しむ人は、真犯人の赦しのために苦しんでいるのではない。聖書が語るパッションは、そういうことではない。聖書が言うパッションは、あくまで自分を苦しめる原因を作った人たちの救いのために苦しみを受ける人です。
この他者のための苦しみを最も鮮やかに描いているのが、今日読んだ旧約の箇所、イザヤ書53章の「苦難の僕」の歌です。あそこに、こんな言葉がありました。
「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのため刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって、私たちに平安が与えられ、彼が受けた打ち傷によって私たちは癒された。」
これがパッションの苦しみです。苦難の僕が苦しみを受けている。しかし、その苦しみの原因は、彼の中には無い。他者の中にある原因のために、彼は苦しんでいる。しかも、それは自分を苦しみに陥れた人々の救いのための苦しみであった。こういうところから、今や多くの人々が、この苦難の僕の中に主イエス・キリストのお姿を見て取ります。
しかし、主イエスのお受けになる苦しみは、じつは御自分だけが受ける苦しみではありません。私たちキリスト者も、主イエスと同じ苦しみを担うよう、招かれているのです。パッションが元になって出来た言葉に、「シンパシー」という英単語があります。普通は「同情する」という意味で日本語で使われますが、元々は「共に苦しむ」という意味のあった言葉です。皆さんは「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」という主イエスの言葉をご存じのことと思います。この言葉のすぐ後で、主イエスはこう言って、私たちを招いておられます。
「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」
軛というのは二頭の牛を、首の所でつなぎ合わせる農機具です。そう聞きますと、軛なんてたまらん。自分の人生を生きていくだけでも、しんどいこの上ないのに、その上イエス様の軛まで負わされてたまるか。だからキリスト教はいかんのだと、そう思う人は多いと思います。けれども、イエス様が言われる「軛」には、二つの意味が込められています。まず一つは、私たちがイエス様の軛を負いに行くのではない。私の軛を、イエス様が負うために来てくださった。私の罪の軛、悩みの軛、悲しみの軛をイエス様は一緒に負うてくださる。これが軛の第一の意味です。
そして軛の第二の意味は、イエス様の軛を私たちがイエス様と共に担うよう、招かれている、ということです。イエス様の苦しみを私たちも担うのです。皆さんは、こういうことをお感じになったことはないでしょうか。クリスチャンになる前は、こんなこと平気だったのに、導かれてクリスチャンになってからは、今までさほど感じなかった苦しみや悲しみをハッキリと感じるようになった。あれが、そうなのです。イエス様の軛を私たちも担っている。イエス様の苦しみ、悲しみをイエス様と一緒になって味わっている。イエス様は、そこへと私たちを招いておられるのです。
この事を、さらに明確に語っているのが、今日の新約の御言葉、ペトロの第一の手紙の2章18節以下の御言葉です。ここは「召し使いたち、心から畏れ敬って主人に従いなさい」という勧めの言葉で始まっています。この「召し使いたち」というところは、以前の口語訳聖書は「僕(しもべ)たち」と訳していました。「僕」というのは「奴隷」のことです。自由も人権も無いのが奴隷です。自分では何一つ決めることが出来ない。生き死にまでも、すべてが主人次第、それが奴隷です。不思議なことに、初代キリスト教会で、最初に洗礼へと導かれてキリスト者になったのは、奴隷身分の人たちでした。主イエスが命の代価を払って「まことの主人」になってくださる。このメッセージが奴隷たちの心を捉えたからです。
以上のような背景のある事を踏まえて、第一ペトロの言葉を読んでみると、どうでしょうか。
「召し使いたち、心から畏れ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、気難しい主人にも従いなさい。不当な苦しみを受けても、神のことを思って苦痛に耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ち叩かれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょうか。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたは、このために召されたのです。キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を示されたからです。」
いかがでしょうか。「苦しみを受け」という言葉が何度も繰り返されています。奴隷の生活が、いかにもリアルに語られていることに気が付かれたと思います。気難しい主人というのがリアルです。まさに毎日が忍耐の連続だったのです。しかし、第一ペトロは「そんな酷い主人から逃げなさい」とは言ってはいない。3章9節で、ペトロはこう勧めを語っています。
「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです。」
なぜ、このような途方もない忍耐を勧めるのでしょうか。この問いに、ペトロは「主イエスこそ、苦しみを受けられたからだ」と答えています。主イエスこそ、あなたがたより先に苦しみを受け、それに耐えられた。主イエスこそ、不当な苦しみを受け、最後まで苦しみに耐えられた。それは何のためであったか。あなたがたのため、あなたのためであった。だから、ペトロは、こう言います。
「この方の打ち傷によって、あなたがたは癒されたのです。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。」
この言葉を聞いているのはキリストと出会い、導かれてキリスト者となった奴隷たちなのだと申し上げました。中には無慈悲な主人に理不尽な目に遭わされることもあったでしょう。不当な疑いをかけられて、鞭打たれることもあったのです。しかし、あなたがたは既に贖われて救われている。キリストが苦しみを受けてくださって、命の代価を支払って、あなたがたを贖い取ってくださった。だから、あなたがたはキリストに結ばれて、キリストの軛を負いなさい。フィリピの信徒への手紙の1章29節に、こんな言葉があります。
「なぜなら、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているからです。」
キリストが私たちのために苦しみを受けてくださった。それによって、私たちはキリストと共に苦しむことも、恵みとして与えられている。使徒信条が「苦しみを受け」と語る。そのことの背後には、このような生き方が恵みとして秘められている。キリスト者としての証しの生活が、ここから始まります。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
4月13日(日)のみことば
「地の果てまで、すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。」(旧約聖書:詩編22編28節)
「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪は皆、中から出て来て人を汚すのである」(新約聖書:マルコ福音書7章20~23節)
汚れを忌み嫌い、遠ざけることで自分の清さを保とうとする考えは、古今東西、多くの民族に共通するものです。そこに共通する思いは、汚れは外から来る、他者から来るという考え方です。こういうものに触れたら汚れるとか、こういう物を食べたら汚れるとか、ああいう連中と交わると、こっちまで汚れるとか。汚れたものは常に他者であり、外にある。だから私たちは「汚らわしい」という言葉を、いつも他者のことを言う時に使う。イエス様は、そういう人の心を見抜いて、今日の御言葉を語られました。
これは、汚れは外にあるという考えに対する根本的な批判であると思います。あなたを汚すのは、外にあるものではない。他者があなたを汚すのではない。あなた自身が、あなたの心の中にある思いこそが、あなたを汚す。イエス様が言っておられるのは、要するに、汚れを他人のせいにするなということです。あなたの心の思いが、あなたを汚している。これは、言い換えますと、ほかでもない、あなた自身が汚れている、ということです。これは、他人こそが汚れているという確信を心の中に隠し持っている私たちへの根本的な批判であると思います。