聖書:創世記3章1~9節・マルコによる福音書15章1~15節
説教:佐藤 誠司 牧師
「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開けて、神のように善悪を知る者となることを神はご存知なのだ。』」(創世記3章4~5節)
「ピラトがイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは、『それは、あなたが言っていることです』と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。『何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。』しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。」(マルコによる福音書15章2~5節)
今日は主イエスが捕らえられて裁かれるという、まことに暗いお話を読みました。主イエスを最初に裁いたのは、ユダヤの最高裁判所に当たる最高法院ですが、最高法院は、じつは死刑の判決を下すことをローマ帝国によって禁じられておりました。にもかかわらず、どうでしょう。ここでは主イエスを亡き者にするための裁きが夜通し行われています。つまり、これはもはや法廷でもなければ裁判でもない。イエスを殺すための偽りの手続きに過ぎないのです。このあと、この人々は主イエスをローマ総督ピラトのもとに連行して行くのですが、ピラトが死刑判決を下さざるを得ない状況を固めて、一丸となってイエスの死を求めていく。そういう狂気じみた場面です。
しかし、そういう狂気の中に、案外、私たち人間の罪の姿が正直に現れているのではないかと思います。今日読んだ箇所の少し先になりますが、16節以下に何が書いてあるでしょうか? 見張り役の兵士たちが主イエスを嬲り者にする有様が記されています。この人たちは、言ってみれば、一番下っ端の人たちです。そういう人たちの所へ、主イエスは捕らえられて、引っ張って来られた。周りを見ると、誰もいない。
すると、彼らは何をやり始めたか? 「イエスを侮辱した」と書いてあります。侮辱するって、どういうことでしょう。これは、素っ裸にして嘲ったということです。どうしてそんなことをしたのでしょうか? 彼らは聞いて知っているのです。このイエスが神の子と崇められていることを伝え聞いて知っている。そこで、神の子がどんな体をしているのか、一つ、見て確かめてやろうじゃないかと、周りに人の目がないことを良いことに、身包み剥いで、素っ裸にして、小突き回して、じろじろ見た。すると、普通の人と同じであった。なんだお前、キリストだ神の子だと偉そうなこと言ってるが、ただの人間じゃないか、というわけです。
彼らは主イエスに紫の衣を着せ、茨の冠をかぶらせて、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼した。もちろん、これは嘲りの敬礼です。また、彼らは葦の棒で主イエスの頭をたたき、更に唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだと書いてあります。
これに対して、祭司長たちや律法学者、長老たちたちは、何をしたでしょうか。この人たちには権力があります。さらに権威があり、知識もある。人々の尊敬も集めている。立派な人たちなのです。この人々は主イエスを裸にしたり殴ったりはしません。むしろ、そういうことは意味が無いとさえ思っている。冷静なのです。しかし、彼らは、自分たちが持っている権力や権威、知識によって主イエスを殺そうとする。しかも、ただ殺すだけではダメなのです。裁きによって殺す、そのために正当な裁きを装わねばならない。ところが、ユダヤの最高法院はローマによって死刑判決を下すことを禁じられていましたから、こうなれば、もうイエスをローマ総督の裁判にかけて死刑判決を出してもらうしか道は無い。そこで彼らは主イエスを縛って引いて行き、ローマ総督のピラトに引き渡します。
マタイ福音書の16章に、こんなお話があります。主イエスが弟子たちを伴ってフィリポ・かイザリア地方に赴かれた時のこと。弟子たちは主イエスに向かって口々に「人々はあなたのことを預言者だと言っています」とか「エリアの再来だと言う人もいます」とか言います。すると、主イエスは弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを誰と言うか」とお尋ねになる。弟子たちの間に沈黙が流れます。すると、その沈黙を破ってペトロが、こう言いました。
「あなたこそメシア、生ける神の子です。」
これは信仰の告白です。メシアとかキリスト、神の子という言葉は、このように信仰告白の文脈の中で初めて言い得る言葉です。あなたこそ救い主キリストです。あなたこそメシア、神の子ですと。世の中に言葉は数多いですが、信仰の告白でしか口にすることの出来ない言葉というものがあるのです。
ところが、祭司長や律法学者たちは、この言葉を、どう使ったでしょうか。
「お前は神の子か」と言った。「お前がメシアなら、そうだと言え」と言った。これは茶番なのです。人間の罪がなせる茶番です。同じ茶番劇が、主の十字架の場面でもう一度、出て来ます。十字架の主イエスに向かって、人々が言います。
「お前が本当に神の子メシアなら、十字架から降りて来い。そうしたら信じてやる。」
メシア、神の子という信仰の言葉を嘲りの道具としてしか使えない。ここに人間の罪の真相があると思うのです。
さて、罪の真相といえば、今日は創世記の第3章の物語を読みました。このお話はヘビが出て来たり、神様が人間のように描かれたりして、何だか民話風と言いますか、御伽噺のように思われたりしますが、じつはそうではない。人間とは何か、罪とはどういうものか、ということを大変鋭く私たちに問いかけてくる物語です。誘惑者がヘビとして登場しますが、ヘビのことを「スネーク」というでしょう? あれ、「入り込んでくるもの」ということです。目で見ると、まだ入り込んではいない。目の前にいるのです。しかし、じつはすでに入り込んでいる。どこに入り込むかというと、人の心の中に入り込む。入り込んで支配をし始めるのです。
今日は3章を読みましたが、2章の16節と17節に、こう書いてあります。
「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」
神様はアダムとエバをエデンという楽園に置かれて、管理を任される。その際に、神様は人間に自由を与えてくださる。ただその自由には、たった一つの禁止事項があった。それは善悪を知る木からは食べてはならないという禁止事項です。その理由は食べたら死ぬから。
これに対して、誘惑者であるヘビがエバに言い寄る言葉があります。
「あなたがたは決して死ぬことはない。それを食べると、目が開けて、神のように善悪を知る者となることを神はご存知なのだ。」
神様は死ぬと言われた。しかし、ヘビは死なないと言った。正反対です。アダムとエバはこの二つの言葉を聞くのです。神の言葉と誘惑者の言葉です。さあ、どちらを信じるかです。ヘビの言うことのほうが、なんだかシックリ来る。心地いいんです。さあ、もうすでに誘惑者が入り込んでいるでしょう?
で、食べたら、死ななかった。すると、彼らは心の中でどう思ったでしょうか? ああ、神様の言われたことは嘘だった。神様は嘘を言われたのだと思った。つまり、彼らは神の言葉を軽んじるようになったのです。ここが誘惑者の狙い、悪魔の狙いです。
しかし、神様がおっしゃった「死ぬ」ということと、ヘビが言った「死ぬ」ということは、言葉の上では同じであっても、その意味が全然違う。ヘビが言ったのは肉体の死です。生命的な死です。それに対して神様がおっしゃった死とは何かと言うと、神のようになるということなのです。即死ではないけれど、確実に死に向かって歩み始める。神のように善悪を知るようになる。そうしますと、もう神様にいちいち尋ねなくてもやっていける。神様にいちいち言っていただかなくても、自分達だけで判断して、自分で行動できる。もう神様なんて要らなくなるわけです。神様との関わりが無くても、けっこうやっていける。自分で善悪を判断できる。
園のどの木から取って食べても良いと神様は祝福してくださいました。けれども、それは善悪を知る木からは食べてはならないという条件のもとに許された自由です。人間が神様を離れて、自分で善悪を判断するようになると、話は違ってきます。人間の持っている自由や能力が、結局、人間を死に追いやっていく。人間は、自分の知恵が作り出すもので死んでいくようになる。悪魔の誘惑というのは、そこまで人間を追いやっていくのです。「神様はああ言うけれど、大丈夫、死にはしない。いや却ってこれを食べたら、神様のようになれますよ」と悪魔はささやくわけです。
それを聞いて、人間はどうしたか? 私たちはつい、アダムとエバは禁断の木の実を食べた時に罪を犯したと考えますが、この物語はよく読むとそうではないですね。誘惑されたときに、彼らはどうしたでしょうか? 直接誘惑を受けたのはエバのほうでしたが、彼女はどうしたでしょうか?
エバは、誘惑者の言っていることを自分で判断して処理しようとしたでしょう? しかも、神様の言われた言葉を忘れているわけではないのです。食べたら死ぬという言葉を憶えているのです。だったら、今、彼女は生きるか死ぬかの瀬戸際に立っていることになるでしょう? 大事なときです。その時に彼女は何をしたでしょうか? 自分でその事柄を判断して、自分で処理しようとしている。
これはどういうことかと言いますと、善悪を知る木の実を食べるよりも前に、すでに、自分の判断が正しい、自分は何も神様に相談しなくても、神様の御言葉に聞かなくても自分一人の判断でやっていける、これはそういう態度でしょう? もうすでに善悪を知る力を持っている、神様と関わりがなくても、結構やっていけると思っている。じつは聖書が語る「罪」というのは、ここにあるのです。
さて、マルコ福音書の物語に戻りますと、今、民の長老や祭司長たち、律法学者たちという、錚々たる人々が、寄ってたかって主イエスを殺そうとしている。しかも、主イエスがメシア、キリストであること、神の子であることを証拠にして殺そうとしている。神を信じていると言いながら、神様が人間に決定的な仕方で関わろうとしておられる、その生ける神の子キリストを殺してやろうと躍起になっている。神様に助けを求めるのではなく、自分たちだけで善悪を判断し、自分たちの能力や知恵、判断力でやっていく。神の子なんて要らないというわけです。これらは全部、自分が善悪を判断するという生き方です。神様との関わりを拒絶して、自分たちの判断でやっていけるのだと思っている。
その罪を、主イエスは、いったい、どうなさったことでしょうか? 主イエスというお方は、人間の罪を全部ご自分のものとしてくださいました。人間が背負い切れない罪を、主イエスが全部背負って十字架についてくださる、という出来事が起こります。
主イエスは「お前がユダヤ人の王なのか」と問われても、何も答えられませんでした。言葉ではなく、行動で示して行かれる。何を示して行かれるのでしょうか。皆さんは、何だと思われますか。そう、罪の赦しなのです。人間が償い切れない罪を、神の子が身代わりになって担うという出来事が起こっていく。神の子が身代わりになって殺されていく。しかも、罪人の手にかかって殺されていく。これが十字架の贖いです。
振り返ってみますと、今日の物語に登場する人々は、かつての私たちの姿そのものではないかと思います。私たちも、かつて、主の者としていただく前は、主イエスを侮辱していました。侮辱までは行かないまでも、主イエスを軽んじていました。路傍で伝道する人たちを、冷ややかな目で見ておりました。キリストに従う生き方、神様に従う生き方は、うそ臭い、偽善的な生き方だと思っておりました。これは皆、自分の知恵によって善悪を判断できると思い込んでいた、ということです。神様との関わりを拒絶して、自分の判断で何事もやっていけると思っていたのです。要するに、傲慢だったのです。
しかし、それは自分の判断に見えながら、じつは誘惑者に負けて罪の虜になっていただけでした。主イエスはそんな私たちを罪から贖い出してくださいました。あなたの罪は赦された。主イエスによる救いというのは、罪赦された新しい自分を感謝を持って受け取ることです。主イエスはそれを「信仰」と呼んでくださいます。信仰によって、新しい人生を歩むのです。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさいとは、そういうことなのです。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
11月5日(日)のみことば(ローズンゲン)
「神よ、わたしの祈りを聞き、この口にのぼる願いに耳を傾けてください。」(旧約聖書:詩編54編4節)
「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(新約聖書:ローマ書5章4節)
今日の新約の御言葉には非常にパウロらしい言い回しが出て来ます。「知っている」という言い方です。普通なら「信じている」と言いそうなところで、パウロは「知っている」と言い切るのです。「信じている」というのは、信じる主体は「私」であって、私が信じるか信じないかにすべてがかかってくるわけです。それに対して「知っている」というのは「事実」を述べる言い方です。私が信じようと信じまいが、事実は揺らがない。だからパウロは「知っている」と言うのです。
この「知っている」というのは、ただ頭で知っているとか理屈で分かっているということではありません。様々な労苦と試練を通して、私は、この真理を体で知ったのだ。だから、これから後も、苦難に遭う時は、必ず神様が解決の道を開いてくださる。そればかりでなくて、神様は苦難に遭うたびに、今まで以上の深い愛を私たちに示してくださる。こうして、キリスト者は、苦難に遭うたびに、神様の恵みというものを、一層深く味わい知っていくものなのだ、と。そういうことを、パウロはここで私たちに語っている。だから、パウロは「苦難をも誇りとします」とまで言い切ることが出来たのです。