2018年12月6日(木)

「 クリスマスおめでとう 」

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

(ルカによる福音書1章26節~38節)

待降節に入りました。新年の挨拶を辞退する葉書を見るたびに思い出す言葉です。

毎年この時期になると、金沢のキリスト教幼稚園の子どもたちが、百貨店のステージでクリスマスソングを披露します。

子どもたちの元気な歌声と「メリークリスマス!」の声が響きます。

「メリークリスマス」の挨拶は、「おめでとう」という意味があります。

子どもたちの歌声の中に喜びがあふれています。

日本では、悲しんでいる人におめでとうを言ってはいけないという文化があります。

しかし天使がマリアに言った「おめでとう、主があなたと共におられる。」という言葉は、悲しんでいる人、苦しんでいる人、泣いている人に向けられたメッセージです。

クリスマスの「おめでとう」は「主があなたと共におられる」という喜びのメッセージであり、すべての人に告げられる救いの知らせなのです。

今年の最後に、このメッセージを聴きましょう。

今回は 「 やまあらしぼうやのクリスマス 」という絵本を紹介しました。

( グランまま社 )

どうぶつのこどもたちが クリスマスのげきをするきせつ、やまあらしぼうやは、げきに出たいと思っています。でも、ほかのどうぶつたちは やまあらしぼうやを

「 とげとげボール! 」と言ってからかいます。

泣いているぼうやにおかあさんは 「 ぼうやはおかあさんの こころのひかり 」 と言ってだきしめました。

さてクリスマスの日、ぶたいがかりとそうじがかりだったやまあらしぼうやに、びっくりすることがおこりました!

次回の予定      1月31日(木)

2018年11月8日(木)

「 願うことと 必要なこと 」

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。」

(マタイによる福音書6章8節)

私たちは神様に向かって、今必要なことを願ったり祈ったりします。

しかし神様は、私たちが今願うことではなく、本当に必要なものをあたえて下さいます。

私たちが思うこととは全く違う方向に、道が開かれて来ることがあります。

後になってみてから、思っていたこととは違っていたが、良い方向が示されていたということがわかるのです。

ルカによる福音書に、ザカリアの物語があります。洗礼者ヨハネの父であるザカリアは、幼子誕生の知らせを信じることが出来ませんでした。彼は、ヨハネの誕生まで言葉を奪われ、話すことが出来なくなりました。沈黙が与えられ、彼は黙想しました。

ヨハネが生まれた時「ほめたたえよ」と預言の言葉が出て来ました。

奪われたのか、与えられたのか。奪われたようだけれど、与えられていることがあります。自分の願うものではないが、必要なものが与えられるのです。

ヨブ記では、ヨブの問いかけに対しての神様の答えは、それ以上の深い呼びかけとなって返ってきます。

私たちは神様に問いかける時、物語の登場人物が、 「鏡よ 鏡よ」と問いかけるように、自分が期待している答えを求めていないでしょうか。

求めるものがそのまま返って来ないけれど、それよりももっとふさわしいものが与えられていたことが、後になってからわかるということはしばしばあるのではないでしょうか。

今回は 「 マローンおばさん 」 (エリナー・ファージョン こぐま社)

というポエムストーリーを紹介しました。

ひとりぼっちのマローンおばさんのもとに、弱った森の動物たちが次々訪れます。

マローンおばさんはそんな動物たちを、いつも「あんたの居場所くらい、ここにあるよ」と喜んで迎え入れ、自分のわずかな持ち物や食べ物を分け与えます。

そんなマローンおばさんの生き方に、

「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」

というコリントⅡの御言葉を思い出しました。

次回の予定      12月6日(木)

2018年10月11日(木)

今回のオリーブの会では、あまり人数が集まらなかったので、今後の会の予定などを話し合いました。また、殺処分から救出された犬たちがセラピードックとして活躍し、お年寄りの心のケアや機能回復のために働いてくれているという新聞記事を読みながら、それについての話をしました。

次回の予定      11月8日(木)

2018年9月19日(水)

「子供たちをわたしのところに来させなさい。」

2015年9月11日に「信仰を語る女子会」として再発足したオリーブの会ですが、今月で3年目を迎え、今日が37回目となりました。

出席者が少ない時もありましたが、毎月欠かさず行うことが出来たことは感謝です。これからもこのオリーブの会が恵み豊かな場として活動していくことが出来るよう祈っていきたいと思います。

人々が子どもたちをイエス様のもとへ連れて来ました。弟子たちはこの人々を叱りました。すると、イエス様は

「子どもたちをわたしのとことに来させなさい」

(マルコによる福音書10章14節)

「来させる」というのは「連れて来る」こととは違います。「連れて来る」のは、体を引っ張って連れて来るのです。しかし、「来させる」というのは、子どもの心に働きかけて、自分で来ようとするのを妨げないようにと、イエス様はそう言っておられるのです。

子どもは自分の疑問をストレートに聞いてきます。ある子どもが「ぼくらのやってる献金が先生の給料になるのんか」と訊いてきました。否定する答えも出来ましたが、牧師は「そうや、ぎょうさん献金してや」と答えました。すると、その子は嬉しそうに「うん」と言ったそうです。

牧師が講師を勤めていたキリスト教の短大で、あまり笑わないクールな学生がいました。小学校からミッションで育ち、聖書に触れていましたが、高学年になるにつれて、キリスト教が自分たちの問題や悩みに答えてくれるのかが疑問になってきます。教師に質問しても、正統性のある答えしか返って来ず、心に響く答えは聞くことが出来ません。そのようなキリスト教主義の環境の中で、キリスト教に不信感や失望を抱いて「ミッション疲れ」になってしまったのでしょうか。

子どもたちが抱く疑問や願いをはぐらかさないで答える教会でありたいです。子どもは、自分が受け入れられているか歓迎されているかに敏感です。いつでも子どもを迎え入れられる教会でありたですね。

今日は「大きな緑の木の下で」パトリク・マケリゴット著(いのちのことば社)を紹介しました。

イギリス人宣教師が日本での子育て体験を書いたエッセイです。三人の子どもたちとの暮らしを通し、神様の愛が語られています。

キャンプでのカヌーの体験の話があります。

「車に乗る時、子どもたちは後ろの席にお客さんのように座り、退屈になるのですぐけんかをします。しかし、カヌーに乗ると、みんなが力を出し合って漕ぎ、目的地に着くまで協力し合うので、けんかになりません。何でも親任せの車型の家庭ではなく、家族全員が協力するカヌー型の家庭になることで、人間関係がより良い方向に成長するのではないかと思います。」

心に残る言葉です。

次回の予定      10月11日(木)

オリーブの会の3年目のお祝いをしました

2018年8月30日(木)

「 見ないで信じる信仰 」

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

(ヘブライ人への手紙11章1節)

復活されたイエス様とそれを疑うトマスの物語では、イエス様は 「見ないのに信じる人は、幸いである。」とトマスに言われます(ヨハネ20・29)

「見ないで信じる信仰」に目を向けると、聖書の読み方は変わってきます。

ルカによる福音書17章では、重い皮膚病を患っている10人の人をイエス様がいやされる物語があります。その時代、その病気は神に呪われていると思われていて、祭司の所で清められなければ、家族や社会に復帰することは出来ませんでした。ところが、イエス様の言葉を聞いた10人の人たちは、祭司の所に行く途中ですでに清くされ、病いはいやされました。イエス様の言葉を聞き信じたからです。 。

マタイによる福音書14章では、イエス様は湖の上を歩いて、舟にいる弟子たちの所へ行かれます。おびえる弟子たちにイエス様は「安心しなさい。」と言われました。

その時ペトロは「水の上を歩いてそちらへ行かせて下さい。」とイエス様に言います。

今までの経験や常識から考えると、水の上を歩くことなんて出来るわけがありません。

しかしペトロは、これまでの経験や常識の世界から一歩外に出て、イエス様を信じる信仰へ踏み出したのです。知っている世界、今まで見て来た世界ではない、見ないで信じる信仰へ導かれたのです。

聖書は今も私たちを、見ないで信じる信仰へと引っ張って行ってくれます。

イエス様はペトロに「来なさい」と言われました。

私たちもその呼びかけに応えて、勇気を出して歩んで行けたらいいですね。

今日は、バーナード・ウェーバー作 「勇気」(COURAGE)という絵本を紹介しました。

( 日野原重明 訳 )

「いろんなゆうきがあるんだ。すごいのから、まいにち であう ゆうきまで。」

「きらいな やさいも いやな かおせず たべるのも ゆうき。」

「くちげんかを しても、じぶんの ほうから なかなおりするのも ゆうき。」

「そらたかく うちゅうたんけんも、うみの そこまで たんけんするのも ゆうき。」

「わかれなければ ならない ときには さよなら いえるのも ゆうき。」

翻訳をした日野原先生は 「冒険心と、物事を選択して決断する勇気こそが、子どもを成長させる何よりのよいエネルギーとなるものと私は信じています。」と言っています。 大人の私たちも「小さい勇気」「大きい勇気」がいつも必要です。生きていくことは、いろんな勇気の積み重ねだと、この本を読んで思いました。

次回の予定      9月19日(水)

2018年7月21日(土)

「 土の器 」

「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった。」

(創世記2章7節)

天地創造された神は、アダムに「命の息」を吹き入れます。これによって人は、神の呼びかけに応えて生きるようになります。「命の息」という言葉は「聖霊」と言い変えてもいいかも知れません。ここに、聖書の人間観があります。

Ⅱコリント4章7節でパウロは「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」と言っています。私たち人間は、土の塵で創られた粗末な器ですが、神が吹き入れた命の息が、その中に宿っているのです。土の器の中に、宝を頂いているのです。

皆さんは、どんな宝を神様からもらっていますか?それに気づくことが出来る人は幸いだと思います。そして神様からもらったその恵みを分かち合うことで、恵みは増えていくのです。

今回 紹介した本は 「 初女さんのお料理 」 佐藤初女著  ( 主婦の友社 )です。

一昨年 94歳で亡くなられた初女さんは、青森の岩木山の山荘「 森のイスキア 」に、心に重荷を抱えた人をいつでも迎え入れました。

おむすびや山菜などのお料理を食べるうち、多くの人はその荷物を下ろしていました。

食は何よりも人の心を通わせると信じ、食卓を囲み、ひたすら耳を傾けます。

「 食べることは、大きな力になる。食材は口を通して体に入り、私たちのいのちと一緒に生涯生き続けていくことになるからだと思います。 」

「 手をかけて、心をかける 」それを大切にして、食を通じて人々を癒す、そんな素敵な生き方に感動しました。

次回の予定     8月30日(木)

                                                                    

2018年6月28日(木)

「 上にあるもの 」

「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。」

(コロサイの信徒への手紙3章1~4節)

「あなたがたは死んだのであって」と聖書に書かれているのを読んだ人は、「私は死んでないし、復活もしてない」と思うかも知れません。

「キリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」と聖書には書かれています。

また パウロはここで 「上にあるものを求めなさい」「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」とも言っています。

「上にあるもの」とは、今は目には見えない希望です。

主の祈りの「天にまします」という言葉は「今は目に見えない」神様への呼びかけです。

復活されたイエス様は 「見ないのに信じる人は、幸いである。」とトマスに言われました。

私たちの信仰は「見えないものに目を注ぐ」こと。「見えない事実を信じる」ことです。

聖書はそのことを、言葉を変えて何度も私たちに語りかけているのです。

今回は ゴスペルソングを2曲紹介して頂きました。

「 Because of who you are 」

「 神様、あなただから、私はあなたに栄光を捧げます。

神様、あなただから、私はあなたに賛美を捧げます。

神様、あなたはあなただから。」

このように繰り返し呼びかける、神様へのラブソングのような曲です。

「 Total Praise 」

「 主よ、私は丘に向かって目を上げる。

私の救いはあなたから来ることを知っています。

嵐のような困難なときでも、あなたは私に平安を与えて下さる。」

詩編121をもとにしたというこの歌は、、その詩にあるように「全身全霊」で主を賛美する力強い曲でした。

次回の予定      7月21日(土)

 

2018年5月26日(土)

「目に見えないものを教えてくれる書物」

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
 
(ヘブライ人への手紙11章1節)
 
目に見えないものを信じていくことはなかなか難しいことです。
でも、聖書は見て信じる幼い信仰から見ないで信じる大人の信仰へと私たちを誘ってくれる書物です。私たちも目に見えないものを大切にしたいものです。
今日はさまざまな事情で来られない人が何人かいました。でも、久しぶりの人もいて賛美歌を何曲か歌いながら賛美歌の話も牧師から聞くことができたり、お菓子作りベテランの姉妹は和菓子の「浮き島」を作ってきてくださったり和やかな時間を持つことができました。
 
 
読書本としてある宣教師の手紙をまとめたものの一つを紹介しました。
1901年、奴隷として売られる子どもたちの存在を知り、子らの奴隷施設を作り始め、
そこへ手伝ってくれる人たちとの間にドナヴァー・フェローシップが生まれ、50年の間そこの母親であった人のいろいろなひとに送る手紙です。
 
 
 
やみを照らすともしび   エミー・カーマイケル  (棚瀬多喜雄 訳)
 
最後の手紙は
「いとしい子」
わたしにとってこれほどいとしい子
主にとっては ああいかばかりか。
次回の予定     6月28日(木)

2018年4月19日(木)

「 見ないで信じる 」

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

(ヨハネによる福音書20章26~29節)

復活されたイエス様がトマスの前に現れました。

この時のトマスは、信じるか信じないかの真ん中の敷居の上に立っていました。

前回イエス様が弟子たちの前に現れた時、その場にいなかったトマスは

「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いました。

現代人はこのトマスのように証拠を求め、見るまでは信じないということが多いのではないでしょうか。

これまでのギリシャ人の哲学的な考え方は、見たから信じる、

再現が可能なものを信じるという考え方でした。

けれどもヘブライ人の感性は、見ることと信じることを結びつけません。

そして信じることが愛することに繋がっていきました。

イエス様はトマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われました。

「わたしの主、わたしの神よ」と言うトマスに、イエス様はさらに「わたしを見たから信じたのか。

見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われます。

見るまで信じられないと思っていた私たちも、いつの間にか、見なくても信じる信仰に変えられます。

聖書がじわじわと私たちをそこまで引っ張ってくれるのです。

聖霊の導きと教会の交わりの中で、いつの間にか私たちも、

敷居から一歩踏み出して見ないで信じています。

そして子どもたちもまた、いつの間にかそこに導かれ、信じること、

愛することに繋がっていくことを私たちは願っています。

今日紹介したい絵本は 『 くまとやまねこ 』です。

( 文 湯本香樹実   絵 酒井駒子  )

なかよしのことりが死んでしまいました。深い悲しみの中に沈んでいたくまは、

ふしぎなやまねこと出会います。

私たち誰もが直面する愛するものとの別れ、その悲しみとどうやって向き合っていったらいいでしょう。

くまがそこから立ち上がるまでの、悲しくも希望があふれる物語です。

次回の予定      5月26日(土)

2018年3月22日(木)

「 見えないものに目を注ぐ 」

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」

(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節)

新年度の「教会学校だより」が出来上がりました。

「わけるとふえる」という、子どもたちが大好きな賛美歌のことが書かれています。

子どもがささげた二匹のさかなと五つのパンをイエス様が分けると増えて、五千人の人が満腹したという聖書からとられた賛美歌です。

おやつやお金は分けると減ります。それでは「やさしい心」や「信じる心」「勇気」は分けるとどうなるか。子どもたちに問いかけると「ふえる」と答えます。

それらのものは友だちに分けてあげても減らず、かえって増えていく。

そういうことを子どもたちは、日々みことばを聞く中で学び取っているのでしょう。

これらはすべて「目に見えないもの」ばかりです。「目に見える成果」よりも「目に見えないもの」「分けると増えるもの」を重んじること。見えないものを尊び、子どもたちの内面の成長を大切にしていく時、やがて「子どもたちの主にある成長」という目に見える成果が現れてくるのだと思います。

2017年度もオリーブの会を毎月行うことが出来、感謝です。今後もこの会が良き交わりと学びの場となりますことを祈ります。

この教会学校を巣立って行った子どもたちが数名、今年成人式を迎えました。今いる場所も置かれた環境もそれぞれ違いますが、幼い頃から心に蒔かれたみことばの種はそれぞれの土の上で成長し続けていると思います。この春、卒業や入学、進級する子どもたち一人一人、教会になかなか来られない子どもたちも含めて、一粒の種が心の中で大きく育っていくことを祈り続けたいと思います。

次回の予定     4月19日(木)

2018年2月22日(木)

「みことばに呼び覚まされて」

賛美歌472番に続いて開かれた聖書の箇所はイザヤ書でした。

「主なる神は、弟子としての舌を 私に与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。」

(イザヤ書50章4節)

「どのようにして私たちは御言葉を呼び覚まされますか?」との牧師からの質問に正直考えさせられました。
私たち神明教会はいま毎朝牧師から「みことばの配信」を頂いています。
「今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日のみことばを配信します。」から始まり、ローズンゲンの聖書日課から旧約聖書と新約聖書の箇所を解き明かされます。これは牧師が希望者の携帯、スマホ、パソコンに宛ててショートメッセージを添えて毎日送信するものです。旅先にも届きますし、入院しても、礼拝に行けなくなっても毎朝届く、いわば「みことばのセイフティネット」です。
もっとじっくり心して理解したいと思いながらも、朝の忙しい時間さらっと読んで終わってしまうのが、もったいないと思っています。
でも、無添加の健康食品を食べたように安心して1日が始められるのは、これはこれでいいのかと思うときもあります。忘れてもいい、また同じことを聞いて染められていく・・・・御言葉ってそんなものじゃないでしょうか?皆さんはどのように思われますか?

今日は「どうぞのいす」という絵本を紹介して頂きました。(作 香山美子 絵 柿本幸造)
うさぎさんが作った小さな椅子に「どうぞのいす」と書いた看板をおきます。まずは、どんぐり拾いをして家に帰る途中のロバがどんぐりを椅子において、疲れていたので一眠り。次から次と通りすがりの動物たちが、どうぞの椅子に置かれているものを見て、ついつい食べてしまいますが、「からっぽにしてしまってはお気の毒。」と、決してからっぽにならない、優しい思いやりあふれる物語でした。
うさぎさんは何のために「どうぞのいす」を作ったのか?答えはありません。

次回の予定            3月22日(木)

 
 
 
 
 

2018年1月27日(土)

「鹿のように」

「涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。」

(詩編42編2節)

今日は、雪が沢山積もった中で行われたオリーブの会でした。詩編42編を歌にした「 鹿のように 」の賛美歌を歌いました。この詩編が書かれた背景を見ると、イスラエルの国が滅ぼされ、神殿は破壊され、国の重要な人たちはみなバビロンに奴隷として連行されました。神殿も無く祭司もいない。礼拝が出来ず「 お前の神はどこにいる 」と嘲られました。5節に「 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす 」とありますが、これは過去を思い出しているということではありません。神殿は無いが、神はみことばを通して共にいて下さり、語りかけて下さることを確信したのです。イスラエルの民はそんな中にあって 「 神を待ち望め 」「 御顔こそわたしの救い 」「 わたしの神よ 」と力強く呼びかけます。同じみことばが二千年の時を越えて私たちに語りかけ、生ける命の水となって私たちを生かして下さるのです。

今日は 「しげちゃん」という絵本を紹介して頂きました。

( 文 室井滋  絵 長谷川義史 金の星社 )

女優の室井滋さんが書いた、自分の子どもの頃のお話です。

「しげる」という男の子みたいな名前のおかげで、いつもいやな思いをしたこと。

そしてお母さんから聞いたほのぼのしたお話。笑いながらも心に響くものがあります。

本を読んだ後で、自分の名前の由来や子どもの名前に込めた願いなど、「名前」の話題で盛り上がりました。名前って、あらためて大事ですよね。

次回の予定     2月22日 (木)