2023年12月16日(土)
「 歴史の事実、福音の事実 」
「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」
(ルカによる福音書2章1節~7節)
高校生の受洗準備会を行なっています。そこでは聖書のことを歴史的事実として伝える一方、福音のメッセージとして伝えています。今日のルカ福音書では、歴史の事実である出来事を淡々と伝えていますが、8節以降になるとルカは「恐れるな」「この方こそ主メシアである」と事実がもっている福音的な意味をきちんと語っています。
キリスト教は事実に基づいています。でも私たちは事実に基づいて救いを信じているわけではありません。事実の背後にある福音の事実に耳を傾けることが大事です。
クリスマスという歴史の事実が、みんなの救いであることをわかることは大事ですが、それが自分のものであるという福音の事実を聴きとっていくことが大事なことです。
今月の本の紹介
『 クリスマスの祈りと歌 』より (日本キリスト教団出版局)
「仔羊」から ウィリアム・ブレイク詩
仔羊くん だれがおまえをつくったんだろう?
だれがつくったか知っているかい?
おまえにいのちをあたえ
ながれのほとりや 草原で 草を食べさせ
よろこびの着物―やわらかくて つやのある
ふかふかした着物をきせて
谷じゅうを よるこびでいっぱいにするー
おまえにこんなにやさしい声をくれたその方
仔羊くん ぼくは知ってるよ
仔羊くん おまえに神さまの祝福があるように
次回の予定 1月13日(土)
2023年11月18日(土)
「人にしてもらいたいと思うことを」
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。」(ルカによる福音書6章32節~35節)
今日のオリーブの会は、出席者が少なかったこともあり、讃美歌と聖書のあとで、クリスマスの祝会で歌う歌の打ち合わせと練習をしました。毎年恒例となったオリーブの会の皆さんの歌、今年も楽しみです。
今月の本の紹介
今回は、会の中では本の紹介はしませんでしたが、最近 目にとまった詩の一節を紹介します。
「 食卓 」 晴佐久昌英『 だいじょうぶだよ 』より
(女子パウロ会)
家庭には食卓がひとつ あればいい
古びてはいてもよく磨かれて
ひとつひとつの傷みまでもあたたかい食卓
寒い冬の夜ふけには 湯気が立ちのぼり
そこへみんなが戻ってくるような
そこからみんなが旅立つような
けっして消えることのない
いのちのごはんをいただけるような
人生には
そんな食卓がひとつ あればいい
次回の予定 12月16日(土)
2023年10月21日(土)
「天に宝をたくわえる」
「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。」
(マタイによる福音書6章19節~20節)
四国の教会にいる時、ある婦人が「天に宝を貯えなさい」とはどういう意味ですか?と聞いて来られました。新共同訳聖書では「宝」という言葉ではなく「富」という言葉を用いています。「富」という言葉だと限定されてしまいますが「宝」という言葉は、いろいろな意味が広がります。その時の私は、その婦人の質問にうまく答えることが出来なかったのですが、そのことが今、メッセージを伝える上で大きく影響を与えています。駆け出しの頃の失敗や惨めな思いは、その後に良い影響を与えることが多いと思います。
ここでは「地上」と「天」、「目に見えるもの」と「目に見えないもの」が対比されています。目に見えるものを宝物にするなとイエスさまは言われます。天に蓄えることが出来る宝とは何でしょう?そこでは虫が食うこともさび付くこともなく、盗まれることもない。
皆さんは何だと思いますか?
見失った一匹の羊が見つかった時、「大きな喜びが天にある」とルカによる福音書15章7節に書かれています。
キリスト教幼稚園の子どもたちが、神様を信じて巣立ち、旅立って行く時、天に宝が積まれていくのではないでしょうか。
今月の本の紹介
祈りの詩人といわれた八木重吉の詩です。
「ねがひ」
人と人とのあひだを
美しくみよう
わたしと人とのあひだを
うつくしくみよう
疲れてはならない
人との関係の中で疲れ、傷つきながらも「美しくみよう」と願い、祈り続けていた八木重吉の思いが伝わります。
「素朴な琴」
この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美くしさに耐へかね
琴はしづかに鳴りいだすだらう
秋の明るい日には、この詩のことを思い出します。
( 「単純な祈り」 関 茂著 日本基督教団出版局 )
次回の予定 11月18日(土)
2023年9月28日(木)
「見ないのに信じる人は、幸いである。」
「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。(ヨハネによる福音書20章24節~29節)
イエスさまが復活された後、弟子たちの間に現れましたが、その場にいなかったトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ信じない。」と言いました。
確実なものを「見て信じる」ことは古代ギリシャの思想です。それに対して「見ないで信じる」のは聖書のヘブライ思想です。
イエスさまはトマスに、見ないで信じる信仰を求めています。
見ないで信じる信仰は、聖書のいろんなところに出て来ます。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ人への手紙11章1節)
「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマの信徒への手紙8章25節)
聖書は天について語ります。主の祈りは「天にましますわれらの父よ」と祈ります。
目に見えないものを大事にし、見えないものを信じることを求めてきます。
エマオへの道で二人の弟子に現れたイエスさまは、二人の目が開け、イエスさまだと分かった時に、その姿は見えなくなります。
目に見えないイエスさまを、私たちは信じています。
今月の本の紹介
「 アンが愛した聖書の言葉 」( 「赤毛のアン」を大人読み )宮葉子 著
いのちのことば社
この本の紹介というよりも、本を下さった方についての思い出を語って頂きました。自分のお誕生日に、みんなにお花をプレゼントしてくれたり、何かを渡してくれる時も必ずひかえめな様子で分けて下さる。とても魅力的で素敵な女性だったということでした。
「赤毛のアン」には多くの聖書の言葉が引用されています。大人が読んでも、深く考えさせられる真実が込められており「その正体を探れるのは、大人ならではの知的な遊び」「大人読み」だと著者の宮葉子さんは語ります。
子どもの頃に読んだ「赤毛のアン」また改めて読んでみたくなりました。
次回の予定 10月21日(土)
2023年6月24日(土)
「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。」
(創世記4章1節~16節)
ある牧師より相談を受けました。幼稚園の合同礼拝で、ある先生が、このカインとアベルの聖書箇所についてお話をしたということです。そこには子どもたちと共に保護者もいて、礼拝の後で「弟を殺す物語を子どもにするのはいかがなものか」と言われたとのことです。この聖書箇所は、自分で選んだのではなく、幼稚園の年間のカリキュラムになっています。幼稚園や教会学校の子どもたちに話す時に、保護者もその場にいる時があります。
一般に日本人は、聖書的な伝統が無いため、カインとアベルの話にしても、人と人の話として読んでしまい、そこにおられる神の存在を度外視してしまうことがあります。
聖書は、人間同士の葛藤を描く書物ではなく、そこにある天からの助けや慰めのことなどが描かれています。人と人のことだけに目を向けていると、何のことだかわからないことがあります。例えば「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイ5・4)とか「途方に暮れても失望せず」(コリントⅡ4・8)など。聖書はとんでもない矛盾を抱えた書物であると思います。皆さんはどう思われますか?
オリーブの会の皆さんからも、いろいろな意見が出されました。
グリム童話などでも残酷な話がありますが、日本人にはなじめない感覚もあります。
アブラハムとイサクの話もそうであるし、十字架のこと自体が残酷な話だと思います。
しかし、そこを避けて話さないのもおかしいと思います。
戦争の話なども、多くの人たちが殺されており、それを子どもたちに伝えていかなければならないと思います。
「三びきのやぎのがらがらどん」など、おなじみの絵本も最後は残酷な場面ですね。
「カインとアベル」の話の中で、神様はどう思われているかを、子どもたちに考えさせることは大事だと思います。神様が悲しんでおられること、でも神さまはカインを殺すことはなさいませんでした。
「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(7節)と神様はカインに言われます。神様に応答しながら自由に生きることを、人は求められているのです。
今回このような発言をして下さったお母様は、子どもさんのことをよく考え、礼拝の話を真剣に聞いて下さった方であると思います。口に出して言って下さったことを良かったと思い、感謝したいと思います。
次回の予定 7月13日(木)
2023年5月18日(木)
「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」
(使徒言行録 2章42節)
平日の夕方、高校生のMくんと洗礼準備会をしています。
彼は中学1年生の時に中高生キャンプに参加し、そこで今まで全く知らなかったキリスト教の考え方に初めて触れたそうです。これまで彼が聞いてきたことと、キャンプで知った価値観は全く違っていて、何が大事で、何を求めるべきか、キリスト教の価値観を身に付けたいと彼は言います。とても嬉しく、頼もしいと思います。
今日の聖書では、ペンテコステの出来事のあと、ペトロと他の弟子たちが語り始め、聞いて信じた人々の群れによって教会が出来ていきます。
「使徒の教え」はキリストのみわざとみことばです。彼らはパンや杯、そしてみことばを「相互に」分かち合い、主の晩餐を行い、熱心に祈りました。「熱心であった」というのは元の言葉では「離れることが無かった」という意味があります。
初代教会の彼らが、キリストの十字架と復活から離れることなく守り続けてきたこと、これはキリスト教の考え方の根本になっており、今も私たちの教会で行われています。
「 今月の本の紹介 」
『 ぼくはいしころ 』 坂本千明 (岩崎書店)
これは、ひとりで生きる、あるくろねこの、ちょっとふしぎであたたかいお話です。
ぼくはいしころ だれも それを きにとめない
こえを あげてはいけないよ だまっていれば ぼくらは へいわだ
だけど ある日 しまっていたこえが あふれだした
「 おはよう こんにちは こんばんは いただきます ごちそうさま 」
「 さよなら いしころ 」
次回の予定 6月24日(土)
2023年4月15日(土)
「イエスは生きておられる」
(ルカによる福音書 24章23節)
幼稚園の4月の聖句です。
教会やキリスト教にあまり触れたことの無い人は、この聖句をどのようにとらえるのでしょうか。どんな反応が返ってくるのでしょう。
幼稚園の先生方と、この聖句についての学びをしました。
あるパートの先生は、(イエスさまは)「私たちの中に生きておられると思いました」と言われました。またある先生は(イエスさまは)「私たちと共に生きておられると思いました」と言われました。そのどちらもが、大事な聖書のメッセージです。
イエスさまは私たち一人一人と共におられる。こんな反応が先生方から返ってきたのは嬉しいことです。
イエスさまは生きておられることを子どもたちに語ることが出来る教師と、その話に入って来る子どもたちがいる。そんな幼稚園であることは感謝です。
今日はオリーブの会の後、明日の墓前礼拝に備え、足羽山の聖徒の墓へみんなで行き、お墓の掃除をしました。それまで降っていた雨も止んで、予定通りお掃除することが出来たので良かったです。
次回の予定 5月18日(木)
2023年3月9日(木)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」
(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章16-18節)
キリスト教の幼稚園などで暗唱聖句として選ばれることが多く、愛唱聖句としてあげる大人も多いみことばです。
しかし人生の中で、つらいこと、悲しいことがあると、この聖句を愛唱聖句としてあげることが憚られることもあると思います。
不幸や悲しみの中にあっても、この聖句をあげ続けた方がいます。
ある教会のⅠさんは、クリスチャンの夫と結婚して、クリスチャンホームを築きますが、夫は早めに亡くなり、二人の子どもも病気で相次いで亡くなりました。
Ⅰさんは言います。「夫と私の信念は一緒です。必ず神がおられ、私たちを守って下さる。だから私は今も落胆していないんです。」良い息子と、優しい娘に出会えた。その伴侶も申し分ない人で、孫をよく育ててくれた。
Ⅰさんの中には、あのみことばがありました。
「どんなことにも感謝しなさい。」これは、やみくもに感謝するのではなく、どのような境遇の中にも恵みを見なさいということです。
Ⅰさんの人生の中に、いつもこのみことばがあったから、彼女がこの世を去る時に、地上の一人一人に、感謝の言葉を残すことが出来ました。
「 今月の本の紹介 」
「 バスが来ましたよ 」 (アリス館)
由美村 嬉々 (文) 松本 春野 (絵)
ある朝、バスを待つわたしに「バスが来ましたよ」というかわいい声がきこえてきました。その女の子は、目の見えないわたしを支えてバスに乗せてくれました。
その日から毎日「バスが来ましたよ」という声は、わたしを助けてくれました。
やさしさのバトンがつながれていく、本当にあった物語です。
次回の予定 4月15日(土)
2023年2月18日(土)
「 信仰の無い自分 」
「さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。
群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。
イエスが彼らに、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」と尋ねられると、
群衆のひとりが答えた、「先生、口をきけなくする霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。
霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。
イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。
そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。
そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。
霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。
イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。
その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。
すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。
しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。
家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。 すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」(マルコによる福音書9章14-29節)
ひどい発作をもつ息子と、その父が出て来ます。
父はイエスさまに「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と言います。そんな父に向かってイエスさまは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と言われます。父は、自分の信仰の無さに気がつき「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と言いました。
信仰の無い自分に気がついた時に初めて、信仰を告白できることがあるのではないでしょうか。
今まで、どうやっても願いがかなわなかった時に、私たちは信じることが出来なくなってしまうことがあります。しかし、そんな自分を認めて、そこからまたイエスさまの力と救いのわざを信じ続けることは大事なことだと思います。
「 今月の本の紹介 」
『 かみはこんなにくちゃくちゃだけど 』 ヨシタケシンスケ 著 (白泉社)
毎日の生活の中でイヤなことがあれば、必ず良いこと、うれしいこともある。
どんな時でも、小さな希望が隠れている。ちょっとだけ視点を変えてみることで、プラス思考で生きることができそう。そんなことを思わされる絵本です。
『 親身にぶつかる 』 デビッド・アウグスバーガー 著
( 平野ふみ子・平野英里 訳 )
自分と意見が違う人と、どのように向き合っていけばいいのか。
拒否したり、攻撃するのではなくて、補い合ってお互い成長していけたらいいですね。
次回の予定 3月9日(木)
2023年1月19日(木)
「 一緒に喜んでください 」
さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。
するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。
そこでイエスは彼らに、この・をお話しになった、
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。(ルカによる福音書15章1-7節)
幼稚園と教会学校の1月の聖句です。
見失った一匹の羊を捜す人のたとえ話をイエスさまが語っています。
いなくなった一匹の羊が見つかった時、その人は友達や近所の人々を呼び集めて
「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言います。
「一緒に喜んでください」という言葉を英文にすると「Rejoice with me」です。
「Rejoice」(喜んでください)という言葉は「天上にある喜び」という意味があります。
羊を持っている人とは、イエスさまのたとえです。天の神様とイエスさまが共に喜んでいるということでしょうか。
幼稚園の子どもたちに、イエスさまはどんな時に喜んで下さるかを聞いてみました。
子どもたちは「やさしくすること」など、いろいろ答えてくれます。
イエスさまは、これをすると喜んで下さるかを、一度止まって考えてみることも大事だということを子どもたちに話しました。
この聖書箇所では、羊の他に、「無くした銀貨」「放蕩息子」の三つのたとえ話が描かれています。
「放蕩息子」のたとえでは、父が兄息子に「弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と言います。
天の神様と一緒に喜ぶことがとても大事であることを、イエスさまは語っているのです。
「 今月の本の紹介 」
『 絵本・ことばのよろこび 』 松居直 著 (日本基督教団出版局)
『 よあけ 』 (福音館書店)
ユリー・シュルヴィッツ 作・画 瀬田貞二 訳
以前「信徒の友」で連載していたこの本は、一人の女性から松居直さんへのお便りで始まります。
彼女は小学、中学時代に絵本に夢中になりましたが、やがて大学、OL、結婚と育児をする中で、心の中がからっぽになっていきます。身も心もカラカラになったのに気が付いたのは、子どもを妊娠した時でした。しかし、子どもと共に絵本にまた出会い、輝く世界を取り戻すのです。海草のように世間に流され、自分さえ失うところを、絵本に助けられたと彼女は言います。絵本によって内なることばを取り戻した彼女にとって、それは生きてゆく時の力になっていくと松居さんは書いています。
暗闇の中で輝く「命のことば」を下さった主に感謝します。
『 よあけ 』
静寂の中に沈む深い闇、山の湖の岸に老人とその孫が眠っている。やがて二人は小舟で湖へこぎ出す。夜明けの一瞬、朝の光が山と水を緑に染める。それだけのシンプルなストーリーですが、中国の「漁翁」という漢詩をモチーフにして、作者のシュルヴィッツは、美しい水彩画の世界を創り出しています。
松居さんが、声に出して読むのが大好きだという絵本のひとつです。
次回の予定 2月18日(土)