聖書:出エジプト記20章1~17節・コリントの信徒への手紙二3章6節
説教:佐藤 誠司 牧師
「神はこれらすべての言葉を告げられた。『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。』」(出エジプト記20章1~3節)
「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。」(ローマの信徒への手紙8章2節)
今日は出エジプト記20章が伝える十戒の御言葉を読みました。十戒といえば、これはもう典型的な律法の言葉です。十戒と聞けば律法を連想する。律法と聞けば十戒を連想するという人は多いと思います。律法、十戒というと、なんだか堅苦しい印象を持たれる方もおられると思います。そこで今日の説教題にも、違和感を持つ方もおられるのではないかと思います。
「福音としての律法」という題を付けました。私たちは常々、福音と律法は対立するものだと教えられてきました。特にパウロの手紙、ローマ書やガラテヤ書においては、そのことが繰り返し語られています。ところが、そのパウロが、ローマ書の8章2節で、不思議なことを語っています。
「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。」
ここに「法則」という言葉が二度、出て来ていますが、じつは、これは「律法」という言葉です。事実、新約聖書のほかの箇所では、この言葉は「律法」と訳されております。「律法」と訳されているほうが、ずっと多いのです。ところが、先ほどのローマ書8章2節に出て来るこの言葉を「律法」と訳しますと、なんだか意味が通りにくくなる。そこで少々意味を補足し、意訳をして、「法則」という翻訳にしたのでしょう。おかげで、ずいぶんとこなれの良い日本語になったと思います。
ところが、意訳というのは分かりやすさが増す反面、原文のニュアンスを逃したり、著者の意図を見逃したりすることがある。ここも、そうでありまして、パウロという人は、やはり「律法」というつもりでこの言葉を書いたのではないかと思います。
さあ、そうしますと、ここには二通りの律法がある、ということになります。一つは「罪と死の律法」です。私たちが普段「律法」とか「律法主義」と呼んでいるのは、この「罪と死の律法」のことです。それに対して「命をもたらす霊の律法」、そういう律法があるのだと、パウロはここで言っているわけです。元来、聖書のメッセージというのは、一つのものです。聖書それ自体が対立して分裂するということはない。聖書は一つなのです。ですから、私たちは、旧約聖書も福音を語る書物として受け取る必要がある、ということです。
そこで、パウロが言う「命をもたらす霊の律法」とはどういうことなのか、その一点を、もう一度、旧約の律法に帰って、ご一緒に考えてみようと思うのです。そこで律法の中で最も基本的なものと言われる十戒に立ち帰って、ご一緒に学んでみたいと思います。
「十戒」というと「十の戒め」と書きますから、いちばん初めの「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という第一の戒めから始まるのだと考える人が多いと思います。確かに、戒めの条文としては、「十戒」はこの第一の戒めから始まるのですが、条文というのは、それだけを取り出しますと、本来の心から離れて単なる規則になってしまう。そういう一面があると思います。条文というのは、例えは悪いですが、要点だけをまとめたメモのようなものであって、条文の背後には、その条文を導き出した「心」というものがあるわけです。その心と条文を切り離してしまったら、十戒が本当に言おうとしていることが分からなくなってしまいます。
では十戒が本当に言おうとしていることは何かと言いますと、今日読んだ出エジプト記20章の1節と2節に、こう書いてあります。
「神はこれらすべての言葉を告げられた。『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。』」
この言葉がまずあって、そこから「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という第一の戒めに続いていくわけです。ですから、この第一条は、その前の「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という言葉と決して切り離してはならない。これが一つ、大事な点です。
どうして切り離せないのかと言いますと、イスラエルの人々はもともと、エジプトで奴隷の状態だった。その彼らを神様が愛して、モーセを遣わして奴隷の家から導き出してくださったのです。
今日は出エジプト記20章を読んだのですが、その前の19章には、さらに詳しく、別の角度から、神様とイスラエルの人々の関係を語っています。19章の3節以下をお開きになってください。
「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。『ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た。わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。』」
これを読みますと、神様がいかにイスラエルの人々を愛し、御自分のものとして責任を負い、彼らを守り祝福してくださったかが分かります。どうして、そのようになったかと言いますと、ずっと前に戻って、モーセが初めて神様と出会った時に「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われました。さらに元をたどれば、いちばんの元は「わたしはあなたを祝福する。あなたは祝福の源になる」というアブラハムに対する神様の約束なのです。この言葉の通りに、神様はエジプトで奴隷になっていたイスラエルの人々を救い出し、手厚く導いて、このシナイ山まで連れて来られたのです。今、神様はそのことを人々の前で明らかにして、彼らにそのことを確認させようとしておられる。神様がここで求めておられることは何かというと、「わたしの愛を本当に受け入れてほしい」ということ。それに尽きるのです。
ですから、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」というのは、何か国の法律のように、ポツンとそれだけ独立した規則として存在するのではなくて、背後に神の愛がある。願いがある。その愛と願いに応えてほしいというのが、じつは十戒の心なのです。
律法というと、私たちは、ともすれば厳しい命令だと思いがちですが、しかし、この律法のいちばん元になった十戒が、じつは、今お話したように、神様の深い愛の表白であり、イスラエルの人々がその愛に応えてほしいという願いなのです。このことは、じつは、旧約聖書全体を貫いている大事な原則です。これは譬えて言えば、コマ回しをする時のコマの心棒のようなものです。コマにはいろんな部分がありますが、それら全部を支えているのが心棒です。この心棒を中心にして、コマは回ります。
旧約聖書も、これとよく似ておりまして、旧約聖書にはいろんな事が書いてある。そのいろんな事のあれやこれやに目を奪われていますと、いったい旧約聖書というのは何を言っているのだろうと、もう訳が分からなくなってしまいます。確かに旧約聖書に出て来るのは様々な出来事です。しかし、その様々な出来事を通して神様が私たちを愛し、導いておられる。その愛と導きを語っているのが旧約聖書です。
このことをよく言い表している御言葉があります。それは礼拝の冒頭の招きの言葉として読まれることの多いイザヤ書43章の言葉です。
「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」
預言者を通して切々と語られる神様のお言葉が、ここにあります。どんなことがあっても恐れる必要はない。絶望してはならない。なぜならば、天地の造り主である私があなたと共にいるのだから。私が日々、あなたの名を呼ぶ。だから、あなたは私のもの。これが旧約聖書を貫く神様の御心です。
律法と呼ばれるものもまた、この神様の御心の表れです。この視点に立って、私たちは律法をもう一度読み直してみることが大切です。旧約聖書といえば、私たちは、イエス様のお名前も出て来ないし、聖霊も出て来ないので、旧約聖書は父なる神様のことだけを語っているように思いがちです。しかし、じつは、そうではないのです。確かに旧約の時代には「三位一体」ということは、まだ知られてはいません。イエス・キリストが来られて初めて父と子と聖霊の「三位一体」が明らかにされた。それは確かな事です。しかし、三位一体がまだ言われていない旧約聖書において、「神は」と言われる時、あるいは「主は」と言われる時に、それはじつは、この父と子と聖霊なる神様のことを言っているのです。ですから、先ほど読んだイザヤ書で「わたしはあなたを贖う」という言葉は、父なる神様の言葉であると同時に主イエス・キリストのお言葉でもあるのです。
私たちは、このような神の愛の現れとして律法が与えられたのです。ところが、人間はそれを、そのまま素直に受け取ることが出来なかった。こういうところが、罪の支配の下にある人間の避け難い性質なのでしょう。愛の心が込められていた律法を、単なる規則として理解し、法律のようなものとして受け取ったのです。これが、いわゆる「律法主義」の始まりです。
さあ、そうなりますと、いきおい律法は、神様の御心から切り離されて、書かれている条文そのものが権威を持ってきます。そこに書かれていることが、そのまま要求されるわけです。
神の律法とは、元々はそういうものではなかったのです。律法とは、それ自体が絶対のものではなく、むしろそれを通して神様の御心に触れる、そのために与えられた神様からの賜物だったはずです。
もう一つ、私たちが律法を読む時に、気を付けておかなければならないことがあります。私たちが律法の細々とした規定が書かれた部分を読むと、こんなことがいつまでも要求されたら大変な事になるぞと思うような事柄が結構たくさん出て来ます。今の私たちの生活には全く合わないし、常識的に考えて、こんなことやったら大変なことになる。そういうことがたくさん出て来ます。そこで思うのですが、じゃあそれらは神の言葉ではなかったのかというと、そうではない。それらは荒れ野の旅をして、やっとカナンの地に入って、これから国を建てて行こうとする、その時期に、どうしても必要な事だった。あの大変な条文の背後には、そういう歴史的な事情があったわけです。
それが歴史的な状況を離れて絶対視されると、おかしなことなってしまいます。また、律法が神様との生きた関係という土台から離れて、律法の条文自体が絶対視されますと、それは人間に死をもたらすものとなってしまいます。今日読んだコリントの信徒への第二の手紙の中で、パウロは「文字は殺しますが、霊は生かします」と言いましたが、その「文字」というのは文字として書かれた律法のことです。それに対して「霊」というのは律法の背後にある神様の愛の御心のことです。
皆さんも聖書を読んでいてお気づきでしょうが、聖書の言葉というのは、一つ一つを別々に取り上げると、これはどう受け取ったら良いのか困惑するほど多種多様です。前に言ってたことと後に出て来たことが矛盾する、なんてことが、いっぱいあります。しかし、聖書は本来、神様がこの聖書の言葉を通して今語ってくださるという前提のもとに書かれたものです。私たちの神様は語り給う神です。それに対して、偶像のことを「物言わぬ偶像」といいます。偶像礼拝というのは、詰まるところ、人間の宗教心や願いが造り出したものです。一つ一つの像がいかに芸術的に優れたものであっても、それは所詮、人間の心の反映です。しかし、聖書は天地の造り主である神様が今、私たちの語りかけておられる。私たちは聖書の言葉を通して神様の語りかけを聞く。礼拝で聞くのです。そのことを心に刻んで、ご一緒に礼拝生活を送りたいと思います。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
11月17日(日)のみことば
「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」(旧約聖書:詩編103編2節)
「主よ、見えるようになりたいのです。」(新約聖書:ルカ福音書18章41節)
今日の新約の御言葉は、エリコの町で起った主イエスと盲人との出会いを伝えています。主イエスは彼に「何をしてほしいのか」とお尋ねになった。その問いに盲人が答えたにが、今日の御言葉です。彼はハッキリと答えました。心の中で「見えるようになったら良いのにな」と願っているのと、主イエスに向かって「主よ、わたしは見えるようになりたいのです」と言葉にして言うのとでは意味が全然違います。
心の中で願うことは、誰にも出来ることです。しかし、主に向かって願うことは、信じていなければ出来ないことです。「主よ、あなたにはそれがお出来になります」という信仰が無ければ、言えないことです。主イエスというお方は、そこまで導いてくださるのです。主イエスは彼におっしゃいます。
「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」
すると、彼はたちまち見えるようになって、神を賛美しながら主イエスに従ったのです。