聖書:イザヤ書6章1~8節・マルコによる福音書6章6b~13節

説教:佐藤 誠司 牧師

「わたしは言った。『災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。』」 (イザヤ書6章5節)

「イエスはまた、こうも言われた。『どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家に留まりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようとしない所があったら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして、足の裏の埃を払い落としなさい。』十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。」(マルコによる福音書6章10~12節)

 

今日は主イエスが12人の弟子たちを伝道の旅に遣わす物語を読みました。主イエスは彼らを遣わすにあたって、ご自分の権威と権能をすべて授けておられます。汚れた霊、悪霊に打ち勝つ力を彼らに授けて、こう言っておられます。

「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして、下着は二枚着てはならない。」

厳しいことが言われております。しかし、これは持ち物のことを言っておられるのではない。杖一本なら良いですよとか、下着は一枚なら持っていきなさいとか、そういうレベルのことを言っておられるのではないのです。じゃあ、イエス様は何を言っておられるかというと、明日のことを思い煩うなということです。

物見遊山の旅に出かけるのではありません。神の国の到来を告げる旅、福音を告げる旅に遣わされるのです。だったら、そこにすでに始まっている神のご支配に身を委ねて生きるのが、あなたがたの本来の生き方ではないかと主は言われるのです。明日のための思い煩いを心の中に隠し持っていて、喜んで福音を語れるだろうか。明日の生活に心を乱しながら、神の国の到来を人々に告げることが出来るだろうか。出来ないでしょう。

しかしながら、イエス様は食べ物や衣服は必要ないと言っておられるのではありません。ルカ福音書によりますと、主イエスご自身も、女性たちが黙々と奉仕をして提供くれる食べ物を喜んで食べられたし、彼女たちがしてくれる生活の様々な奉仕を喜んで受けておられました。福音を告げ知らせる人は福音によって生活をすべきことを主イエスご自身が実践しておられたのです。あなたがたが、福音を身をもって告げるなら、その福音を信じて受け入れた人たちが、必ずあなたがたの生活を支えてくれるはずだ。イエス様は、そう言っておられるのだと思います。だから、主イエスは、10節で、こうも言っておられるのです。

「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家に留まりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようとしない所があったら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして、足の裏の埃を払い落としなさい。」

何を言っておられるのでしょうか。ある家に入ったら、その土地から出て行くまで、ずっとその家に留まっていなさいと、イエス様は言っておられる。つまり、家から家へと渡り歩くなということです。だから、一つの町にいる間は、一つの家に留まって、そこを拠点にして、そこで福音を語り伝えなさい。

主イエスはそう言われるのです。そしてこれが後の教会の原型となったのです。ですから、4節の「どこかの家」というのは、福音が語られる家のことであり、福音を語る教師の生活の拠点であり、これが教会の原型なのです。

さて、12人はこうして遣わされて、村から村へと巡り歩いて、福音を告げ知らせ、病気を癒したと書いてあります。主イエスの権威そのままに、主イエスの権威がなすままに、主イエスの権威に支えられて、彼らは働いたのです。

そして、もう一つ、大事なことが言われています。少し戻りますが、7節に、こう書いてあります。

「二人ずつ組にして遣わすことにされた。」

「二人ずつ先に遣わされた」と書いてあります。一人ではなかったのです。どうして二人なのか? これには三つの意味が考えられるでしょう。まず、二人という人数は裁判の席で証人となることの出来る人数だということです。これは初代教会の歴史が語っていることですが、主イエスを信じる信仰の故に法廷に立たされるキリスト者が多かったのです。イエス様がしばしば弟子たちに言われた言葉の中に、こんな御言葉があります。

「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

法廷に立たされたら、言うべきことは聖霊が教えてくださる。その言葉を二人で証言するために、つまり、信仰の証しの言葉を、この世の法廷でも通じる言葉として語り得るように、主イエスは彼らを二人ずつお遣わしになったと、そのように見ることが出来るでしょう。

そしてもう一つ、二人という人数は、助け合うことの出来る人数、祈り合うことの出来る人数だということです。一人なら、くじける時もあるでしょう。しかし、二人なら、互いに励まし合うことが出来ます。祈り合うことも出来る。一人なら、倒れても起き上がることが出来なくなってしまいます。しかし、二人なら、相手を起き上がらせることが出来る。

そして三つ目の理由は、二人とは、その真ん中に主イエスもおられる人数だということです。「二人、または三人が、私の名によって集まるところには、私もその中にある」というマタイ福音書18章の御言葉を今、思い浮かべておられる方もおられるでしょう。

ルカによる福音書が伝えているエマオへの道の物語も、そうですね。夕暮れの道を行く二人の弟子に寄り添うように、復活の主イエスが共に歩んでくださるのです。二人というのは、ただの人数ではない。その真ん中に主イエスがおられるという約束を示す人数なのです。ですから、キリスト教は、昔から二人ということを大事にしてきた歴史があります。結婚式がそうですね。講壇の前に立って互いに誓約を交わす二人の男女の真ん中に、イエス・キリストがおられる。そのことを、あの形は如実に現しているわけです。だから、イエス様は弟子たちを遣わすのに、二人組にしてお遣わしになったのです。

こうして彼らはイエス様によって遣わされて行きました。神の国の福音を宣べ伝えるために遣わされて行ったのです。さあ、彼らは十分な働きをすることが出来たでしょうか。マルコ福音書は、そこのところを語ってはおりません。しかし、私は、彼らは決して大きな働きは出来なかったと思う。彼らは大きな権能をイエス様から授けられて、大いに張り切ったに違いありません。イエス様の権能というものが、自分を通して、どう働くのか、そこのところをぜひ確かめたかった。そういう思いもあったと思います。しかし、彼らは、期待したほどの大きな働きはなし得なかったと私は思う。どうして、なし得なかったか。皆さんは、どう思われるでしょうか。

主イエスが与えてくださる権能というのは、魔術的な力のことではありません。主イエスが与えてくださる権能とは、罪の赦しを通して初めて力を現すものです。使徒言行録に、主イエスの名を使って悪霊を追い出そうとする魔術師のお話がありますね。魔術師はイエス様による罪の赦しを信じていない。にもかかわらず、主イエスの名を魔法の呪文のように使おうとします。すると、彼は何の働きも出来ないばかりか、逆に悪霊にやっつけられる。そういうお話がありました。あの物語が教えていることこそ、主イエスの権能の秘密です。主イエスが与えてくださる権能は、罪の赦しによって初めて力を発揮する。だから、罪の赦しを頂いてから遣わされていくことが大事なのです。

じゃあ、罪の赦しによって遣わされるとは、どういうことなのか。それを明確に語っているのが、今日読んだ旧約のイザヤ書第6章、若者イザヤが預言者として立てられ、遣わされていく出来事を語った物語です。こう書いてあります。

「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある。御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」

神殿という言葉からも分かるように、イザヤはこの時、神殿で礼拝をしていました。しかし、当時のユダヤの人々は信仰が堕落していて、礼拝が形式だけのものになっていました。イザヤは堕落した人々を横目で見ながら、自分だけはまことの礼拝をしようと、そういう思いで、彼は礼拝に臨んでいました。すると、イザヤはその礼拝の中で幻を見、御声を聞くのです。見ると、上のほうにセラフィムという御使いがいて、飛び交っている。イザヤは、まさに神様の臨在を目の当たりにするのです。すると、彼は喜んだかというと、そうではなかった。イザヤは喜びではなく、恐れを感じて、こう言ったのです。それが5節の言葉です。

「わたしは言った。『災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。』」

私は、これは神様の臨在に触れた人間の正直な思いではないかと思います。神様の臨在に出会うということは、信仰者にとって何よりも有り難いことでしょう。しかし、それは、有り難いというより、空恐ろしいことでもあります。なぜなら、神様の臨在に触れるとうことは、私たちの罪が暴露されることでもあるからです。

イザヤはそれまで、自分の同胞であるユダヤの人々の堕落した姿を批判していました。あの連中は汚れた唇の者たちだと厳しく批判していたのです。自分だけがまことの礼拝をしているのだと確信していた。しかし、その礼拝の中で神の臨在に触れた時、同胞の罪だけが問題ではない。イザヤ自身の罪が白日のもとにさらされ、イザヤ自身が汚れた唇の者であることが明らかにされたのです。それまでは他人の罪ばかり問うていた。しかし、今は違う。神の臨在に触れて、イザヤは初めて、自分の罪深さに恐れおののいたのです。

すると、その時、セラフィムの一人が火箸を持って祭壇から燃える炭火を取って、それをイザヤの唇に触れた。汚れた唇に燃える炭火が触れたのです。セラフィムが言います。

「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」

その時、イザヤは初めて神様の御声を聞きます。

「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」

イザヤは言います。

「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

遣わされるとは、こういうことです。イザヤは罪人、それも赦された罪人として遣わされたのです。世間の人々の罪ばかりが目について、自分の罪が見えてこないうちは、神様は決してその人を遣わすことはなさいません。世間の人々を腹の中で批判しておきながら、その人々に福音を語ることは出来ないでしょう。祝福を語ることも出来ません。

そうではなくて、自分こそが汚れた唇の罪人であることを痛いほど示される。そして、その罪がキリストの十字架によって完全に贖われて、決着が付けられている。そのことを知った時に、遣わされるということが起こってきます。赦された罪人として、遣わしていただくのです。

ペトロたちが、そういう道を歩みました。今日の箇所で遣わされたペトロたちは、十分な働きが出来ませんでした。しかし、この福音書の第16章で、十字架と復活の主がペトロたちを遣わしてくださる。福音を身をもって語るために遣わしてくださるのです。

このように考えますと、どうでしょう。赦された罪人として福音を伝えるために遣わされるのは、何もペトロたちに限ったことでないことが明らかになると思います。名も無い弟子たちに至るまで、キリストの弟子たちすべてが赦され、権能を授けられて遣わされて行きました。

そして現代の私たちも、礼拝において罪の赦しの福音を聞き、赦された罪人として遣わされて歩みます。私が遣わされるということは、言い換えますと、私の背後にイエス様がいてくださるということでもあります。後ろから支え、見守り、背中を押してくださる。間違った道に行かないように、道を示してくださる。遣わされて歩むとは、そういうことだと思うのです。

祈りをささげます。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

10月27日(日)のみことば

「わたしがお前と共にいて救うと主は言われる。」(旧約聖書:エレミヤ書30章11節)

「イエスは言われた。『わたしについて来なさい。』」(マルコ福音書1章17節)

今日の新約の御言葉にはマルコ福音書の特徴が非常に鮮やかに現れています。マルコ福音書は骨格だけを記す書物です。枝葉を語らない。最初の事実だけを書くのです。大事なのは、それだけです。誰かと出会ったとか、誰かに勧められたとか、そういうことではない。イエスというお方が私に向かって「私について来なさい」と言われた。これが大事です。

そして、この言葉を聞いた私がどう思ったかとか、どのように迷ったかとか、迷ったあげくに一大決心をしたとか、そういうことが重要なのではない。イエス様に従って行ったこと。これだけが重要です。だからマルコ福音書は、これだけしか書かないのです。ペトロもアンデレも、ヤコブもヨハネも、この主の招きに従っただけです。招きに応えた。ただそれだけです。それ以上のことでは決してない。何か偉いことをやり遂げたというのではないのです。