2019年12月7日(土)

「 心に場所を空けておく  」

「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

(ルカによる福音書2章7節 )

アドベント(待降節)に入りました。アドベントクランツのろうそくの火が、毎週1本ずつ増えていき、4本になるとクリスマスが来ます。

日本人は、時は流れるものと考えますが、聖書では 時が満ちていくという考え方をしています。

「満ちる時」という考え方は 砂時計と似ています。実現する時に向かって、砂が落ちるのです。

旧約聖書の時代からの長い時が流れて、ベツレヘムの馬小屋で、マリアが男の子を産みました。旅の途中だったマリアとヨセフには、泊まる家が無かったのです。

「家」は「心」を表しています。人々の心に、イエスさまを迎える場所がなかったのです。忙し過ぎると、心に余裕が無くなってしまいます。

心のどこかに場所を空けておくことで、神様から良い物を頂くことが出来ます。

クリスマスに私たちは、神様から最大の贈り物「イエスさま」を頂きます。

私たちも、愛する人と一番良い物を分かち合いましょう。

クリスマス祝会に向けて、オリーブの会の皆さんで、歌とハンドベルの練習をしました。

毎年歌っている「とおいそらのかなたから」はフランスのカロルです。イエスさまがお生まれになった夜の様子が目に浮かぶような、きれいな曲です。

「さやかに星はきらめき」は歌詞も曲もとても美しくて、クリスマスの喜びで、心がいっぱいになるような感動的な歌です。なかなか皆さんがそろって練習出来る時間がありませんが、心を一つにして、楽しんで歌えたらいいです。

次回の予定     1月23日(木)

2019年11月28日(木)

「 願いを素直に言い表す 」

「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間 病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。]

(ヨハネによる福音書5章1節~9節)

ベトザタの池で、38年もの間 病気で苦しんでいる人が、イエスさまと出会いました。水が動いた時、真っ先に水に入る者はいやされると言われていました。

長年 彼はここで望みをつないでいましたが、横たわっているため、自分で水に入ることが出来ません。イエスさまは彼に「良くなりたいか」と問いかけます。

しかし彼は、その大事な問いかけに「良くなりたい」と答えることが出来ませんでした。自分の願いを、素直に言い表すことが出来なかったのです。

「水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。」と文句を言っているように聞こえます。厳しい現実の中で、自分の望みをなかばあきらめているのかも知れません。

イエスさまはそんな彼の願いを知り、病いをいやされたので、彼は起き上がって歩き出すことが出来ました。

私たちも、現実に目を向けた時、その願いが消えてしまいそうな時があります。しかし、いつでも主に向かい、願いを素直に言い表すことは大事です。

イエスさまの呼びかけを、素直に受け取る者となりたいですね。

今日は、「 なまえのないねこ 」という絵本を紹介させて頂きました。   ( 竹下文子 文  町田尚子 絵   小峰書店 )

「 ぼくは ねこ。なまえのない ねこ。まちの ねこたちは、みんな なまえを もっている。」 ねこは、まちをあるきながら、すきななまえを さがします。ひとりぼっちのねこが さいごにみつけた「ほんとうに ほしかったものとは?」メロンいろの目をしたねこの表情が、とてもいとおしくて、心がきゅんとするような 素敵な絵本です。

次回の予定      12月7日(土)

2019年 10月5日(土)

「杖の先に寄りかかって」

施設におられる方を訪問して、礼拝を守ります。賛美と祈りだけの小さな礼拝です。

認知症が進んで、言葉はありませんが、賛美をとても喜んでくださいます。

最初、私たちは、これを見て、「反応はわずかだけど、喜んでくれたね」と言い合っていました。

しかし、じつはこれがこの人の心からの礼拝だったのです。こんな御言葉があります。

「信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって礼拝しました。」

(ヘブライ人への手紙11章21節)

この御言葉は礼拝の本質を突いています。礼拝や祈りというのは、私たちだけの行為ではありません。相手があるものです。しかも、その相手は私たちの父なる神様です。

このお方が、杖の先によりかかる破れの多い礼拝を、心からの礼拝として喜んでくださる。

言葉にならない呻きや人知れず流す涙さえ、祈りとして引き上げてくださる。

あの姉妹のわずかな反応を「心からの礼拝」として受け入れておられるのは、このお方だったのです。

このお方への信頼ゆえに、私たちはすべてを投げ出して礼拝することが出来る。

認知症が進み、聖書も賛美歌も、祈ることすらわからなくなっても、礼拝だけは出来る。

礼拝とは、詰まるところ、そういうことだと思うのです。

今日の本の紹介  かみさまからのおくりもの(樋口道子)

子育てにつかれているお母さんに心休まるお話の本でした。ぜひ読んでみて下さい。

2019年9月12日(木)

「 イエスはまことのぶどうの木 」

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」

(ヨハネによる福音書15章1節~5節)

イエス様が弟子たちに語られたたとえ話ですが、なぜイエス様はぶどうの木にたとえられたのでしょう。本物のぶどうの木を見てから、それがわかりました。

他の木の幹は、自分が成長するために、枝から養分をもらっています。でも、ぶどうの木の幹はひょろひょろしていて、そこから枝が伸びています。枝にはぶどうの実が豊かに実っていて、幹はその枝を成長させるようにして伸びています。

イエス様は私たちを成長させるため、実を結ばせるためにつながって下さっています。

日本の社会は、自分の思い通りに出来ない、自由ではないことが多くあります。

職場や家族のことが優先されて、日曜日に教会に来ることが出来ないことも多くありのます。でも、イエス様はどんな時でも私たちにつながっていて下さるという約束を信じて、私たちも安心してイエス様とつながって過ごしていきたいものです。

今日は 「視点を変えて見てみれば」―19歳からのキリスト教―(塩谷直也著)という本を紹介して頂きました。(日本キリスト教団出版局)

焦る癖のある著者は「神さま、焦る心、はやる心を取り除いてください」とずっと祈っていました。「焦る自分は神さまの役に立たない。焦らない、ゆったりとした自分こそが正しい姿だ」という考えがあったのです。

しかし今は「焦る心も用いてください」と祈るようになりました。貧しくても豊かでも、満腹していても空腹であっても、ゆったりしていても焦っていても、神様は働かれるのです。晴れの日も雨の日も働いて下さる神様は、明るい色も暗い色も全ての色を価値ある色としてお使いになる方。全ての色がこの世界に必要だと気づく時、私たちは自由になり、貧しくても豊かでも、欠点があっても不完全でもいいんだということがわかるのです。

次回の予定     10月5日(土)

2019年8月3日(土)

「 生活の中で養われる信仰 」

「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」

(ルカによる福音書8章1~3節)

ルカは福音書の中で、女性たちの働きを、あたたかいまなざしで細やかに描いています。ルカはパウロの弟子でしたが、教会の中で女性たちが大切な働きを荷っていたことを見ていたのでしょう。イエス様によって悪霊を追い出してもらったマグダラのマリアや、ヘロデの家令の妻ヨハナ、スサンナやその他の多くの婦人たちの奉仕について書かれています。彼女たちは、自分たちの持ち物を出し合って、捧げ物の奉仕をしました。

イエス様と弟子たちの旅に同行し、食べ物や宿の準備、洗濯など、旅に必要な生活全般の奉仕を、女性らしい心使いで行っていたのでしょう。彼女たちの信仰は、生活に密着したものでした。

イエス様が十字架につけられる時、弟子たちは逃げてしまいましたが、女性たちは逃げることなく、墓に葬られる時も一緒にいました。またイエス様が復活されたことを真っ先に知ったのも、イエス様の体に香油を塗りに行った婦人たちでした。天使にイエス様の復活を知らされた時、彼女たちはすぐにイエス様が生きておられることがわかりました。

彼女たちの、生活に密着した信仰が養われ、それが後に教会を作り上げていくことになるのです。

現代はストレスの多い時代です。今回は、新潟大学の名誉教授だった阿保徹氏の

「病気にならない免疫生活」という本を紹介して頂きました。(中経の文庫)

ストレスの多い生活や、怒りの気持ちが多い生き方をしている人は病気にかかりやすい。癌になりやすい人は、長時間労働の人や、人間関係の中で頑張りすぎたり、手を抜けない人が多いといいます。そして「ありがとう」と感謝する生き方をすることで、心が穏やかになり、癌が自然に退縮する体へと変わっていくのだそうです。

ストレスをためないことが大事であるという話題から、皆さんが抱えている悩みや、それぞれのストレス解消の方法などについて話し合うことが出来、とても良い時間となりました。また、体と心に優しい食べ物の紹介として、野菜スープのいろいろな作り方も教えて頂きました。

次回の予定      9月12日(木)

2019年6月15日(土)

「 信仰を言い表す 」

「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」

(マタイによる福音書16章13節~18節)

イエス様が、フィリポ・カイサリア地方に行かれた時、弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。人々がイエス様のことを「洗礼者ヨハネ」だと言ったり、「エリヤ」や「エレミヤ」のような預言者の一人だと言っていることを、弟子たちはイエス様に伝えました。人々は、自分たちがよく知っている預言者たちの再来のように、イエス様のことを説明しようとしていました。

イエス様は弟子たちに言われました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。

この信仰の告白にイエス様は「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われました。カトリック教会では、ペトロという人間そのものを「岩」として解釈していますが、プロテスタントでは「ペトロの信仰の上に」教会を建てると理解しています。イエス様はペトロに「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われます。ペトロのこの告白の言葉は、人間の経験から出て来たものではなく、神様から与えられた言葉であり、賛美であり、告白なのです。私たちの信仰も、自分の経験によるものではなく、父なる神様があなたに現して下さったということを、イエス様は教えて下さるのです。

今回は、福井出身の宮下奈都さんの「 羊と鋼の森 」を紹介させて頂きました。

この小説は、2016年本屋大賞他、複数の賞に選ばれています。

音楽にもピアノにも全く無縁だった青年が、ピアノの調律師を目指して行く話です。

多くの人との出会いの中で、不安や劣等感を抱えたりしながらも音楽を愛し、調律師として成長していく姿は、私たちにも、努力していくことへの勇気と希望を与えてくれます。特に、主人公が耳にする音楽や音そのものを表現する言葉が、とても豊かで喜びに満ちていて、言葉や文章の美しさに自分も感動しました。

次回の予定       8月3日(土)

2019年5月30日(木)

「 いやしと救い 」

「あなたの信仰があなたを救った」

(マルコによる福音書5章34節)

これは、聖書の中でイエス様が言われた言葉ですが、いったい何人の人がこの言葉をかけられたでしょうか?どの場面で出てくる言葉か、思い浮かべることが出来ますか?長年 出血が止まらない病気の女の人や、道端に座っていた盲人、また皮膚病をわずらっていた人など、イエス様にいやされ、この言葉をかけられた人が聖書に出て来ます。

最近、一般的にも「いやし」ということがもてはやされていますが、「いやし」と「救い」とは別のものです。教会の中でも、そのことがはっきりわかっていない人もいるかも知れません。

何年も婦人病で苦しんでいた女性は、イエス様の服を後から触った時、病気がいやされました。この時、身体はいやされたけれど、心はまだ、いやされてはいませんでした。

女性が怯えながらも、イエス様の前に出て行き、ありのままを話した時「あなたの信仰があなたを救った」と言葉をかけられ、その時、彼女の心もいやされ、救われたのです。

重い皮膚病をわずらっていた10人の人は、イエス様によって病いをいやされましたが、その中の1人だけが、イエス様のもとに戻って来て感謝を表しました。イエス様の前に出て行った時、彼はその信仰によって救われたことを告げられました。

それぞれが遣わされた場所から戻って来て、イエス様の前に出ること、これは大事な礼拝者の姿だと思います。

今回は、ゴスペルソングを2曲紹介して頂きました。

1 「KUMBAYA」

アフリカ民謡がもとになっているこの曲は 「主よおいでください」という曲名で讃美歌21にものっています。この曲を現代風にアレンジして、カート・カーが歌っています。とても迫力ある曲で、神様を強く求める祈りの言葉は、昔も今も、人種も国境も越えて同じなんだと深く感じました。

2 「Ⅰ NEED YOU TO SURVIVE」

曲名は、「あなたに、生き抜いていて欲しい」という意味があります。

ヘズカイヤ・ウォーカーが歌っているこの曲は、アメリカの同時多発テロの後、遺族のためのライブで歌われた曲です。自分と相性が悪かった人もテロの犠牲になり、いなくなった後で、彼に教えられたり、気づかされたことが多かったこと、また失敗や嫌な経験も、神様が必要なものとして与えて下さっていること、そんな思いがこの歌に込められているということです。

次回の予定      6月15日(土)

2019年4月11日(木)

「 命令と約束 」

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」

(ヨハネによる福音書15章4節)

これは、イエス様が弟子たちに語られた大事な説教ですが、この中には弟子たちへの「命令」と「約束」が語られています。

「わたしにつながっていなさい」という命令と「わたしもあなたがたにつながっている」という約束です。

このように、イエス様の命令と約束が語られているところは他にもあり、ルカによる福音書22章では、ペトロに向かって「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と語られています。これも、「兄弟たちを力づけてやりなさい」という命令と共に「わたしがあなたを立ち直らせてあげる」という約束がこめられています。

イエス様が十字架につけられる時、ペトロは大祭司の中庭で焚き火にあたっていましたが、イエスの弟子だということを人々に指摘され、わたしはイエスのことを知らないと3度否定しました。鶏が鳴き、イエス様を裏切ってしまったペトロは激しく泣きました。人は、後悔からだけでは立ち直れませんが、イエス様が立ち直らせて下さるという約束をしっかり信じた時、ペトロはそこから立ち上がることが出来たのです。

自分がイエス様に、頑張ってつながっているだけでなく、「わたしもあなたがたにつながっている」と言われるイエス様の約束を信じることで、人は弱さから立ち上がり、また歩んでいくことが出来るのではないかと思います。

最近 受洗された方がおられます。その陰で、長年にわたる奥様の祈りがあったことを思います。自分の力だけではつながっていることが出来ない時もあります。

イエス様がつながっていて下さること、その約束をしっかり信じるということ、

この1点を忘れず歩んで行くことが、信仰生活には大事なことです。

今回は「 ちいさなごるり 」という絵本を紹介させて頂きました。        

( 松居スーザン 文   堀川真 絵  童心社 )

ごるりは いたずらっこであまえんぼの ちいさなばけもののおとこのこです。

ごるりはおかあさんにききます。「 ぼくって どういうぼくだろう?」

おかあさんは ごるりが どういうごるりかを やさしくおはなししてくれます。

こどもが大きくなる時、自分のこと、身近なこと、世界のことがもっともっと知りたくなり、いろいろなふしぎな質問をしてくることがよくあります。

わんぱくなごるりと、やさしいおかあさんと、そして、かわいいいもうとのてるりの、心がほかほかしてくるようなお話です。

次回の予定      5月30日(木)

2019年3月28日(土)

「 経験の土俵から出る 」

「わたしは復活であり、命である。」 

(ヨハネによる福音書11章25節)

イエス様は「復活」について語られ、「このことを信じるか」と言われます。

「復活」について、よくわからないという人は多いかも知れません。自分で見て納得したことは信じることが出来ますが、経験上 あり得ないと思うことは、なかなか信じることが出来ません。

聖書の中にも、証拠が無いので納得出来ない、信じることが出来ないという人は出て来ます。誰でも、自分の経験という土俵の中から出ることは難しいことだと思います。

聖書は経験のメッセージを語りません。イエス様は「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことは無い。」と言われます。

ペトロは経験の土俵から踏み出すことが出来た人です。イエス様の「来なさい」という言葉を信じて、湖の上に一歩踏み出します。水の上を歩こうとするなんて、常識的に考えてなかなか出来ないことです。

経験の裾野は広く、私たちは、自分の経験だけではなく、世間一般の経験で多くのことを知ることが出来ます。

イエス様は、経験で知り得ないことを、たとえ話で教え、伝えてくれます。

経験や理解という土俵の中から一歩踏み出すことを、一生に一度は求められることがあるのではないでしょうか。一緒にその土俵を飛び越えて行きましょうということを、日曜日のメッセージの中で伝えていきたいです。


東日本大震災から8年経ちました。岩手県の陸前高田に住む人からの手紙を、オリーブの会で読ませて頂きました。多くの方が亡くなられ、彼女も中学生だった甥御さんを亡くされたとのことでした。家や街は復旧できても、命は戻って来ない。

8年経っても深い悲しみは消えませんが、全国各地からボランティアが来て下さることで支えられ、癒され、感謝の気持ちは言い表せないぐらいです。「 忘れないで欲しい 」それが被災地の望みです。と書かれていました。去年の夏、北陸学院大学の学生がボランティアで被災地へ行き、地元の皆さんと花壇作りをしました。その時 持ち帰った球根の花が、この春咲きました。今、同じ時を生きている私たちが出来ることは「忘れないこと」そして「祈り続けること」。ひとつの花が咲くたびに、皆さんの心にも花が咲きますように、祈り続けたいです。

今回は 「 60秒の奇跡 」(子ネコがつくったピアノ曲)という絵本を紹介させて頂きました。(文 レズリア・ニューマン 絵 エイミー・ジューン・ベイツ)

アメリカで、本当にあった話です。作曲家のモシェ・コテルは町で子ネコに出会い一緒に暮らし始めます。60秒以内で曲を作ることに行き詰まっていたモシェを励まそうと、子ネコはピアノの鍵盤の上を歩きます。するとその時、奇跡のように小さな曲が生まれました!それは、1分間コンテストで演奏されて注目を浴び、子ネコは作曲者として紹介されました。小切手を受け取った子ネコは、キャットフードを沢山買ってもらったということです。この「 ピアノのための小曲:四本のあんよ 」は60秒のピアノ曲としてCDになっているそうです。聴いてみたいですね!

次回の予定     4月11日(木)

陸前高田からきた水仙

2019年2月16日(土)

「 客観的信仰 」

「彼らの中に、不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。」

(ローマの信徒への手紙3章3節)

皆さんは「客観的な信仰」という言葉を聞いたことがありますか?

信仰には、「主観的信仰」と「客観的信仰」があります。

「主観的信仰」とは「自分の信仰は強い、弱い」とか「あの人の信仰は幼い」とか「熱心だ」など、人の信仰の中味を問うようなとらえ方です。そのような信仰のとらえ方は、ともすれば 人を評価したり、自分を卑下したりしてしまいがちです。

それに対して「客観的信仰」とは「神がこの人を捕らえておられる」「神がこの人を愛しておられる」というとらえ方です。

いつか誰でも、認知症などの病気や老化で、記憶や意識が無くなり、自分の信仰や神様のことがわからなくなることがあるかも知れません。その時に大事なのは「神はその人の手を捕らえて離さない」ということです。

以前、認知症で信仰の応答が出来ない方の葬儀を教会でしたいという、娘さんからの要望がありました。神がその方を愛しておられることがわかり、洗礼を受けることが出来ました。

「主観的信仰」は一人で芽生えるのではなく「客観的信仰」の揺りかごの中で育まれ、愛され、歩んで来ることが出来た、それを知っていることは大事なことです。

聖書の中には 沢山の「客観的信仰」が出て来ます。アブラハムへの祝福は、彼の行動などを問わない一方的な祝福でした。神は「私は アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神である」と言われます。「アブラハムの神だった」のではなく、今も「アブラハムの神」なのです。心のどこかに それを覚えていて下さい。

今回は 星野富広さんの「あなたの手のひら」を紹介して頂きました。

その中から「命一式」と「雪割草」の詩を読んで頂きました。

「雪割草」の中の「さあ 古い悩みなんか吐き出し 新しい困難を思い切り燃やし 今日という原野を走ろう」という言葉に元気づけられます。

また「おわりに」の中にこんな文章がありました。「絵も詩も少し欠けていた方が良いような気がします。欠けているもの同士が一枚の画用紙の中におさまった時、調和のとれた作品になるのです。これは詩画だけでなく、私達の家庭も社会も同じような気がします。欠けている事を知っている者なら、助けあうのは自然な事です。」

星野さんの描く美しい絵とやさしい文は、いつも私たちに大切なことを気づかせてくれますね。

次回の予定       3月28日(木)

恋猫