2017年12月14日

「 よろこびのしるし 」

今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
 
(ルカによる福音書2章11節)
 
福音のメッセージが貧しい羊飼いたちに告げられました。
布に包まって飼い葉おけの中に眠る乳飲み子、これが「あなたがたへのしるしである」と天使は羊飼いたちに告げます。「しるし」とははっきりと目に見える形で神様が起こされた救いです。人が信じても信じなくても神様から一方的に与えられた「救い」なのです。
 
羊飼いたちは天使のお告げを聞くと、「その出来事を見ようではないか」とベツレヘムを目指します。そして彼らは、この幼子のことを街の人々に知らせます。
主の言葉が「出来事」として、歴史的事実となって世界の人々に福音として伝えられたのです。
先日、教会の婦人会の人たちを中心にキャロリングが行われました。お年寄りが暮らすホームでクリスマスの讃美歌を歌いました。
それは、羊飼いたちがしたことと同じ、クリスマスの嬉しい出来事を多くの人たちに知らせるためです。
 
イエス様の御降誕が、すべての人にとっての大きな喜びであることを、私たちも人に伝えることが出来たらいいですね。
 
 
今日は「へいしのなみだ」という絵本を紹介しました。
(こぐま社 文さとうひでかず・しなこ 絵つかさおさむ)
 
キリスト伝説集を元にしたこの物語は、イエス様がお生まれになったベツレヘムでの、一人の男の子と兵士の出会いのお話です。
とても鮮やかな色彩の絵が印象的な心に残るクリスマスの絵本です

次回のお知らせ   1月27日(土)

2017年11月16日

「 家と土台 」

「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」

(マタイによる福音書7章24節~27節)

イエス様の話の中に出て来る言葉は、はっきりしたものが多いです。

今日の御言葉では、「岩の上」と「砂の上」、「賢い人」と「愚かな人」のように、はっきりと対比されて語られています。

建物を建てる時必要なものに「足場」と「土台」がありますが、皆さんはその違いがわかりますか?「足場」は建物が出来上がると取り外されます。

「土台」は建物が建つうちに見えなくなりますが、建物を支えています。目には見えませんが、しっかりと残っています。

パウロもまた、Ⅰコリント3章で「土台」について語っています。

「イエス・キリストというすでに据えられている土台」と彼は言います。

それは決して揺るがぬ土台です。足場ではありません。

私たちもそんな土台の上に立ち上げていきたい。そんな歩みをしていきたいですね。

今日は 絵本「にぐるまひいて」を紹介して頂きました。

(ドナルド・ホール文 バーバラ・クーニー絵  もき かずこ訳)

何もかもが手作りの、大自然の中での家族の暮らし。そこには厳しいけれども、今では手に入れることの出来ない、豊かな人々の暮らしがあります。

アメリカの古き時代の、ある一家の一年間の営みが、優しい絵と素朴な文で語られ、心あたたまります。

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食べること 生かされること

2017年10月18日

「主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、『起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ』と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。」

(列王記上19章7節)

今日のオリーブの会は長い闘病生活を乗り越えて無事退院した一人の姉妹の証しから始まりました。いただいた梅干で作ったおかゆのおいしかったこと、食べられることの有り難さが身に沁みたこと、食事と食材を作ってくれた人への感謝に満たされたこと。それらの経験をとおして、食べることと生かされることが一つに重なったことを、心ふるわせながら語ってくださいました。

この証しに導かれるようにして開かれた御言葉が列王記上のエリヤの物語でした。必死の努力も空しく、命を狙われる身となったエリヤは今、無力感に捕らわれて、御言葉を聞くことも動くことも出来ずに、横になっています。そんなエリヤに神様は食事を与えて養おうとなさいます。そして生きる力を回復したエリヤは立ち上がり、歩み始めて神の山ホレブに、つまり信仰の原点に立ち返るのです。

私たちを生かし、日々食事を整えてくださる神様は、食べることによっても私たちを信仰の原点へと立ち返らせてくださいます。この大切なメッセージを聖書の御言葉と一人の姉妹の証しとによって生き生きと示された、幸いなひとときとなりました。

今回は 「さるのひとりごと」という島根県に伝わる民話を読みました。

( 文 松谷みよこ  絵 司修 )

一匹のさるが山から降りて、海に行きました。そこで起こった、

少しびっくりするような物語は・・・。

お話が終わったあとも 「このあとどうなったんだろう?」と、

皆興味しんしんで、それぞれその続きを考えてしまいました。

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何をしてほしいのか

2017年9月28日

「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。」

(ルカによる福音書18章35~43節)

以前、金沢の幼稚園の子どもたちと、この場面について話したことがあります。

この盲人が道端に座っていたのは、物乞いのためではないのです。

目は見えませんが、イエス様が近づく音がすぐに聞こえるように、道端に座っていたのです。

でも人々は物乞いかと思って、お金をあげました。

さて、お金をもらってこの人は、嬉しかったんでしょうか?

そんな質問に子どもたちは 「お金をもらっても、嬉しくない」と答えました。

町の人たちは、盲人の気持ちを何も聞くこと無く、お金がほしいのだと思いました。

でもイエス様は、この盲人の叫ぶ声を聞き、「何をしてほしいのか」と問いかけます。

「目が見えるようになりたいのです」という盲人のストレートな願いに、イエス様は

「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」と言われます。

私たちも 「何をしてほしいのか?」というイエス様の言葉を、自分に向けられた問いとして聴き、

祈りの中で自分の願いをストレートに、素直に出していくことを求められているのではないでしょうか。

今回は 「天使にラブソングを2」の映画に出てくるゴスペルソングを紹介して頂きました。

「 Oh Happy Day 」と 「 Joyful , Joyful 」の2曲を日本語訳を読みながら聴きました。

What  have you done for  Him lately?

( あなたは最近、神様のために どんな事をしましたか?)

He watched over everything , So we sing!!

( 神様は すべてを見ておられます、だから私たちは歌うのです!! )

「 Joyful , Joyful 」より

主をほめたたえる その力強い歌声に、心を打たれました。

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ブレない聴き方

2017年8月31日

「ひとつのことを神は語り、ふたつのことをわたしは聞いた。」 

(詩編62編12節)

先日 「神のわざが現れるために」(ヨハネ9-3)というテーマで 中高生キャンプが行われました。

生まれつきの盲人を見たイエス様の弟子たちは 「この人が生まれつき 目が見えないのは、本人が罪を犯したからか、それとも両親か?」とイエス様に尋ねます。

過去のことを振り返って、誰かのせいにする生き方や、因果応報的な考え方は、今も昔もあまり変わっていないかも知れません。

イエス様は、このようにお答えになります。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

中高生たちは、聖書のみことばを真正面から ブレずによく聴いています。

私たちはどうでしょうか? 神様のメッセージをしっかり聴いているでしょうか?

神様は 一つのことをブレずに語っています。しかし、私たち大人が聴く時 しばしばブレていくことがあります。そして ブレがひどくなり、二つのことになっていきます。

エバは、神様から 「善悪の知識の木の実を食べると死んでしまう」と聞いていましたが、蛇の誘惑にあった後「食べても死なないのでは?」と思い込み、木の実を食べてしまうのです。

私たちも、中高生たちのように ブレない聴き方に立ち返ることを学んでも良いのではないかと思わされます。

今回は 「深呼吸の必要」(長田弘)の詩集を紹介しました。(晶文社)

「言葉を深呼吸する。あるいは、言葉で深呼吸する。そうした深呼吸の必要をおぼえたときに、立ちどまって、黙って、必要なだけの言葉を書きとめた。そうした深呼吸のための言葉が、この本の言葉の一つ一つになった。」(後記より)

深呼吸が必要になったら、開いてみて下さい。

次回のお知らせ  9月28日(木)

園庭のざくろ

神に願いを言う

2017年7月29日

「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間 病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。」

(ヨハネによる福音書5章1~9節)

今日読まれた聖書は、イエス様がベトザタの池で 病人をいやされたという物語です。

池の水が動く時に、真っ先に池に入ると 病いがいやされると言われていたため、そこには大勢の病人が横たわっていました。イエス様は、38年も病気で苦しんでいる人に「良くなりたいか?」と言われます。その問いに対し、彼が言ったのは「水が動く時、私を池の中に入れてくれる人がいないのです。」という失望の言葉でした。長年にわたる絶望的な状態の中で、願いや望みをもつこともあきらめてしまった嘆きの言葉のように思います。

以前 佐藤牧師が金沢の幼稚園で、この話をした時に、1人の園児が「みんなで手をつないで、せーので一緒に池に入ったら みんなが一番になるよ」と言ったそうです。

子どもたちは 自分がその物語に入り込んで、大人が思いつかないような発想をしますね。

イエス様の前に、自分の願いや思いを素直に出していいんです。そんな大切なことを 子どもたちから教えられることがあります。

今回は 佐野洋子さんの有名な絵本「百万回生きたねこ」を読みました。

百万回も死んで 百万回も生きた、どこかふてぶてしい顔をしたとらねこは、沢山の子どもと大人に愛され続け、私たちに何か大切なことを教えてくれますね。

次回のお知らせ   8月31日(木)

食べるということ

2017年6月22日

「あなたがたは 食べるにしろ飲むにしろ 何をするにしても すべて神の栄光を現すためにしなさい」

(第一コリント10章31節)

聖書の中には 食べる場面が多く出て来ます。聖書の中に出て来る「食べる」という営みは 「食物を摂取すること」に限定せず 「食べて 生かされる」ということを意味しています。

「戦場のピアニスト」という ワルシャワを舞台にした映画があります。ユダヤ人の青年ピアニストの物語ですが 家族がバラバラになる直前 お父さんが一つのキャラメルを切って 家族みんなに分けるという場面が出て来ます。最後の食卓を 一つのキャラメルを前に みんなで囲むのです。このお父さんは 「食べること」は「生かされること」だということを知っていたのでしょう。だからこそ 一つのキャラメルをみんなで食べることによって これから家族がバラバラになったとしても 心は繋がっていて それぞれが生きていくことが出来る。そのような思いが込められていたのかも知れません。

私たちは 食べる時、生かして下さる神様が、共におられることを信じたいと思います。

今回は トルストイの民話 「七つの星」という絵本を紹介しました。

( 文 岩崎京子  絵 小野孝一  女子パウロ会 )

心優しい少女と、夜空の星座にまつわるロシアの民話を元にした 美しい物語でした。

次回のお知らせ   7月29日(土)

イエス・キリストを土台として(母の日を思う)

 

 

 

2017年5月19日

「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」

(コリントの信徒への手紙一3章11節)

5月の第2日曜日は母の日でした。私たちクリスチャンは1年に1度でなく、常に「母」に感謝するものですが、賛美歌には「母の日」にまつわるものがいくつかあります。

510番(1955年版) 「まぼろしの影を追いて」から始まるこの賛美歌は特に4番の
「汝がためにいのる母の いつまで世にあらん
とわに悔ゆる日のこぬまに とく神にかえれ
春は軒の雨 秋は庭の露 母はなみだ乾くまなく 祈ると知らずや」は
特に母親にとってたまらなく胸が痛くなる詞です。かつて学生時代に歌った「母の日」の賛美歌が、母となった今、また別の響きをたてるのが興味深かったです。「母」だけでなく「姑」も「義母」も「はは」と読ませる日本的習慣の中、冒頭に挙げた聖句が人間関係の土台となってくれたならと心から願います。そんな切なる願いがにじみ出た今回のオリーブの会でした。

今回の本の紹介は「100万回生きた猫」で有名な佐野洋子さんの“ヨーコさんの言葉”(北村裕花 絵)。なんとも切ない人と人の関係をにじませつつも、絵本のような楽しい本でした。

次回のお知らせ   5月19日(金)

罪を清めてくださる方

2017年4月20日

イースターおめでとうございます。
4月16日(日)は喜びのイースター礼拝を守ることが出来ました。今年は朝一番に教会学校の子どもたちが会堂内に玉子を隠し、主日礼拝後に大人たちが探すという新趣向のイースターエッグ探しを楽しみました。礼拝後のイースター祝会は多くの方が集い、嬉しいひと時でした。
今日のオリーブの会は、イースターの朝、一人の婦人がもって来てくださった鉢植えの「ヒソプ」から御言葉を聞きました。

「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。わたしが清くなるように。わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。」

(詩編51編9節)

罪の赦しを得させる犠牲動物の血がヒソプの枝で人々に振りまかれたこと、

私たちはそれよりも尊いキリストの血潮で罪赦されている恵みを、この詩編をとおしても知ることが出来ました。
また今では歌うことの少なくなった讃美歌「うるわしのしらゆり」を賛美し、しらゆりとキリストの復活とのつながりを聞くことができ、なつかしい時間を持つことができたことは感謝でした。

来月のお知らせ  5月19日(金)

見えるものと見えないもの

 

2017年3月9日

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

(コリントの信徒への手紙第二14章18節)

この世では目に見えるものに大きな価値を見出します。でも、目に見えないものを見つけ大切にすることで、どんなに心が豊かになってくることでしょうか。
愛する心・信じる心・勇気・・・これら「分けると増えるもの」を大切にしたいものです。
今日は岩手県の障害者施設のカナンの園について書かれた本で話が広がりました。
そこに紹介された「ちいむれ牧場」には、みんなから相手にされなくなった動物たちが大切に育てられているそうです。
でもその一匹一匹が、愛情をもって育てられることによって、皆を励ましてくれたり、
元気づけてくれたりする大きな存在となっていきます。
この世的には価値観のないものかもしれませんが、こんな動物たちがいることをもっと知っていきたいものです。

来月のお知らせ 4月20日(木)

写真は今回のオリーブの会の最後に登場した牧師館のアイドル、チワワのモモちゃんです。

必要なことはただ一つ

2017年2月23日

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」

(ルカ福音書10章38~42節)

マルタとマリアの姉妹の物語です。主イエスとその一行をもてなすために忙しく立ち働くマルタに対して、マリアは男の弟子たちに混じって主イエスの前に座り、主の御言葉に聞き入っている。冒頭に挙げたのは心乱すマルタに向かって主イエスが言われた言葉ですが、これを今の私たちに向けて語られた言葉として聞けるか否か。そこにこの日のオリーブの会の急所はあったと思います。
私たちも日々の生活の中で様々なことに思い悩み、時に心を乱してしまいます。しかし、そんな私たちに、主イエスはやさしく語りかけてくださいます。
「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」
会の終わりに、一人の姉妹の「聞かれない祈り」「かなえられない願い」の悩みを丁寧に聞けたことも、この日の恵みでした。このことを通しても「必要なことはただ一つ」の御言葉を心に刻むことが出来ました。感謝です。

来月のお知らせ  3月9日(木)

生き方を主に委ねて

2017年1月21日

「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

(ルカ福音書17章11~19節)

新年最初のオリーブの会はこの御言葉で始まりました。十人の病人が癒されるお話です。十人が十人とも、主イエスを信じ、主イエスに癒され、喜びました。しかし、主イエスのもとに帰って来て、御前にひれ伏し感謝をささげたのは、ただ一人のサマリア人でした。何が九人と一人を分けたのでしょうか。そのヒントは、この日、歌った讃美歌の中にあるように思います。
「過ぎ去った 日々の悲しみ
さまざまな うれいはすべて
キリストの み手にゆだねて、
み恵みが あふれるような
生きかたを 今年はしよう。」(讃美歌21―368番2節)
懇談では、様々な祈りの課題が出ました。反抗期の我が子を持つ姉妹、未信者の家族を持つ姉妹など、課題は様々ですが、共に歌った讃美歌のように、また、あの帰って来たサマリア人にように、すべてを主の御手に委ねるものでありたいと心から願う、幸いなひとときでした。

本の紹介は「アンが愛した聖書の言葉」(宮葉子)が御言葉と共に読まれ、共感を誘いました。

来月のお知らせ  2月23日(木)

心の扉にノックを・・・・