聖書:イザヤ書50章5~7節・ヨハネによる福音書19章1~16節
説教:佐藤 誠司 牧師
「そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、『お前はユダヤ人の王なのか』と言った。イエスはお答えになった。『あなたは自分の考えで、そう言うのか。それとも、ほかの者が私について、あなたにそう言ったのか。』ピラトは答えた。『私はユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前を私に引き渡したのだ。一体、何をしたのか。』イエスはお答えになった。『私の国は、この世のものではない。もし、この世のものであれば、私をユダヤ人に引き渡さないように、部下が戦ったことだろう。しかし実際、私の国はこの世のものではない。』ピラトが、『それでは、やはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『私が王だとは、あなたが言っていることだ。私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。』ピラトは言った。『真理とは何か。』」 (ヨハネによる福音書18章33~38節・聖書協会共同訳)
今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を少しずつ学んでいます。使徒信条はまず父なる神、造り主なる神を信じる信仰を語りました。次に使徒信条は、父なる神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰を語ります。この部分は、次のように語られます。
「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、」
ここまで読んで、皆さん、何か気付かれたでしょうか。これは多くの人が指摘することですが、使徒信条は「処女マリアより生まれ」というふうに、主イエスの誕生を語ったと見るや、すぐさま「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という具合に、主イエスの受難について語っている。福音書が語っているように、誕生と受難の間には、主イエスのなさった様々な御業があり、お語りになった珠玉のようなお言葉があります。多くの人が、それらを心に刻んでいます。信仰の支えにしたり、愛唱聖句にしたりしています。ところが、使徒信条は、それらをものの見事にすっ飛ばして、誕生から急転直下、受難へと突き進む。これには、どのような意味が秘められているのでしょうか。また、使徒信条が母マリアと並んでポンテオ・ピラトの名前を出すことには、どのような意味があるのでしょうか。
ポンテオ・ピラトというのは人物の名前です。主イエスが十字架につけられた時にローマからユダヤに遣わされていた総督です。当時、ローマ帝国は地中海沿岸の非常に広い地域を属州として支配しておりまして、ユダヤもその属州の一つでした。その属州を治めるために、ローマ皇帝の権威をそのまま頂く形で遣わされたのが総督でした。ですから、総督というのは属州にあってはローマ皇帝の代理人として、皇帝の権威そのままに振舞った。いわば最高の権威者であり、権力者であったわけです。
今日はポンテオ・ピラトが主イエスを裁いて十字架刑に処すことを決定した、その裁判の有様を知るために、ヨハネ福音書19章の物語を読みました。四つの福音書の中で最も克明に主イエスの裁判を伝えている物語ですが、その前に一つ前の18章の28節以下の事を押さえておきたいと思います。ここに「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った」と書いてあります。彼らは元々は主イエスを大祭司カイアファのもと、最高法院で裁いていたのですが、その裁きを中断して、わざわざピラトの官邸までイエスを連れて来て、引き渡したのです。どうして、そんな手の込んだことをしたのでしょうか。じつはこの当時、ユダヤの国はローマ帝国の属州になっており、ユダヤの最高法院は死刑判決を下す権限が無かったのです。だから人々は、最高法院の裁判を中断してまで、主イエスをピラトの官邸まで連れて来た。これは裏を返せば、彼らは何としても主イエスを死刑にしたかったということです。
ところが、彼らは官邸の外でイエスをピラトに引き渡すと、官邸には入らなかった。どうしてか。ピラトは異邦人です。ユダヤ人である彼らは、異邦人の家に入ることを忌み嫌ったのです。汚れてしまうからです。そこでどうしたかと言うと、彼らはピラトの官邸の門の外に立って、大声でイエスの死刑を要求したのです。
対する主イエスは官邸の中でピラトの審問を受けておられる。官邸の中の主イエスと外にいる人々。この両者の間をピラトは行ったり来たりする。行ったり来たりというのは、言い換えますと右往左往している、ということです。これが、この裁判に臨むピラトの心の揺れを象徴しています。その有様を、聖書協会共同訳聖書で読んでみたいと思います。聖書協会共同訳の言葉の響きを味わっていただきたいと思います。18章の33節以下です。
「そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、『お前はユダヤ人の王なのか』と言った。イエスはお答えになった。『あなたは自分の考えで、そう言うのか。それとも、ほかの者が私について、あなたにそう言ったのか。』ピラトは答えた。『私はユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前を私に引き渡したのだ。一体、何をしたのか。』イエスはお答えになった。『私の国は、この世のものではない。もし、この世のものであれば、私をユダヤ人に引き渡さないように、部下が戦ったことだろう。しかし実際、私の国はこの世のものではない。』ピラトが、『それでは、やはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『私が王だとは、あなたが言っていることだ。私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。』ピラトは言った。『真理とは何か。』」
いかがでしょうか。まさに息を呑むやり取りが交わされています。ピラトは「お前はユダヤ人の王なのか」と問いました。ここに、主イエスが裁かれた罪状がハッキリ語られています。先にも申し上げたように、当時のユダヤの最高裁判所である最高法院は死刑判決を下す権利がはく奪されていました。では、どうすれば、イエスを殺すことが出来るか。リンチでは駄目なのです。正当な裁きを受けて、罪が明確に示されて、罪人として惨めに殺されることが、どうしても必要だった。そこで彼らは、ローマ総督ピラトの権威を利用しようと考えた。ローマの皇帝や総督が、イエスを死刑にしないではおれない罪状を、彼らは考えた。それが「王」だったのです。彼らは主イエスが「我こそがユダヤ人の王」と自称したと訴えたのです。
かくして、ピラトはイエスの審問を始めます。しかし、ピラトは罪を見出すことが出来ない。そこで彼は、次のように言葉を繰り返します。
「私はあの男に何の罪も見いだせない。」
「聞くがよい。私はあの男をあなたがたのところに引き出そう。そうすれば、私が彼に何の罪も見いだせない訳が分かるだろう。」
「あなたがたが引き取って、十字架につけるがよい。私はこの男に罪を見出せない。」
三度も繰り返し「私はこの男に罪を見出せない」と明言しています。ペトロの否認の物語でもそうですが、三度繰り返して明言するというのは、確信しているということです。この確信に基づいて結論を下せば、無罪以外の判決はあり得なかったはずです。しかし、そうはならなかった。ピラトは心ならずも、主イエスを十字架につける判決に行き着くしかなかったのです。どうしてでしょうか。
祭司長や民の長老たちの巧みな心理作戦が、功を奏したからです。「私はこの男に何の罪も見いだせない」と宣言するピラトに、彼らはこう言い募って対抗します。9章の7節です。
「私たちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
「ピラトはこの言葉を聞いてますます恐れ」と書いてあります。「ますます」というのは、ピラトは以前から恐れていたが、この言葉を聞いて、その恐れがさらに大きくなったということでしょう。いったいピラトは何を恐れていたのでしょうか。
権力者というのは、強そうに振舞いながら、じつは内心で恐れているものです。何を恐れているか。自分の権力や権威が地に落ちるのを恐れている。祭司長たちは、それを見抜いていて、そこに揺さぶりをかけていきます。このイエスという男は本当は死罪に当たる極悪人なのだ。自分たちはそれを知っているから、こうしてあなたに訴えている。ところが、あなたは我々の訴えを無視して、この男に罪は見いだせないと言う。この男は「ユダヤ人の王」と自称しているのだ。ユダヤ人の王は今やローマ皇帝ではないか。だから、我々はこの男を訴えている。あならがこの訴えを無視するなら、よろしい、我々は皇帝陛下に訴える。そうしたら、あなたの首があぶなくなる。ローマ皇帝に反逆する者を赦したのだから、あなたも反逆罪に問われるのではないですかと。そう言われるに及んで、ピラトの恐れは頂点に達して、ついに彼は屈服します。これが自らの権威を誇る権力者の末路なのかもしれません。これの、どこに権威があるのでしょうか。権威や権力を振り回す者は、権威・権力を恐れます。ピラトは、こうして祭司長たちの前に屈しました。負けたのです。今や、ピラトが勝つことが出来る相手は、自分が手の内にその命を握っているイエスだけです。そこでピラトは主イエスに向かって、こう強がって言います。
「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか。」
自らの権威と権限を誇ってはいますが、私はこれは空しい言葉だと思います。しかし、私は、この虚しさ、弱さこそが、使徒信条が「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と述べたことの、本当の意味ではないかと思います。ピラトは権威を誇る権力者です。しかし、それと同時に、ピラトは、まことに弱い罪人でもあります。強そうに、偉そうに見せかけてはいますが、内心は恐れに震えている。弱い人を裁きます。しかし、強い人を恐れます。あの人にこう言われるのが怖い。この人にこう見られるのが恐ろしい。いつもビクビクしている。それなのに、威張れるところでは、結構ふんぞりかえって威張っている。このように考えますと、ピラトというのは、案外、私たちの分身であり、私たちの代表者なのかもしれません。使徒信条は「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と語ります。しかし、これは他人事ではない。私たちの中にも、ポンテオ・ピラトはいるのです。
先日、栄冠幼稚園で、こんなことがありました。先生方の学びの会での出来事です。この日、学んでいたのは3月の聖句、「そこで人々はイエスを十字架につけた」という聖句です。学びの中で、私は彼女たちに訊きました。
「この人々って、誰のこと?」
いろんな答えが返ってきました。じつは1月の学びでユダの裏切りのお話しをしていました。そこで「ユダではないか」という答えが真っ先に返って来ました。イエス様を見捨てて逃げた弟子たちもそうじゃないかという答えもありました。イエス様を憎んでいる指導者たちという答えもありました。皆、なるほどという答えです。しかし、私は彼女たちに問い返しました。
「でも、それって『あの人のせい』『この人のせい』ってことじゃないの? 本当にそれでいいのか?」
沈黙が流れました。その中で、本当に小さな声でしたが、ある先生がこう言ったのです。
「私も、ですか。」
「私もですか」と言ったのです。これは、この人が聖書を読めるようになった瞬間です。今の今まで、ユダが裏切ったからとか、ペトロが逃げたから、律法学者や祭司長たちが訴えたから、というふうに、いわばあの人たちのせいでイエス様は十字架につけられたのだと思っていた。それは、言ってみれば他人事の読み方だった。それが変わった。自分との関わりの中で読み始めた。その時、この人の口から「私のせいでも、あるのですか」という思いが出たのです。
しかし、本当を言えば「私のせい」で止まっていては、いけない。皆さん、なぜだか分かりますか。「私のせい」から一歩進んで、「私のために」に至る。私のために、主イエスは十字架についてくださったのだと解る。そこに立つことが大事です。
私たちも同じです。使徒信条は「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と語ります。ピラトを他人事として読むのではない。私の中にひそむ小さなピラトがいます。弱いピラト、醜いピラト、人を裁くピラトが、私の中にもいます。そのことを認める。主イエスは私のせいで苦しみを受けてくださったことを認めるのです。そして、そこから一歩進んで「イエス様は私のために苦しみを受けてくださったのだ」と感謝をもって認める。私はそこに使徒信条が語る信仰があるように思うのです。
栄冠幼稚園の入園式が行われました
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
4月6日(日)のみことば
「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。」(旧約聖書:詩編51編14節)
「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。」(新約聖書:使徒言行録2章22節)
今日の新約の御言葉は、聖霊降臨の出来事の直後にペトロがエルサレムの人々に語った説教の一節です。決定的な瞬間が、ここに描かれています。ペトロたち、キリストの弟子たちが、キリストを語り始めたのです。これは今までなかったことです。今までは、福音書が描いてきたように、キリストが語ってこられたわけです。それが今や、キリストを語る時代に突入した。キリストが語る時から、キリストを語る時へ。つまり「教会の時」が到来したのです。しかも、そこで何が起こっているかと言うと、キリストを語りつつ、その中で、キリストが語ってくださる。キリストを語る弟子たちの言葉の中で、まさにキリストご自身が語ってくださる。そういうことが起こってくる。これが今も変わらない「教会の時」の特徴です。
ペトロの説教は神が主語となって語られています。これはどういうことかと言いますと、主イエスの十字架と復活のすべてが、神様のご計画であったのだと、初代教会の人々は語っていたということです。主イエスを捕らえ、偽りの裁判にかけて、ピラトに訴えた人々の行いさえも、神の深いご計画の中にあったのだと、ペトロが語った。それは、主イエスを死に追いやった人々も、救われるためです。