聖書:イザヤ書42章6~7節・マルコによる福音書14章43~52節

説教:佐藤 誠司 牧師

「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形つくり、あなたを立てた。見ることの出来ない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人を、その牢獄から救い出すために。」(イザヤ書42章6~7節)

「イエスを裏切ろうとしていたユダは、『わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け』と前もって、合図を決めていた。ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、『先生』と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。」(マルコによる福音書14章44~46節)

 

ユダの裏切りの物語を読みました。多くの説教者・伝道者が福音書の説教で、最も困惑するのが、イスカリオテのユダの裏切りであろうと思います。ユダの裏切りから、福音を聞き取る。それが難しいのです。ユダの行為や歩みを詳細に取り上げて、つぶさにその心理を解明したとしても、それはユダの心理描写にはなり得ても、福音のメッセージとはなり難い。同じ裏切りを取り上げるなら、その後立ち直っていくペトロあたりで済ませておくというのが、賢いやり方なのかも知れません。

しかし、それなら、どうして福音書はユダの裏切りを語るのでしょうか? これは主イエスの十字架を描くための通過地点に過ぎないのでしょうか? 私はそうは思わない。ユダという人物が、主イエスの弟子でありながら、主イエスを裏切ってしまう、しかも、敵に売り渡して、裏切ってしまう。この闇の出来事の中にも、私は福音の光が届いていると思うのです。

闇の力が、この場を支配しています。誰も、その力から逃れることが出来ない。闇の力とは、そういうものです。闇の力、罪の力が人々を一人残らず飲み込んでいる。誰も、その力に抵抗できない。弟子たちすら、闇の力に飲み込まれている。

闇の力に捕らわれると、人はどうなるでしょうか? それは47節に記されています。

「居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。」

「居合わせた者の一人」となっていますが、おそらく、これは弟子の一人と思われます。弟子の一人が、剣を抜いて、大祭司の手下に打ってかかって、耳を切り落としたのです。勇敢な行為に見えるかもしれません。主イエスを守るためであったかもしれない。しかし、主イエスは見抜いておられたと思います。彼の取った一見勇ましい行為が、恐怖心のなせる業だということを見抜いておられた。

彼だけではありません。主イエスお一人を捕らえるために、剣や棒を振りかざしてやって来た大勢の人々がいる。武器を持たないでは何も出来ない人々です。これも、恐怖に捕らわれているからです。恐ろしいのです。だから、武器を手にする。武器を持っていないと恐ろしいのです。これが闇に捕らわれた人の姿です。

さて、このように考えますと、彼らの先頭に立ってやって来たユダの心も、見えてくるのではないかと思います。ユダの心も、やはり恐怖に捕らわれていたのです。43節をご覧になってください。

「さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。」

なぜ、接吻しようとしたのでしょうか。これには、二つの理由があると思います。一つは、主イエスを捕らえるための合図です。44節に、こう記されています。

「イエスを裏切ろうとしていたユダは、『わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け』と前もって、合図を決めていた。」

合図を決めていたとハッキリ言われています。逮捕のきっかけが接吻だったわけです。しかし、それだけだろうかとも思います。きっかけの合図だけだったら、「わたしが指さすのが、その人だ」と言っても良かったはずです。ところが、やはりユダは接吻した。この接吻には、合図だけではない、ユダの複雑な心の揺れが現れていると私は思います。

接吻というのは愛の行為です。しかし、それは何も男女の愛とは限らないわけで、当時、接吻は男性同士でも女性同士でも行われた麗しい行為でした。だから、新約の手紙の中には「清い接吻をもって互いに祝福しなさい」などという言葉が出てくるわけです。接吻が示す愛は「私はあなたを愛している」という愛です。これはユダの正直な思いであったに違いありません。

しかし、主イエスへの愛がユダを駆り立てて、逆に主イエスを裏切らせてしまうことは、あるのではないかと思う。先ほども言いましたように、接吻が示す愛は「私はあなたを愛している」という愛です。その場合、どこに重点があるかというと「私が」に重点があるわけです。問題が芽生えるのは、ここです。私が愛している、この私があなたを愛している。そういう愛は、いったい、どこに行き着くでしょうか?

支配なのです。相手を愛することと支配することが重なってくる。これは人間の愛の限界と言って良いかも知れません。ユダは主イエスを心から愛していたに違いありません。しかし、その愛は、やはり人間的な愛であったと言わざるを得ない。主イエスが中心になっている愛ではなく、自分が中心になっている愛なのです。自分の手の内に主イエスを閉じ込めておきたい、支配しておきたい。もし、主イエスがこの私の願いに沿わないならば、どうなってしまうだろう? それが自分でも分からない。ユダの恐れはそこにあったのではないでしょうか? 彼も闇の力に支配されていたのです。

主イエスを愛する愛と、人間的な愛は、いったい、どこが違うのでしょうか?ヨハネ福音書の21章に、復活の主イエスが弟子のペトロと出会ってくださる物語があります。あの夜、ペトロは三度に渡って主イエスを知らないと否認をした。そこで、主イエスがペトロにお尋ねになります。

「あなたはわたしを愛しているか。」

ペトロが「はい、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答える。すると、主イエスがまた「あなたは私を愛するか」とお尋ねになる。ペトロがまた答える。すると、主イエスはまた同じことをお尋ねになる。すると、ペトロは非常に心を痛めて悲しみます。三度、主イエスを知らないと言った自分に、主イエスが三度「あなたは私を愛するか」と尋ねてこられた。だから、悲しくなったのでしょうか? 確かにそれもあるでしょうが、私はそれだけではないと思うのです。

ペトロの心は屈折しているのです。だから「あなたは私を愛しているか」と尋ねられたときも「はい、愛しています」とは、どうしても答えられない。そこで彼は「私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答える。ところが、主イエスはまた尋ねてこられる。その中で、ペトロは、主イエスを愛していると言いながら、愛し抜くことの出来ない自分の愛の貧しさに初めて気付く。だから、彼は悲しむのです。主イエスを愛したい。しかし、最後の最後のところで、主イエスを愛し抜くことが出来ない。だから、主イエスを知らないと彼は言ったわけです。だから、今、ペトロは、「主イエスよ、私はあなたを愛しています」とは、どうしても言えずに、悲しむ。自分の愛の貧しさ、乏しさに、心揺さぶられて、悲しむのです。ところが、その悲しみの心に、主イエスの声が響くわけです。

「わたしの羊を養いなさい。」

主イエスを愛する愛の秘密は、じつに、ここにある。私という人間は、主イエスを愛することが出来ない、愛し抜くことが出来ないのだと、自分の愛の貧しさ・乏しさに嫌というほど気付かされていく。その悲しみの心に、主イエスの愛の眼差しは注がれる。そのときに、私たちは、知ることになる。主イエスというお方が絶対に私を見捨てないお方だということを知る。もうそこまで行ったら、そこまで知ってしまったら、もう主イエスを愛さないわけにはいかないではないですか。主イエスを愛するというのは、自分の中から出てくる思いではないのです。そうではなくて、主イエスの愛に捕らえられたときに、引き起こされていくものです。

同じ愛の眼差しは、ユダにも注がれていたと私は思います。主イエスは見抜いておられたでしょう。ユダの接吻が、自分を捕まえるための合図であることを見抜いておられた。しかし、主イエスは、もう一つのことも、見抜いておられたと私は思います。この接吻が、ユダの正直な愛の行為であることも、ちゃんと見抜いておられた。だからこそ、主イエスはユダの接吻を受け入れたのでしょう。主イエスはユダの接吻を受けながら、「あなたは私を愛しているのか」と問い続けられた。これは、主イエスがペトロに言われた言葉と、そのまま重なります。「あなたは私を愛しているのか」という問いかけと重なるものです。ペトロはこの問いかけによって、自分の愛の貧しさに気付くことが出来ました。だから、彼は心を痛め、悲しんだのです。そして、その悲しみの心に注がれる主イエスの愛を受け止めることが出来た。同じ眼差しが、ユダにも注がれていたはずです。しかし、ユダにはそれを受け止めることが出来たでしょうか。出来なかった。どうしても出来なかったのです。どうしてでしょうか?

自分を責めたからです。自分の愛の貧しさ・乏しさを、嫌というほど突きつけられた。そこまではユダもペトロも同じだったのです。ところが、ここから先が違った。ペトロはそんな自分を見捨てない主イエスの愛の尊さの中に、自分を丸ごと投げ打っていくのです。ところが、ユダは、生来が潔癖な性分だったのでしょう。主イエスを裏切った自分を責めて責めて、責め苛んで、ついに自ら命を絶ってしまいます。

しかし、ユダも聞いていたはずです。主イエスのお言葉を聞いていた。「誘惑に陥らぬよう、祈っていなさい」というお言葉を聞いていた。ユダにとっての誘惑とは、自分を責めることでした。良心の呵責というやつです。良心という名の悪魔が、そうさせるのです。これも闇の支配です。

しかし、闇の支配に捕らわれていたのは、何もユダだけではありませんでした。剣で敵に切りつけた弟子、おそらくこれはペトロだったのでしょうが、彼を初めとする弟子たちも、主イエスを捕らえにきた人々も、ことごとく闇に支配されていた。闇に支配される心とは、恐怖に捕らわれた心です。だから武器を持ちたがる。手に武器を持つだけではありません。心にも武器を持つ、相手を傷つける言葉や思いが、そこから現れ、噴出します。愛の乏しい心です。愛の貧しい心です。闇に捕らわれた心です。

しかし、主イエスの愛は、そういう心にこそ、注がれているのではないでしょうか? 主イエスはペトロに向かって「あなたは私を愛するか」と問われました。それはペトロに思い知らせるためではなかったでしょうか? 自分の愛の貧しさ、乏しさを思い知らせて、それでお仕舞いではない。そこに主イエスの愛は注がれる。私はあなたを見捨てない、だから、私の羊を養いなさいと言って、新たな使命まで与えてくださる。それが私たちの主イエスです。

そのお姿は、今日読みました。イザヤ書にも現されております。主イエスのお姿を預言したかのようなイザヤ書42章6節と7節です。

「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形つくり、あなたを立てた。見ることの出来ない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人を、その牢獄から救い出すために。」

闇とは恐怖をもたらす力のことです。闇に打ち勝つのは、主イエスの御言葉だけです。ユダは良心の呵責によって、自分を責めました。罪を犯したときに、自分を責めるのは、主イエスの御心ではありません。良心という名の悪魔のなせる業です。私たちは良心によって立ち直るのではありません。良心は、時に、人を死に追い遣ります。

私たちは良心ではなく、主の御言葉によって立ち直ります。ですから私たちは、時に、自分の良心にあらがってまで、主の言葉に食い下がらなければならない。私たちの人生には、そういう時が必ずあると私は思う。人生の正念場です。主の言葉にすがりましょう。なぜなら、そこにしか、私たちの本当の生き方はないからです。

 

 

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

10月8日(日)のみことば(ローズンゲン)

「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。」(旧約聖書:詩編51編18節)

「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」(新約聖書:ローマ書6章13節)

今日の新約の御言葉は聖化の歩みを語っています。今までは罪の奴隷でしたから、やること為すことすべてが罪のためでした。善を成そうとしても、結局、そこへ行ってしまう。それが罪の奴隷ということです。しかし、今は違う。私はもはや罪の奴隷ではない。神の僕であると、そこをハッキリと確認をした時に、神様、どうかこの私を、あなたの御栄えのためにお使いくださいと、そういう祈りが出て来ます。これが、じつはキリスト者の生活です。だからキリスト教では「献身」ということを言うのです。

では、自分の身をささげるとは、どういうことなのかと言いますと、詰まるところ、神様の働きに委ねるということです。そしてここに於いて、聖霊の働きということが、大きな意味を持ってくるわけです。私たちの思いや努力ではなく、聖霊が私たちの中で働いて、御業をなさる。聖霊に委ねるということが大切になってくるのです。