2022年12月17日(土)
「 さあ、ベツレヘムへ行こう 」
「さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。」(ルカによる福音書2章8-15節)
これは、幼稚園の12月の聖句です。
天使から、救い主の誕生の知らせを聞いた羊飼いたちが言った言葉です。
英文に直すと 「Let us go over to Bethlehem」になります。
「over」という副詞が入っていますが、これには大きな意味が込められています。
「over」(越えて行く)という言葉ですが、何を越えて行くのでしょう。
当時、羊飼いたちは貧しく、人の羊を預かり、その世話をして暮らしていました。
彼らは、人々に差別されていて、ベツレヘムの町の中に入ったことはありませんでした。
野宿をして羊の群れの番をしていた羊飼いたちは、天使たちにイエスさまの誕生を告げられると、今まで越えたことのなかった壁を乗り越えて、救い主に会いに行きます。
人々との間に存在していた深い淵を越えて、彼らはベツレヘムへ向かったのです。
そればかりではなく、人々にその嬉しい知らせを告げて回り、町の人たちとクリスマスの喜びをわかちあったのでした。
「 今月の本の紹介 」
『 絵本・ことばのよろこび 』 松居直 著 (日本基督教団出版局)
『 シモンとクリスマスねこ 』 (福音館書店)
レギーネ・シントラー 文 下田尾治郎 訳
前回に引き続いて、今日も松居直さんのことばです。
クリスマスの贈り物を考える季節、子どもたちに楽しい「ことば」を贈り物として伝えられたら、それは、いつまでも忘れられぬクリスマスになることでしょう。
「シモンとクリスマスねこ」は、待降節を迎えた後の12月1日から24日のクリスマスの前の晩まで、毎晩「ことば」の贈り物として1話ずつ物語を語ります。
小さなシモンは、クリスマスが来るまでの24の数をじょうずに数えることができません。
そこでお父さんは、ねこのフローラのしっぽの縞の数を、毎日1つずつ数えてしるしをつけていくと、全部数え終わった時にクリスマスが来ることを教えてくれたのです。
24のお話の中には犬や羊、イースターうさぎやねずみなど、いろいろな生き物たちも登場し、楽しく、心温まるお話がいっぱいです。クリスマスを待つ子どもたちの心に喜びを与えてくれるでしょう。
次回の予定 1月19日(木)
2022年11月17日(木)
「 地の果てに至るまで 」
「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
(使徒言行録1章6-8節)
エルサレムから始まった福音が、地中海世界から全世界へと広がっていきます。
その時々の権力や、土着の宗教などとの対立が起こりますが、日本でもやはりそうだったのではないかと思います。
イエスさまが天に上げられる前に、最後に言われた「地の果て」という言葉で思い出す映画があります。
『喜びも悲しみも幾年月』という、若い灯台守の夫婦を描いた映画です。引越しを終えて、「またこんな地の果てみたいなところに来た」という妻に、夫は「平地の真ん中に立っている灯台なんて無い。どこだって地の果てさ」と言います。これは良いセリフですね。
また、北陸に来たトマス・ウイン宣教師も「ここは地の果てか」と同じ意味合いの言葉を言ったということです。
福音の光で日々の歩みを照らして行く働きは、どこだって地の果て、イエスさまが言われたのはそのようなことではないかと思います。福音が初めて新たに語られるところは、どこでも地の果てなのです。
「 今月の本の紹介 」
『 絵本・ことばのよろこび 』 松居直 著 (日本基督教団出版局)
『 三びきのやぎの がらがらどん 』 (福音館書店)
マーシャ・ブラウン 絵 せたていじ 訳
先日亡くなられた松居直さんの文を紹介しました。
『サラダ記念日』で有名な歌人の俵万智さんは、2~3歳の頃『三びきのやぎのがらがらどん』を一日に幾度もお母さんに読んでもらい、3歳の時には、まだ文字も読めなかったのに、『がらがらどん』の文章を一言半句違わないように語ったということです。
松居さんは「子どもはことばを覚えるのではなく、食べるのだ」と言います。
おいしいことばを心ゆくまでたっぷりと食べ、心の底から喜びを感じた子どもは、いつか無意識のうちに、そのことばを紡ぎだします。この子たちはことばを聞く喜び、見えないものを見る喜びを知っています。
「教会は子どもの心にはいるおいしいことばを、子どもたちに食べさせているでしょうか」
やがて喜びのことばをつむぎだす子どもたちを、教会は育てなければなりません、と松居さんは語ります。
次回の予定 12月17日(土)
2022年10月15日(土)
「 退却する場所 」
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
(マタイによる福音書11章28節)
「リトリート」という英語の言葉があります。日本語に直すと「修養会」、カトリックでは「黙想会」とも言い、ミッションスクールなどで使われています。
これは、もともとは軍隊用語で「退却」とか「前線から離脱する」という意味です。
どうしてこの「リトリート」という言葉がキリスト教で使われるようになったのでしょう。
今日のみことばでイエスさまは「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われます。私たちは、日常の生活や仕事などから退却して、魂の養いのために日曜日ごとに教会に戻って来ます。
朝の連続ドラマを見ていて、おやっと思った場面がありました。主人公の友だちのやんちゃな男の子が教会へ行き、お祈りをしていました。それで、自分が子どもの頃、教会学校で出会った男の子のことを思い出しました。手の付けようの無いようなやんちゃなその男の子を、お母さんは、良い子にしてもらうように教会に行かせていました。
また、中学時代は、技術の教室が問題児のたまり場になっていたのですが、そこにいつも来ていたやんちゃで暴力的な少年も教会学校でよく一緒になりました。
彼にとって教会は「リトリート」、退却しても良い場所だったのではないでしょうか。
私たちも、イエスさまのもとに退却して、魂の安らぎを得ることは大切なことではないかと思います。
「 今月の本の紹介 」
『 野ネズミとドングリ 』 島田卓哉著 (東京大学出版局)
まるで絵本か童話のようなかわいいタイトルですが、実際には、気が遠くなるような研究について書かれています。ドングリにはタンニンという毒が含まれているのに、野ネズミはどうしてドングリを食べることが出来るのか。そんな自然の中にある不思議を解明するために、数多くのドングリを一つ一つ調べたり、野ネズミの生態調査や森林の生態系などについても詳しく研究したことが書かれている本です。自然の中には、まだまだ知られていないことが沢山あり、それを長い時間と手間をかけて調べている人がいるのはすごいことです。
かしわぎまきこさんがイラストを描かれていて、かわいい絵にほっこりします。
次回の予定 11月17日(木)
2022年9月15日(木)
「 終わりの言葉 」
「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」
(ルカによる福音書24章50節~53節)
これはルカによる福音書の最後の、イエスさまが天に上げられた時の場面です。
一つの書物がどんな言葉で終わるかは大事なことです。日本語もギリシャ語も、弟子たちが「神をほめたたえていた」という言葉で終わっています。
50節の、イエスさまが「祝福された」という言葉と、この「ほめたたえていた」は、原文では同じ言葉になっていて、元の意味は「良い言葉を語る」ということです。
これを書いたルカの意図は、イエスさまと弟子がどちらも「神様に向かって良い言葉を語った」という意味の同じ言葉を使ったことを書き残したかったのではないかと思います。ここから教会の出来事が始まり、使徒言行録へとつながっていくのです。
イエスさまから良い言葉を聞いた弟子たちが、良い言葉を語るようになっていく。
それは印象的な終わり方です。
「 今月の本の紹介 」
『 うろんな客 』 エドワード・ゴーリー著
柴田元幸 訳 ( 河出書房新社 )
ある夜、妙な姿の客が突然現れて、その日から一家の生活は振り回されていきます。
本は破られ、タオルは隠され、彼がドアのそばの床に横たわるので、邪魔になって仕方ありません。この「うろんな客」の正体とはいったい何でしょう?
独特な文章とモノクロのイラストが特徴の、大人のためのユニークな絵本です。
次回の予定 10月15日(土)
2022年8月6日(土)
「 神は真実な方です 」
「神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。」
(コリントの信徒への手紙Ⅰ1章9節)
「信仰」という時、「私が神様を信じている」というように、自分の思いや心のことをいうことが多いのではないかと思いますが、聖書は「キリストの信仰」ということを言っています。これは、「キリストの真実」といいかえることも出来ます。
私たちが信仰をもっているから、恵みを与えられたのではなく、キリストの真実によって与えられているのです。
若い時、熱心に教会に来ていた人でも、人生の最後に向かっていく時、聖書や祈りのこと、教会のことも忘れてしまうことがあります。しかし、最後に何も残らないのではなく、神様はこの人を捕らえ、最後まで愛し、ご自分のものとして下さるのです。
「主われを愛す」という讃美歌がありますが、「われ主を愛す」という信仰の片面がやがて消えていったとしても、「主われを愛す」は最後まで残り続けます。
消え去ったあとにも残っていくものを大事にしていきたいです。
「 今月の本の紹介 」
『 23分間の奇跡 』 ジェームズ・クラベル著
青島幸男訳 ( 集英社文庫 )
「みなさん、おはよう。わたしがきょうから、みんなの先生ですよ」と新しい先生が言いました。戦争に負けた国の、ある教室で、緊張している子どもたちの前にその女性教師は現れました。そして、わずか23分の間に、彼女と子どもたちに奇跡が起こります。
先生は子どもたちに何を話し、何を教え、子どもたちは何を学んだのでしょう。
子どもは柔軟で、すぐに新しいことを学んでいきます。大人の言葉は、子どもに大きな影響を与え、その生き方を変えてしまうことも出来ます。
短いけれど、考えさせられる本です。
次回の予定 9月15日(木)
2022年7月14日(木)
「 どん底で聴くみことば 」
「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろうと言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」
(ルカによる福音書22章54-62節)
前回のオリーブの会では、パウロが「どん底」を経験した伝道者であったという話をしましたが、今日は、ペトロも「どん底」を経験した人であるということを話したいと思います。
最後の晩餐の時、弟子たちの中で、誰がいちばん偉いだろうかという議論が起こりました。
ペトロはイエスさまの一番弟子だったので、余裕をもってその場を見ていたのではないかと思いますが、イエスさまはその時、ペトロの危うさを知っていました。
ペトロはイエスさまに「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかける・・」と言われ、むきになって、イエスさまとご一緒だったら「牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言い放ちます。そんなペトロにイエスさまは「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と言われ、そのことは実現するのです。
イエスさまを裏切ってしまったペトロは、主が言われた言葉を思い出して激しく泣きます。その時のイエスさまの言葉を、ペトロは思い出したというだけではなく、今まさにこの場で語られているものとして聴いたのです。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
これまでのペトロはおそらく、一番弟子である自分の信仰に自信を持っており、自分はそこそこ頑張っている、いいせんいっていると思っていたかもしれません。
しかし今、「どん底」にいる時だからこそ彼は、励ましと愛に満ちた主のみことばを、その心に激しく、強く受け止めることが出来たのではないでしょうか。
自分は「そこそこやっている」という意識は、みことばを聞く上では、あまり良いことではありません。
パウロのように、ペトロのように「どん底」である自分を意識した時に、みことばは恵みとなっていくのだと思います。
「 今月の本の紹介 」
『 わたしと小鳥とすずと 』 金子みすず童話集より
( JULA出版局 )
「 星とたんぽぽ 」
青いお空のそこふかく、 海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、 昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。
ちってすがれたたんぽぽの、 かわらのすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、 つよいその根はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。
金子みすずの詩は、小さいもの、弱いもの、名も無いもの、見えないものに目を止め、愛を注いで歌っています。ある人はこれを、みすずの心のいのりだと言っています。
「 はちとかみさま 」
はちはお花のなかに、 お花はお庭のなかに、
お庭は土べいのなかに、 土べいは町のなかに、
町は日本のなかに、 日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。
そうして、そうして、神さまは、小ちゃなはちのなかに。
小さなものたちを見つめるみすずの心の目には、それらのものを造られた神さまが見えていたのかも知れません。
次回の予定 8月6日(土)
2022年5月19日(木)
「 どん底からの伝道者 」
「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば」
(ローマの信徒への手紙5章9-10節)
「徹底」という言葉は、良い意味で使われることが多いですが、逆の意味で「底に徹する」「どん底」というように使われることもあります。
パウロは、自分がキリストの「敵であったとき」と言っていますが、これはパウロが「どん底」だった人であるといってもいいかも知れません。
石川県のK教会にはステンドグラスがあり、そこに、夜空に輝く大きな星が描かれています。これはクリスマスの星ではなく、旧陸軍の憲兵隊の帽子に付いていたマークの星だということです。
その頃、憲兵だったkさんは教会に行き、危険思想が語られていないか、毎週の礼拝で聞き耳を立てていました。説教を聴くうちにいつか、みことばが kさんの心を揺るがすようになり、やがて信仰をもって伝道者になったということです。
伝道者としてのk先生は、静かなおとなしい方であったということですが、その言葉というより、生き方が徹底したキリスト者であったと思うのです。
憲兵という、キリストとは全く敵対した立場であったk先生は「どん底」から這い上がってきたキリスト者と言えるのではないでしょうか。
同じようにキリスト者を迫害してきたパウロと共通したものがあるかも知れません。
「どん底」にある者をも、イエスさまは愛によって救い上げて下さるのです。
「 今月の本の紹介 」
「 人生が変わる紙片付け! 」 ダイヤモンド社
( 著 石阪 京子 )
家の片付けに頭を悩ませている人は多いと思いますが、その中でも「紙」の片付けについて教えてくれる本です。「紙」ということを意識するしないに関わらず「紙」は何よりも無意識に溜まっていくものかも知れません。新聞、チラシ、葉書、プリント類、レシート、包装紙等々まだまだあります。そんな紙のごみをすっきり片付けるための知恵が詰まった1冊です。
次回の予定 6月18日(土)
ナンジャモンジャの花
2022年4月23日(木)
「 ペトロの見た幻 」
「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。」
(使徒言行録10章34-35節)
ペトロが、ローマ人のコルネリウスの家で福音を語った時の、最初の言葉です。
ユダヤ人であるペトロは、それまでは異邦人に対し、あまり良い印象を持っていませんでした。そんなペトロは、ある幻を見ます。天から、大きな布のような入れ物が下りて来て、その中には、獣や鳥などが入っており、「 これをほふって食べなさい 」という声がしました。ペトロは、「 清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。 」と言います。すると、「 神が清めた物を清くないなどと、言ってはならない。 」という声が聞こえます。そんなことが三度ありました。
ペトロはその後 「 神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。 」と語りました。そして、「 神は人を分け隔てなさらない。 」とコルネリウスや大勢の人たちに言います。
自分の思いで、人のことをとやかく言うのではなく、「 神様は、愛において、人を分け隔てなさらない 」ということ。「 すべての人が神様の愛のうちにある 」ことを、私たちは常に忘れてはならないと思います。
「 今月の本の紹介 」
今日は、2冊の本を紹介しました。
『 55歳からのキリスト教入門 』 小島誠志 ( 日本キリスト教出版局 )
第七章 「安息日と礼拝」から
「 生きることは労苦であります。私たちは生きて労働して疲れており、他者の罪によって傷ついており、自らの罪によって他者を傷つけ自ら深く傷ついています。だから安息日を備え私たちを待っていてくださる救い主のもとに帰って行くのです。 」
最近の自分の心に、とても迫ってくる言葉でした。
『 74歳、ないのはお金だけ。あとは全部そろってる 』 牧師 ミツコ
( すばる舎 )
お金が無くても、 日々の暮らしに満足し、感謝して生きている牧師ミツコさん。
お金の使い方や健康管理、人間関係での心の持ちようなど、これまでの牧師の経験や信仰からくる、その生き方に共感できることが多くありました。
日々感謝して、こんなに前向きに豊かな気持ちで年を重ねていけたら、とても幸せなことだと思います。
次回の予定 5月19日(木)
2022年2月26日(土)
「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」
(詩編121―2)
幼稚園の2022年度の年間聖句について、今 考えているところです。
毎月の聖句を、英文とも照らし合わせながら読んでいます。
その中に 「子供たちをわたしのところに来させなさい。」というイエスさまの御言葉があります。子どもを引っ張って連れて来るのではなく、その子の心に働きかけて、行きたいと思わせる。それは、キリスト教教育の原点だと思います。
「探しなさい。そうすれば、見つかる。」 これは、無くしたものを捜すのではなく、人生で大切なものを求めて探すということだということが、英文も一緒に読むことでわかってきます。
子どもたちは、いろんな質問をしてきます。「平和ってなに?」 「イエスさまとかみさまの関係ってなに?」そんな質問のひとつひとつに、はぐらかさずに答えることが大事だと思っています。
新しい一年も、子どもたちと共にみことばを読んでいくことを考えると楽しくなります。
「 今月の本の紹介 」
『 ブルーノ 』 Fukase作 ( 福音館書店 )
この絵本は、4人組バンド「 SEKAI NO OWARI 」のボーカルであるFukaseさんが初めて描いた絵本です。
平和な王国ブルーノを、ある日嵐が襲い、多くの命が失われてしまいました。
王様を信じて助けを待つタルカスと、村人を救うために、その方法を考え抜いていた王様でしたが、お互いの思いを分かり合うことが出来ず、悲しい結果になってしまいます。
この絵本は表と裏の両サイドが表紙になっていて、タルカスと王様の双方の視点で物語が進んでいきます。
「たとえ理解に苦しむ状況でも、相手の行動の背景を知ることで、相手を許すこと、そして自分を救うきっかけになる」というFukaseさんの思いが、この本を読む人の心に伝わるといいです。
次回の予定 3月10日(木)
2022年1月20日(木)
「 イエスさまがとなりに 」
「子よ、元気を出しなさい。」
(マタイによる福音書9章2節)
幼稚園の礼拝の時は、子どもたちに問いかけて、思ったことを話してもらい、キャッチボールをするようにお話をしていきます。
「元気が出る時」「元気が出ない時はどんな時?」と子どもたちに聞いてみました。
「元気が出ない時」という問いかけには、子どもたちから あまり声が出なかったので、先生に聞いてみると「悲しい時には 元気が出ません」という言葉が返って来ました。
それでは、一緒に悲しんだり、泣いてくれる人がそばにいたらどうですか?というと、先生の顔はパッと明るくなり、「そんな人がそばにいてくれたら嬉しいです」と言われました。
隣りに誰もいなくて、一人ぼっちの時は元気が出ません。でも、イエスさまはいつも隣りにいてくれます。だから、元気を出しなさい。イエスさまの命令には、いつも約束が共にあります。
「悲しむ人々は幸いである」とイエスさまは言われます。その人たちは慰められることを約束されているからです。
子どもたちと一緒に、言葉を交わしながら、神様のことをお話していく。それは、キリスト教幼稚園の楽しいところです。
今月の本の紹介
「 うちのねこ 」 高橋和枝 ( アリス館 )
はる のらねこだったねこが ある日 うちへやってきた。
ソファのしたにいて でてこない。
ねことくらしているのに ねことくらしていないみたい。
ちかづくと かみついたり ひっかいたり。
そして なつ あき ふゆがきたけど
ほんとうは ずっとそとで のらねこを していたかったのかな。
ゆっくり ゆっくり 「うちのねこ」になるまでの おはなしです。
次回の予定 2月26日(土)