聖書:使徒言行録9章1~19節

説教:佐藤  誠司 牧師

「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』(使徒言行録9章1~6節)

 

今日も使徒言行録を読みました。使徒言行録は聖霊の働きを語る書物です。聖霊が教会を誕生させました。ペンテコステ・聖霊降臨の出来事です。その意味で、聖霊は「教会の霊」と呼んでも良いのです。

ところが、パウロの手紙を読みますと、聖霊には、もう一つの働きがあることが分かります。例えば、使徒パウロがコリント教会の人々に向けて書き送った手紙です。ご存知のように、コリント教会は、よくよく問題の多い教会であったようです。しかも、その問題は、じつにバラエティに富んでおりまして、復活信仰の根幹に関わる問題から、個人の倫理に関わる問題まで、じつに多岐に渡る、具体的なものでした。パウロはそれら一つ一つに具体的な指示を与えているのですが、それと同時にパウロが繰り返し語っておりますのは、コリント教会の人々の本当の姿です。あなたがたが、これほど深刻な問題を抱えながら、それでも主の教会とされていることを繰り返し語っている。そして、それと同時にパウロが熱く語っていることは、一人一人が聖霊の住まわれる神殿とされていることなのです。

ここに聖霊の働きが二つ述べられていることに、皆さん、お気づきでしょうか。一つは聖霊によって弟子たちの集まりが教会とされていること。二つ目は、一人一人が聖霊の宿る神殿とされていることです。第一コリントの6章に、こんな言葉がありますね。

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神の神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

人の中に聖霊が宿るというのは、言い換えますと、その人が神様によって根底から造り変えられるということです。どうして、パウロに、これが言えたかと言いますと、パウロ自身が神様によって完全に作り変えられた経験があるからです。それは復活のキリストとの出会いによって引き起こされました。

当時、彼はまだ、その名をサウロと言いました。ユダヤ人らしい伝統的な名前です。有名な律法学者ガマリエルのもとで学んだサウロは、彼自身もファリサイ派の律法学者であり、忠実なユダヤ教徒でありました。そのころ、ユダヤ教の中で、一つの問題が生じておりました。ナザレのイエスという男を救い主・キリストと信じる人々が大勢出てきまして、ユダヤの伝統的な信仰を何かと言っては軽んじる。律法を軽視し、さらに神殿礼拝をないがしろにする。彼らは教祖であるイエスが十字架刑に処せられてからも、イエスの復活を信じて、さらに積極的に教えを広めようとしている。若いサウロの仕事は、このとんでもない連中を逮捕して連行し、鞭打って、正統的なユダヤ教に立ち帰らせることでした。ですから、サウロは、彼らの先頭に立って律法と神殿をないがしろしたステファノが殺害されたときも、これに賛成していたのです。

このような情報を小出しにしてから、使徒言行録は、いよいよ満を持してサウロを登場させます。サウロの姿を見せるのです。それはどういう姿であったかと言いますと、殺害の息を弾ませながら、ダマスコへと向かうサウロの姿です。ダマスコにキリスト者が大勢潜伏しているという情報をキャッチした彼は、さっそく大祭司に手紙を求めます。最高法院の代表が大祭司でしたから、この手紙というのは逮捕状のようなものであったと思われます。これさえあれば、サウロはキリスト者が潜伏すると思われる家に押し入ることも出来たし、会堂に踏み込むことも可能になります。サウロが殺害の息を弾ませながら、意気揚々とダマスコに向かったのも頷けます。

このように聞きますと、いかにもサウロがキリスト者への憎悪に駆り立てられて、キリスト者の撲滅に乗り出したかのように聞こえますが、サウロの名誉のために言い添えますと、彼は憎悪とか敵意というような感情で動いていたわけではないのです。これはあくまで神様への熱心からしていたことで、彼は信仰の業として、間違った道に進んでいった人々をユダヤ教の本筋に連れ戻す役割を担っていたに過ぎません。しかし、まさに、このことが、彼の中で、後に大問題になってくるのです。

ところで、2節に興味深いことが書いてありますね。「この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ」と書いてある。「この道」って、どういうことなのでしょうか? じつは、これ、当時の人々がキリスト者に付けたニックネームなのです。ニックネームというのは馬鹿に出来ないものでして、案外、そのものの本質をズバリと言い表しているものが多いです。例えば「放送局」というニックネームを頂戴しているご婦人がどのような女性か、これはそのニックネームが一目瞭然、最も如実に現しておりますね。「この道の者」というのも、そうなのです。これも当時の人々がキリスト者を揶揄するために付けたニックネームです。キリストを信じる連中は皆、家を出て道に住んでおるようなものだ。いつまでも定住しない。いつも道の途上にある。旅人のように定住することなく、この世を生きている。これは後にパウロが、フィリピの信徒への手紙の中で、より鮮やかにその本質を言い表しました。彼はこう述べたのです。

「わたしたちの本国は天にある。」

天にある本国を仰ぎ見つつ、旅人として与えられた地上の生を生きる。本国に至る道を歩む。パウロはそう言ったのです。そのパウロが、今、同じ道を、殺害の息を弾ませながらダマスコに向かっている。ところが、彼がダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らしたと書いてあります。サウロは立っていることが出来ずに、地に倒れ伏します。すると、そのとき、彼は、呼びかける声を聞きます。

「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」

この語りかけの声を聞いて、サウロは、思わず、こう問い返します。

「主よ、あなたはどなたですか。」

誰だか分からない声の主に向かって「主よ」と呼びかけています。サウロは直感的に分かったのです。声の主が誰だかは分からない。しかし、これは天からの声だと直感的に分かった、だから、彼は「主よ」と呼びかけることが出来たのです。この問いに対して、彼は決定的な答えを聞くことになります。

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」

この一言が彼に与えた衝撃は、本当に計り知れないものがあると思います。今の今まで、サウロには、キリスト者を迫害しているという意識しか無かったのです。ところが、天からの声は「私がイエスである」と言っただけでなく、あなたは私を迫害しているのだと言ったのです。イエスというお方は、そういうお方であったのかと、キリスト者への迫害をご自分への迫害とし、キリスト者の痛みをご自分の痛みとされる。イエスとは、そういうお方であったのかと、この瞬間的な出会いが、彼にどれほど深刻な衝撃を与えたか。

サウロはこれまで、イエスは神に呪われた者として処刑されたのだと信じ込んでいました。神に見捨てられて死んだのだと思っていた。その男の亡霊に突き動かされているだけのキリスト者は、まことに憐れむべき存在で、この迷える人々をユダヤ教の本筋に立ち返らせることこそ、自分の本分であり使命だとサウロは確信していたのです。

ところが、天の栄光の座から、ほかならぬ主イエスの声が響いたとき、彼のこれまでの確信は大きく揺らいだに違いありません。しかも、この声は、単なる声ではなく、彼に向かって呼びかけ、語りかける声だったのです。声は続けて、こう響きました。

「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

これ、何ですか。使命、ミッションでしょう? まだサウロは地面に倒れ伏しているというのに、早くも使命を与えておられる。意外に思われるかも知れません。しかし、これが主イエスのなさりようなのです。ペトロに対しても、そうでした。最後の晩餐の席で、主イエスはペトロにこうおっしゃった。

「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

立ち直る前に、すでに使命を与えておられるのです。これが主イエスのなさり方です。どうして主イエスに、これが言えたのかと言いますと、ペトロを、サウロを、立ち直らせるのは、主イエスご自身だからです。

さて、サウロは、地面から立ち上がって目を開けたのですが、何も見えなかったと書いてあります。今の今まで意気揚々と、人々の先頭に立っていた彼が、今や人に手を引いてもらわなければ、歩くことすら出来ない。これは、目が見えないからとか、気が動転していたからとか、そういうレベルのことではないのです。生き方の根底に関わることです。今まで神様を熱心に信じるが故に、キリスト者を迫害してきた。いや、迫害するという意識すら無かったのです。おかしな道に迷い込んでいる人たちを、本来のユダヤ教の本筋に連れ戻す。それを確信を持ってやって来た、その確信が根底から揺らいで、覆された。サウロは三日間、目が見えず、飲みも食べもしなかったと書いてあります。

さて、物語は、ダマスコの町に入って、アナニアというキリスト者とサウロとの出会いを語って行きます。アナニアに主イエスが幻の中で語りかけ、サウロを受け入れてやりなさいと命じます。迫害者として有名であったあのサウロを、どうして受け入れなければならないのかとアナニアが訝りますと、主イエスはこう言われます。

「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示そう。」

そしてアナニアがサウロを受け入れ手を置いて祈ると、サウロの目からうろこのようなものが落ちたという有名なお話が出て来ますが、アナニアとの物語は早々に切り上げて、私たちは、サウロの回心といえば、やはり、旧約のイザヤの召命の物語を、どうしても読まなければならないと思います。イザヤ書の第6章です。

ウジヤ王の死んだ年、神殿の礼拝の場で、イザヤは神の臨在に触れる出来事を経験します。イザヤはそれまで、ユダヤの同胞たちの罪深さに心を痛めておりました。ところが、イザヤ自身が神殿で神様の臨在に触れますと、途端に恐れおののいたというのです。どうしてでしょうか。私は、ここに、聖書が語る召命の秘密があると思うのです。「召命」というのは、一人の人が神様によって特別の御用に立てられることです。イザヤも、サウロも、神様によって立てられて遣わされていきます。ところが、彼らは、胸を張って意気揚々と遣わされたのではないのです。イザヤを見ますと、恐れおののいたと書いてある。いったい何に恐れおののいたのかと言いますと、自分の罪を自覚し、自分の罪深さに恐れおののいたのです。5節に、こうありました。

「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。」

いったい何を言っているかと言うと、これまでイザヤは神様を信じる者として、人々の罪が赦せなかった。同胞たちの罪深さに憤り、非難してきたのです。ところが、彼自身が神様の臨在に触れて、まず痛いほど示されたのは、彼自身の罪だったのです。神様の臨在に触れるとは、そういうことなのではないですか? 神様の臨在に触れるとまではいかない段階で、ただ神様を信じているというとき、私たちは、他人の罪はよく見えるのです。しかし、真実に神様の臨在に触れるとき、私たちが問われるのは、そういう他人事の罪ではない。この私の罪深さです。自分という人間が根源的に持っている罪深さを、イザヤはハッキリと自覚した。私たちが神様を知るときに、ただ神様のお恵みとか、神様のお守りとか、そういうことだけではない、自分の罪ということをハッキリ知らされる。そういうことが起こるでしょう? 自分がいかに神様の御心から遠く離れ、神様に背いた生き方をしていたか。自分の考えること、口にすること、行いに現れることが、ことごとく、神様の御心とは違う。そういうことを、神様の臨在の中でハッキリ示されるわけでしょう? それで、イザヤは、ああ、もう自分は滅びるばかりだと、そう言わざるを得なかった。

そのときにセラフィムという天使が現れて、燃える炭火を、彼の唇に触れさせる。そしてこう言うのです。

「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、あなたの罪は赦された。」

神様によって人間が造り変えられるとは、こういうことです。あなたの罪は赦された。この言葉を真正面から受け止めるとき、罪に倒れ伏すしかなかった人間が、立ち直るのです。イザヤが立ち直りました。ペトロが立ち直りました。そしてサウロが立ち直って行きます。

後にパウロは、あのころの自分を振り返って、ローマ書の中で、こう述べております。

「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのは、なおさらです。」

これはパウロの原点です。敵であったときに、憐れんでくださった。このお方がおられなければ、私たちは救われなかったでしょう。今日の説教題を「迫害者から伝道者へ」といたしました。これはサウロだけのことではありません。誰もがそうです。最初から伝道者であった人は一人もいません。誰もが皆、主イエスの御心に、神様の御心に敵対して、敵として歩んでいた。しかし、主イエスは私たちが敵であったときに、すでに御手を伸べてくださっていたことを思い、感謝が溢れます。この感謝を礎にして、今日から始まる一週間の旅路を、この道に従う者として歩みたいと思います。