聖書:イザヤ書6章1~8節・マルコによる福音書8章22~26節
説教:佐藤 誠司 牧師
「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。」(イザヤ書6章1節)
「イエスは盲人の手を取って、村の外へ連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何が見えるか』とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』そこで、イエスがもう一度、両手をその目に当てられると、よく見えてきて癒され、何でもはっきり見えるようになった。」(マルコによる福音書8章23~25節)
今日はマルコによる福音書の第8章の物語を読みましたが、じつは、マルコ福音書の第8章には、この福音書の大きな山場があります。
それは次週に読むことになる第8章の27節から30節の物語。主イエスが弟子たちと共にフィリポ・カイサリアに行かれた時の出来事です。「あなたがたは私を何者だと言うか」とイエス様から尋ねられて、皆が沈黙する中で、ペトロが見事に答えた。「あなたはメシアです」と明確に答えた。これがマルコ福音書の中心であり、前半から後半に移っていく分水嶺のような位置を占める物語です。
どうしてこれが大事な山なのかと言いますと、これまでイエスというお方の正体を言い当てたのは、悪霊や汚れた霊だけでありまして、生身の人間は誰もイエス様の正体を言い当てることが出来なかった。今、私は「正体」という言葉を使いましたが、今ではあまり良い意味では使われない言葉かも知れません。「正体を見破る」とか、「正体を暴く」などと聞きますと、なんだか、悪者の化けの皮をはがして見せるような趣がある。どうも「正体」という言葉には、悪者めいたイメージが付きまとう。しかし、私は、「正体」という言葉以外に、この出来事を表すにふさわしい言葉は無いのではないかと思います。
正体という言葉は、漢字でどう書くでしょうか。そう、「正しい体」と書いて正体と読む。なかなか含蓄に富む言葉なのです。特にイエスというお方の場合、この方の正しい体を見抜くことが、どうしても必要になってくる。神と人との中間的な存在、近頃はハイブリットなどという言葉は流行っていますが、神と人間のアイの子などということではなく、まことの神であり、かつまことの人であるという、イエスというお方の正体、正しい体を見ることが、どうしても必要になってくるのです。
で、今日の物語に入って行くわけですが、主イエスの正体、正しい体を見る物語の直前に位置する今日の物語が「見えるようになる」物語だというところに、マルコ福音書の並々ならぬ意気込みと言いますか、勝負をかけてくる息遣いのようなものを感じます。
では、マルコ福音書は、その勝負を、どのような仕方で仕掛けてきているかと言いますと、「見えるようになる」とは、どういうことか、というその一点で勝負に出ていると私は思うのです。
皆さんも、すでにお気づきと思いますが、福音書には盲人の癒しの物語が多いですね。あれ、なぜなのでしょうか。皆さんは、どう思われますか? 盲人ということは、目が全く見えないということですね。その見えなかった人が、見えるようになる。さらに言えば、見えるようにしていただく物語なのです。つまり、福音書が大事にしているのは、見えるか見えないかではない。見えなかった人が見えるようになることを、福音書は重んじている。だから、福音書には盲人の癒しの物語が多いのです。
さあ、そう考えますと、もう一つ、大きな疑問が浮上してきます。福音書は、見えなかった人が見えるようになることを大切にしているのだと言いました。ならば、これは視力の回復のことを言っているのか、という疑問です。確かに、物語の上辺だけをなぞって読みますと、視力を失った盲人がイエス様によって視力を取り戻していただく。つまり、視力を回復させていただくお話のように読めてしまいます。
しかし、聖書の物語というのは、そういう目に見える物語の背後に、もう一つ、目に見えないメッセージが脈々と流れているのでありまして、私たちは目に見える物語を把握すると同時に、その物語のもっと奥に、まるで地下水脈のように滾々と湧き上がるメッセージの泉を掘り当てなければならない。そこまで行かないと、聖書を読んだことにはならないのです。物語のもっと奥に流れる地下水脈を掘り当て、滾々と沸き出る泉から福音のメッセージを汲み上げる。それを、どう聞き取っていくか。そこが、聖書がただのお話で終わるか、神の言葉となるか、その瀬戸際なのです。
そのようなことを心に留めて、この盲人の癒しの物語を読みますと、隠された真実が、少しずつ明らかになって、それこそ、見えなかったものが、見えるようになる、そういう経験を、私たちも積むことになると思うのです。
ベトサイダというガリラヤ湖畔の町での出来事です。人々が一人の盲人をイエス様のところに連れて来て、触れていただきたいと願いました。すると、イエス様は、どうなさったか。23節に、こう書いてあります。
「イエスは盲人の手を取って、村の外へ連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何が見えるか』とお尋ねになった。」
すると、どうなったか。24節に、こう書いてあります。
「すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』」
物語の描写は、さらに続きます。25節です。
「そこで、イエスがもう一度、両手をその目に当てられると、よく見えてきて癒され、何でもはっきり見えるようになった。」
いかがでしょうか。「見えるようになった」という言葉が繰り返し出て来ております。いったい、何が見えるようになったのでしょうか。
じつは、「見る」とか「見える」というのは、聖書の隠れたキーワードの一つです。で、聖書が「見る」とか「見える」という言葉をキーワードとして使う時というのは、大抵、肉眼で見ることではなく、もっと内面的と言いますか、信仰によって見ることを語る時です。そういう使い方を最も典型的にしているのは、おそらく、ヨハネ福音書であると思います。その例を幾つか挙げますと、第1章の14節に、こんな御言葉があります。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」
また、第1章の51節には、こんなお言葉があります。
「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
そして、第11章40節。弟ラザロを葬った墓の前で泣いているマルタに向かって、イエス様はこう言われる。
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」
ここは、じつに興味深いところです。信じるなら、神の栄光を見ることが出来る、と言うのです。もはや、これは肉眼の目で見るということではないですね。信仰の目で見るのです。だから、この後、ヨハネ福音書には、こんなお話が出て来ることになる。それは第20章、復活のイエス様と弟子のトマスのやり取りです。ほかの弟子たちが、「私たちは復活の主を見た」と口々に言うのですが、その現場に居合わせなかったトマスだけは信じようとしません。そこでトマスは「私は、あの方の手に釘跡を見なければ決して信じない」とまで言い切ってしまいます。証拠を見なければ信じないと言ったのです。つまり、肉眼の目で見るまでは信じないと言った。そんなトマスに、イエス様が、こう言われるのです。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
肉眼の目で見ることは、信じることに決してつながらない。イエス様は、そう言っておられるのです。肉眼の目で見て、起こるのは納得ではあっても、信仰ではない、だから、ヘブライ人への手紙は、こう述べている。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
聖書が語る「見る」というのは、詰まるところ、これなのです。決して肉眼の目で見るのではない。「信仰の目」とでも言うのでしょうか。そういうものが、確かに、ある。主イエスが開いてくださるのは、そういう信仰の目ではなかったか。
今日はイザヤ書第6章の派遣の物語を読みました。青年イザヤが神殿で神様と出会って、預言者として立てられ、派遣される物語です。冒頭の言葉を読んでみます。
「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。」
ここに「見た」と書いてありますね。これは客観的な出来事を言っているのではない。客観的な出来事なら、イザヤだけでなく、誰の目にも見える。そういうものです。しかし、ここは、そうではない。イザヤだけが見ているのです。幻と言っても良いと思います。そういえば、預言者はよく幻を見ます。イザヤ、エゼキエル、エレミヤ、ホセアと、皆、幻を見ている。幻によって彼らは神様の御心を知るわけですが、イザヤはどういう幻を見たかと言うと、当時の堕落した神殿礼拝、形式だけになった神殿礼拝が行われている神殿の只中に、神様が臨在しているのを、イザヤは見るのです。
これは肉眼で見たのではない。信仰の目で見ている。信仰の目というのは、初めから開いているわけではない。開かれて、初めて、見えるようになる、それが信仰の目です。
皆さんはエリシャという預言者の名前をお聞きになったことがあるでしょうか。列王記下の第6章に、こんな物語があります。エリシャがアラムの軍勢に自分のいる村が包囲されたという知らせを受けた時のこと。この絶望的な知らせをもたらしたエリシャの僕は、もう気が動転している。包囲されているのですから、もう逃げ道はありません。僕は非常に取り乱して、右往左往しています。そんな時にも、エリシャはちっとも動じていない。私と共におられる神様の軍勢は、あんなアラムの軍勢よりもはるかに多い。そう言ったのです。しかし、僕がエリシャの言葉を聞いて、あたりを見渡しても、アラムの軍勢以外のものは、何も見えません。どこにも天使の軍勢などは見当たりません。そこで、僕が「何も無いではないですか」と言うと、エリシャが祈り始めるのです。
「主よ、どうか彼の目を開いて、見えるようにしてください。」
エリシャが、そう祈りますと、僕の目が開かれるのです。そして、見回しますと、それこそ、もう天にまで達するかと思われるほどの天使の大群がエリシャを守っているのが見えた。そういうお話が出ております。私は、こういう一見、御伽噺に見える物語の中に、聖書のメッセージの地下水脈があると思っております。
私たち人間は、自分の目で見るものだけが本当の事だと思い込んでいます。けれども、じつは、肉眼の目では見ることの出来ない、隠された事実というものが、あるのです。その隠された事実、神の事実と言っても良いかと思いますが、その隠された事実を見るためには、肉眼の目ではダメで、信仰の目が開かれなくてはいけない。この目は、滝に打たれて修行を積んだら開かれる、というものではない。自分で悟りを開くように、開くものではない。開いていただかなければ、開かないものです。
イエス様は、弟ラザロを失って悲嘆に暮れる姉マルタに、何と言われたでしょうか。「もし信じるなら、神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」と、そうおっしゃったですね。神様の栄光というのは、信じるから見るのです。見るから信じるのではない。
使徒パウロは「せん方つくれど、望みを失わず」と言いました。この御言葉は、どうしても文語訳のほうが口を突いて出て来るのですが、新共同訳では次のようになっています。
「途方に暮れても、失望せず。」
途方に暮れたら、望みも失うのが、人間の常です。しかし、パウロは「せん方つくれど、望みを失わず」と言うことが出来た。やせ我慢で言っているのではありません。信仰の事実を語っているのです。では、なぜ途方に暮れても、望みを失わないのか。パウロは、その理由を第二コリントの4章18節で、次のように述べております。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
パウロは、この言葉を述べた少し後で、こう付け加えています。
「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。だから、わたしたちは心強い。」
これを見ますと、信仰によって歩むというのは、目に見えないものに望みを置いて生きることなのだ、ということが分かります。確かに目に見えるものは、私たちの心を捕らえます。目に見えるものは、時に私たちを恐怖に陥れたり、絶望のどん底に陥れたりします。パウロが言う「せんかた尽きた」「途方に切れる」とは、そういうことです。しかし、たとい、そうであっても私たちは望みを失わない。どうしてでしょうか。見えないものに望みを置いているからです。
さあ、見えないものって、何でしょうか。見えないものだったら、見えはしないではないかと反論なさる方もあるかも知れません。確かにこれは矛盾です。「見えないものに目を注ぐ」なんてことは、人間の理屈には合わない。矛盾しています。しかし、聖書が語る真実は、時に、人間の理屈に合わない、矛盾の中に流れています。地下水脈のように、汲めど尽きない泉のように、真実はある。その真実、目に見えない真実を汲み上げるのです。
さあ、ここでもう一度、マルコ福音書が語る盲人の癒しの物語に戻っていきたいと思います。
「そこで、イエスがもう一度、両手をその目に当てられると、よく見えてきて癒され、何でもはっきり見えるようになった。」
何がはっきり見えるようになったのでしょうか。福音書には盲人の癒しの物語が多いと申し上げました。それぞれに独自に主張があります。しかし、それらすべてに共通することが、一つだけ、ある。それは、彼らの目が開かれた時、彼らが等しく見たものは、主イエスのお姿であり、主イエスの眼差しであったということです。さらに言えば彼らは、主イエスの眼差しの中に置かれている自分を発見するのです。そして、彼らは、気分に向けて語られる主のお言葉を聞く。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」という御言葉を主の御前で聞くのです。
イエス様によって信仰の目が開かれて、見えないものに目を注ぐ者とされた。主イエスのまことのお姿を仰ぐ者とされた。主の眼差しの中に置かれている自分を見出した。そして、主が語りかけてくださる御言葉を聞く者とされている。さあ、この盲人とは、いったい、誰のことなのか。もうお解かりのことと思います。この人は、今、主の御前に礼拝をしている私たち一人一人のことだったのです。だから、私たちも聞く。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」という御言葉を聞きつつ、それぞれの持ち場へと遣わされていくのです。
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