聖書:出エジプト記14章10~14節・マルコによる福音書8章1~21節

説教:佐藤 誠司 牧師

「モーセは民に答えた。『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。』」 出エジプト記14章13~14節)

「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心が頑なになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」 (マルコによる福音書8章17~18節)

 

今日はマルコによる福音書第8章の最初の物語を読みました。お読みになって、おや、同じような話は前に聞いたことがあるぞ、と、思われたかと思います。その記憶は全くもって正しいのでありまして、マルコ福音書は、すでに第6章の31節以下のところで、5千人もの群集に食べ物をお与えになった奇跡物語を語っておりました。

それは、まことに印象的な物語でした。その記憶が鮮やかに残っている今、また、主イエスは、同じような食事を、今度は4千人の人々に振舞ってくださいました。主が二度も、同じような奇跡をなさったということは、よほど、そこに深い御心を注いでおられたからに違いありません。しかも、マルコ福音書は、そのいずれかを省略するのではなく、重複を恐れることなく、二度の奇跡を丁寧に書き記しました。大事なことだからです。

すでに皆さんもお気づきとは思いますが、もともと、福音書には食事の場面が多いのです。これはおそらく、イエス様ご自身が、人々との食事を喜んでおられた事実を映し出しているのでしょう。徴税人や罪人と呼ばれた人々とも喜んで食卓を囲まれました。復活された後も、しばしば弟子たちと共に、食事の席に着いて、御自分の復活が事実であることを示されました。人々との食事をあまりに喜ばれたがために、時に「あの男は大酒飲みで大食漢だ」と陰口を言われたほどです。どうして、そこまで食卓を共にすることを大切になさったのか。それは、共に食卓を囲むことは、共に生きる姿を最も具体的に表すものだからです。

ですから、2千年の教会の歴史を振り返りますとき、私たちは、教会の交わりの中心に、いつも食卓があったことに気付かされます。礼拝の中心に聖餐があり、礼拝後の交わりの中心に愛餐がありました。愛餐会という、まことに愛らしい名前も、ここから生まれました。

私たちが礼拝の中で守る聖餐式、その聖餐式の中で制定の言葉として読まれるのは、使徒パウロが書いた第一コリントの第11章の23節以下の言葉です。

「わたしがあなたがたに伝えたのは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげて、これを裂き、そして、言われた。『これは、あなたがたのためのわたしの体である。』」

じつは、これとほぼ同じ言葉が、今日のマルコ福音書第8章の物語の中に、出て来ております。6節です。

「七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。」

これは、どういうことかと言いますと、初代教会の礼拝で聖餐式が守られるたびに、主イエスがなさったパンの奇跡が思い起こされていた、ということです。弟子たちも、聖餐を祝うたびに、喜んで5千人、あるいは4千人の人々を満たしてくださった主イエスの御業を語ったのです。感謝の祈りをささげてパンを裂く、主イエスのお姿を、初代教会の人々は聖餐に与るたびに思い起こしたのです。

しかし、弟子たちにとって、パンの奇跡、わけても今回の4千人に対する奇跡は、自分たちに対する厳しい言葉と結び付いて記憶に残ったのではないかと思います。今日はパンの奇跡が記された10節までではなく、さらに21節までを読みました。礼拝で取り上げるには、ちょっと長いかなと思える長さです。しかし、そこまで読まないと、なぜ主イエスが二度までもパンの奇跡をなさったのか。その理由が明確にならないのです。で、その区切りとなった21節に何が書いてあるかと言いますと、弟子たちにとっては、まことに厳しい叱責の言葉が記されております。

「イエスは、『まだ悟らないのか』と言われた。」

厳しい言葉です。弟子たちの無理解を叱っておられるのです。そういう厳しい言葉で、このパンの奇跡の物語が終わっている。そのことを私たちも心に刻まなければならないと思います。振り返りますと、第4章に、イエス様が神の国の譬えを繰り返しお語りになる場面がありました。その中で、イエス様は弟子たちに、こうおっしゃった。4章の11節です。

「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてが譬えで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」

ここに「理解できず」という言葉がありますが、この言葉と、今日の箇所でイエス様が言われた「悟る」という言葉は、じつは同じ言葉です。ということは、第8章に至って、イエス様は弟子たちに向かって、「あなたがたも外の人々と同じように悟らないのか」と問われたのだ、と読むことが出来る。こんなに私が、パンの出来事を通して神の国の秘密を打ち明けているのに、あなたがたは外の人たちと同じように悟らないのか、心が頑ななのか、とおっしゃったのです。さらに、17節から18節にかけての言葉は、これがイエス様のお言葉なのかと思わせるほど、厳しいものです。

「まだ、分からないのか。悟らないのか。心が頑なになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」

いかがでしょう。これほど繰り返し弟子たちを叱責しておられる場面は、おそらく、ここだけでしょう。二度もパンの奇跡を見たのに、あなたがたは何を見ていたのか。何を聞いていたのか。そのように叱責しておられるのです。

では、弟子たちは、何を見損なっていたのでしょう。何を聞き損っていたのでしょうか。そこのところを心に留めていただいて、物語を読み進めて行きたいと思います。11節に、「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして。しるしを求めた」と書かれています。ファリサイ派の人々は、終わりの日に現れる救い主・メシアを待ち望んでおりました。ナザレ人イエスこそ、メシアではないかとも思っていた。そこまでは良かったのです。

ところが、その証拠を見せてほしいと彼らは言った。自分たちが「ああ、この人は確かにメシアだ」と判断できるような証拠を見せてほしいと言った。ここが問題です。自分たちの中に物差しと言いますか、確たる基準があって、それを満足させなければメシアとは認めない。じつに傲慢な態度です。どうして、こうなるのでしょうか? 見るべきものが見えていないからです。聞くべき御言葉を聞いていないからです。だから、イエス様は、こう言われる。

「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」

これをパンの奇跡の直後に言われたというのが、凄いと思います。信仰の無いところに、しるしは与えられない。なぜなら、信仰の無いところに、救いは無いからです。つまり、主イエスのなさるしるしとは、人間の救いと不可分に結び付いたものなのです。ここは抑えておく必要がありますね。

さて、イエス様は、もうそれ以上、ファリサイ派の人々の相手をすることなく、舟に乗って、立ち去って行かれる。船の中はイエス様と弟子たちだけ。そこで交わされた対話こそ、今日の物語の急所であると思います。じつは、弟子たちは舟に乗り込むとき、パンを持って来るのを忘れていた。舟の中にはパンは一つしか無かった。弟子たちの心は騒ぎます。そんな彼らの心を見抜いたかのように、イエス様はこうおっしゃいます。

「ファリサイ派の人々のパン種と、ヘロデのパン種に、よく気をつけなさい。」

この「気をつけなさい」という言葉は、それこそ、よく気をつけないと読み間違いをしてしまいます。この「気をつけろ」というのは、他人のこととしてあの連中に気をつけろ、と言っておられるのではないのです。そうではなくて、ほかでもない、あなたがたの中にファリサイ派のパン種とヘロデのパン種が入り込まないよう、あなたがた自身に気をつけなさい、と言っておられる。パン種というのは、目に見えないほど小さなものです。しかし、それが、ひとたび、パン生地の中に入り込むと、生地は大きく膨らんでいく。変質していく。小さなものが、大きな変質を引き起こしていく。だから、イエス様はファリサイ派とヘロデのパン種に気をつけなさい、と言われたのです。

ということは、どうでしょう。イエス様は、弟子たちの心に、ファリサイ派的な思い、またヘロデ的な考え方が忍び込んで来る事を、早くも見抜いておられた、ということではないでしょうか。

では、ファリサイ派的な思い、ヘロデ的な考え方とは、どういうものなのでしょうか。ファリサイ派といえば、当時の宗教的な指導者であり、大変なエリートでした。しかし、彼らは、先にも言いましたように、自分の中に物差しと言いますか、基準を持っていて、その物差しの尺度でイエス様の御業と御言葉を計りました。エリートにありがちなことです。

それに対して、ヘロデというのは、もう徹底的な現実主義者です。ローマ帝国に取り入って、ユダヤの王様にしてもらった。それだけに、現実を見る目が聡いと言いますか、現実しか見ていないのです。

ファリサイ派とヘロデ。この両者は両極端かも知れません。しかし、意外な共通点があった。それは、見るべきものを見ていないということです。前者は、自分の中にある物差しに捕らわれて、見るべきものが見えていない。後者は、現実に捕らわれてしまって、見るべきものを見ていない。これがファリサイ派のパン種であり、ヘロデのパン種です。あなたがたは、そうであってはならないのだ、と、イエス様は警告しておられるのです。

ファリサイ派とヘロデ。この人たちは、見えるものによって歩んでいるのです。ファリサイ派は目に見えるしるしを求め、ヘロデは現実だけを見た。両方とも、目に見えるものしか見ていない。しかし、私たちにとって本当に大事なのは、見えないものを見ることではないでしょうか。

今日は出エジプト記の16章の物語を読みました。神様がモーセを指導者にお立てになって、イスラエルの人々をエジプトから脱出させてくださいます。すると、エジプト軍の追っ手が戦車に乗って追いかけて来ます。イスラエルの人々は老人や子供たちもいますから、走って逃げるわけにもいかない。向うは海、後ろは追っ手のエジプト軍。そういう絶望的な状況の中で、モーセは動転する人々に向かって「恐れることはない」と言う。どうしてかと言うと、モーセはこう答えるのです。

「主が今日、あなたがたのためになされる救いを見なさい。」

モーセ以外の人たちは、今自分たちに迫っている死と滅びを見て、おののいています。これはまさに現実ですね。このまま行けば、自分たちは死んでしまう。これは火を見るよりも明らかな現実です。その意味では、イスラエルの人たちが見ていたものは間違ってはいない。モーセも、同じものを見ています。けれども、モーセは、迫り来るエジプト軍だけを見ていたのではなかった。もう一つ、見えないものを見ているのです。

さあ、モーセが見ていたものとは何か。それはイスラエルの人々をエジプトから脱出させてくださった神様のご計画というものを、モーセは仰ぎ見ていたのです。これは大事なことです。ここでイスラエルの人々を全滅させるくらいなら、神様は何もこの人々をエジプトから救い出すはずはない。必ず救いの道を開いてくださるに違いない。モーセも迫り来る敵という現実を見ていないわけではないのです。しかし、それを超えて、もう一つ、見えないものを見ているのです。そして、イスラエルの人々を救ったのは、結局、見えるものではなくて、見えないものでした。

ファリサイ派とヘロデが陥ったのは、目に見えるものだけを気にして、見えないものをないがしろにしたことです。神の言葉よりも自分たちの思いや信念を優先したことです。回りの状況がいかに絶望的であっても、「神様が共にいてくださる」。そのことだけは見失わないで、望みを持って生きる。パウロは「せん方つくれど、望みを失わず」と言いました。そのパウロが、第二コリントの4章18節で、こういうことを述べております。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

これを見ますと、信仰によって歩むというのは、目に見えないものに望みを置いて生きることなのだ、ということが分かります。

私たちは信仰生活の中で、じつに様々な問題に出会います。目の前は海と絶壁、後ろは追っ手の戦車といった絶望的な場面に遭遇することもあるでしょう。「もうダメじゃないか」と思うこともあると思います。しかし、その時に大事なのは、「信仰によってその問題を受け取る」ということです。パウロは「私たちは、目に見えるものによらず、見えないものに目を注ぐ」と言いました。

あのイスラエルの人たちが、なぜ迷ったり行き詰ったりしたかと言うと、見えるものに左右されて、右往左往して生きているからなんです。ファリサイ派の人々も、ヘロデも、そうでした。自分が見ているところは、こうだ。ここがこうなっている。だからダメだと決め付けてしまう。確かに理屈ではそのとおりなんです。見えるところは、そうなんです。

私たちが自分を見る。厳しく見ます。しかし、目に見える自分だけを見てたら、ダメなんです。信仰生活をしていますと、本当の自分というものが見えるようになってきます。確かに、自分の弱さや欠点が見えてきます。それは、まあ、人間としての、一つの進歩だと思います。誠実な人、真面目な人ほど、自分を厳しく見ています。けれども、そういう、目に見える自分だけを見ていたら、どうなりますか?「もう俺はダメだ」という、そこにしか行き着かないです。しかし、目に見えるところによらず、信仰によって歩むことが大事です。神様が必ず道を開いてくださる。そこを信じ抜く。腹をくくって信じ抜くことです。信じていないから、目に見えるものが気になる。見えるものに左右される。そうなったら、もう右往左往する生き方しかないですね。しかし、私たちは違う。見えないものに目を注ぐ。目に見えない神様の導きに応えて生きる。これが大事です。

さあ、ここからもう一度、舟の中の弟子たちとイエス様とのやり取りを見ると、どうなるでしょうか。弟子たちは、パンを持って来るのを忘れておりました。で、舟の中には、パンが一つ、あっただけです。イエス様は、それを咎めてはおられない。しかし、弟子たちは、そこが気になった。自分たちには、たた一つのパンしか無い。私たちには、たったこれだけしか無い。舟の中には、たったこれだけしか無い。舟というのは、じつは、教会の象徴です。つまり、弟子たちは、こう思ったのです。

「私たちの教会には、たったこれだけしか、無い。」

見えるものに捕らわれて、身も心も、がんじがらめになっている姿が、ここにあります。そういう頑なな弟子たちの心に向かって、イエス様は言われる。

「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心が頑なになっているのか。」

さあ、イエス様は何を言っておられるのでしょう。皆さんは、この厳しいお言葉から、何を聞き取られるでしょうか。思い起こしなさい。私が5千人にパンを分けたとき、4千人にパンを裂いたとき、あなたがたは何によって満たされたのか。私が与えるものを分けなさい。あれから2千年の月日が流れました。しかし、世々の教会は、この御言葉を聞いて、この御言葉によって試練を乗り越えてきました。

「私が与えるものを分けなさい。分かち合いなさい。そうすれば必ず満たされる。」

私たちも、世々の聖徒たちと共に、ここに立ちましょう。見えるものに左右される生き方は、やめにして、見えないものに目を注ぐ。今の私たちに最も求められているのは、この一点ではないでしょうか。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com