2025年4月12日(土)

  『なにをすべきか(専念すること)』

私たちが、神の言葉をおろそかにして、食事の世話をするのは好ましくない。そこで、兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人探しなさい。彼らにその仕事を任せよう。私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。

(使徒言行録6章2~3節

今日の新約の御言葉は、初代教会で起こった配給をめぐるトラブルの解決を語っています。教会の内部にも葛藤や対立は起こります。しかし、それら交わりの危機を本当の意味で打開し、新しい道を開くのは、祈ることと御言葉を一緒に聞くことです。

使徒たちは、そこに気づくことができた

だから、使徒たちは、神の御言葉をないがしろにして制度改革に励むのではなく、むしろ、自分たちは祈りと御言葉の奉仕に専念し、ふさわしい働き手を立てることにしたのです。

東京の教会にいた頃、教会の人たちの仕事を手伝おうとすると「ここは私たちでやります。先生は先生でなければ出来ないことに専念してください」と言われて、身の引き締まる思いがしたことです。

教師・伝道者は祈りと御言葉の奉仕に専念することが大事です。さらに言うなら、教師を祈りと御言葉の奉仕に専念させる気風が教会に求められます。牧師が「こんなことまで」と思うような下働き・雑用に専念させられている教会があります。そういう教会は、概して教会論が弱いものです。教会論が弱いと、教会的な筋道よりも、熱心さや活気が重んじられて、教会が一種のムーヴメントになってしまいます。そのムーヴメントの維持・活性化のために牧師が雑用に走る。いかに活気に満ちていても、これは「好ましくない姿」です。

2025年3月9日(日) 7名

久しぶりのオリーブの会でした

「鹿のように」をみんなで歌い楽しい時間を過ごしました

今日は珍しいお客様が見えました

初期神明教会の宣教師をしてくださったホームス牧師のお孫さんご夫妻がいらっしゃいました

お二人は戦災と震災によって私たちの手元から失われた貴重な写真・資料を見せてくださって、時と国境を越えた親しい交わりを頂くことが出来ました