聖書:エレミヤ書31章31~34節・マルコによる福音書14章22~26節
説教:佐藤 誠司 牧師
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにも関わらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人同士、兄弟同士、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ書31章31~34節)
「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」(マルコによる福音書14章24~25節)
今日はマルコ福音書14章が伝える「最後の晩餐」の物語を読みました。「最後の晩餐」といえば、やはり、レオナルド・ダ・ヴィンチがミラノの修道院の食堂の壁面に描いた絵画が有名です。あの作品の魅力は、何と言っても、主イエスが真ん中におられることです。12人の弟子たちの真ん中というだけではありません。修道院の食堂にいる人々の真ん中に、主イエスがおられる。さらに、この作品の前に立つすべての人の真ん中に、主イエスがおられる。このように、あの絵画は、見る者一人一人の主イエスとの関係を問いかけているのです。あなたはこのお方とどのような関係に立っているのか、という問いかけが、あの作品にはあるのです。
主イエスが真ん中におられるとは、どういうことでしょう。ルカ福音書によりますと、主イエスが最初に席にお着きになったと書かれています。これはどういう意味かと言いますと、食卓に最初に着くのは、その食卓の主人なのです。つまり、この食卓は主イエスを主人とする「主の食卓」だということです。
そういえば、先週読みました12節以下の物語には、主イエスが二人の弟子たちを都に遣わして過越しの食事の準備をさせる様子が語られておりましたが、実際に二人が出かけて行きますと、不思議にも、食事をする広間が主イエスが言われたとおりに用意されており、しかも、人数分の席がすでに備わっておりました。
主イエスがすべてを備えて整えてくださったのです。弟子たちのしたことは、すでに備えられていた食卓に杯とパンを用意した。ただそれだけを弟子たちはやったのです。ここから分かることは、弟子たちはこの食卓の主人でもなければ、主催者でもない、ということです。主が備えてくださる、主の食卓です。そこに招かれて、弟子たちは席に着くのです。ここは揺るがせにしてはならない点だと思います。
さて、この食卓に最初にお着きになったのは主イエスです。主イエスが中心に座られたのです。弟子たちは、中心におられる主イエスの周りに座りました。それによって、彼らは自分の場所を与えられました。主イエスが中心におられるから、主イエスとの関係で、彼らは自分の居場所を得たということです。ここが大事なところです。
この食事について、一つ、大事なことがあります。これはルカ福音書が伝えていることですが、「苦しみを受ける前に」と主イエスが言っておられるのです。ここから解るのは、この食事は、主イエスの十字架の苦しみと深い関連がある、ということです。ただのお食事会ではないのです。このことは、私たちの日本基督教団の聖餐式の式文にも、明確に記されています。「渡される前の夜」だと明言するようになっているのです。主イエスは十字架の受難をもうすでに見据えておられる。その上で、弟子たちをこの食卓へと招いてくださったのです。
おそらく、主イエスは、ご自身の受難だけでなく、弟子たちが皆自分を裏切って逃げてしまうことも見抜いておられたと思います。弟子たちが主イエスを裏切ってしまったことへの罪悪感と自己嫌悪から、根無し草のように散り散りになってしまうことも見抜いておられたでしょう。その上で、主イエスはこの食卓へと弟子たちを招いてくださいました。それは、ここに、あなた方はもう一度帰って来なさい、ということです。ただ帰って来るのではありません。私の十字架によって贖われて帰って来なさい。罪赦された者として帰って来なさい、と主イエスは言っておられるのです。
さて、一同が食事をしているとき、主イエスはパンを取って、賛美の祈りをささげ、パンを裂き、弟子たちに渡して、こう言われました。
「取りなさい。これは、わたしの体である。」
聖餐式のたびに読まれる主の言葉です。ここは注意して読まなければならないところです。イエス様は、ただパンを手に取って「これはわたしの体です」と言っておられるのではないのです。そうではなくて、引き裂かれるパンを指差して、これは十字架で裂かれる私の体なのだと言っておられる。そして、この体は、あなたがたに与えられる体なのだと、そこまで言っておられるのです。主イエスの体が、引き裂かれて、それがあなたがたに与えられる。罪を贖うために、与えられる。だから、あなたがたは、これと同じことを、私の記念として行いなさい、と主イエスは言われるのです。
引き続いて、主イエスは杯を手に取り、感謝の祈りを唱えて、弟子たちにお渡しになりました。。弟子たちがその杯から飲んでいる、そのときに主の言葉が響きます。
「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
主イエスはここで、これは「契約」なのだと言っておられます。しかも、血による契約、多くの人のために流される私の血による契約なのだと言っておられる。
血による契約と言えば、ユダヤの人たちがすぐに思い浮かべるのは、過越しの子羊の血による契約でしょう。過越しというのは、昔、イスラエルの人々がエジプトの奴隷身分から脱出するとき、神様がエジプト中の家の長男と家畜の初子を滅ぼされたことがありました。そのとき、子羊の血を家の鴨居に塗ったイスラエルの家だけを、神の使いが過ぎ越して、滅びを免れた、そのことを記念するのが過越しの祭りです。子羊の血によって、救われる。子羊の犠牲の血によって、神の民が死から命へと移され、救われた。それは、今や古い契約となる。子羊の血ではなく、私の血によって新しい契約が立てられる。主イエスはそう言っておられるのではないでしょうか? その「新しい契約」とは、どういうものなのでしょうか?
主イエスが「新しい契約」と言われたとき、イエス様の心にあったのは、預言者エレミヤの言葉であったと思われます。
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにも関わらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人同士、兄弟同士、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」
これが預言者エレミヤがはるかに望み見た「新しい契約」です。古い契約である律法は石に刻まれました。十戒のことですね。しかし、やがて与えられる新しい契約は、一人一人の胸に授けられ、心に記されるのだとエレミヤは預言したのです。そしてその契約は罪の赦しの契約だとエレミヤは言うのです。そういう契約が与えられる日が来る、とエレミヤは預言したのです。
主イエスが「わたしの血による新しい契約」と言われた聖餐は、まさに罪の赦しの契約であり、硬い石に刻まれる文字ではなく、私たち主を信じる者一人一人の胸に授けられ、一人一人の心に記されるものです。
主イエスは捕らえられる前の晩に、この食卓を囲んでくださいました。食卓の主人として席に着き、弟子たちを招いて、パンを裂き、杯を与えてくださいました。このとき、主イエスはご自分の十字架の苦しみも見ておられたし、弟子たちが皆裏切って逃げてしまうことも見抜いておられた。彼らが皆倒れてしまうことを予知しておられたのです。そのうえで、「あなたがたは、私の記念として、このように行いなさい」と言ってくださった。立ち直ったあとの使命をすでに与えておられるのです。「あなたは、立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」というペトロに言われたことと同じことを弟子たち皆に言っておられる。これが主イエスのなさり方です。
この食卓は罪の赦しの食卓であり、主を信じる者の力の源泉です。ほんの小さなパンと、小さな杯です。そんなものに、いったい何ほどの力があるのかと世の人々は言うでしょう。しかし、この食卓からユダを除く11人は立ち直ったのです。そこにこの食卓の秘密がある。
食卓を囲むとは、どういうことでしょうか? 一人で食卓を囲むことは出来ません。必ず誰かと一緒に囲みます。聖書には食事の場面がたくさん出て来ますが、聖書が語る食事には、ただ食物を摂取するという以上に大切な意味があります。それは「生かされる」という意味です。食べて、生かされる。これこそ聖書が語る「食べる」という営みの本質です。
主イエスが弟子たちと囲んでくださった食卓も、同じ意味がありました。イエス様は、ただ弟子たちと一緒に記念の食事をなさっただけではない。弟子たちが生かされるように、生き伸びるようにという願いを込めて、この食卓を囲んでくださったのです。主は知っておられるのです。弟子たちが、このあと、どのように歩んで行くかをご存知でした。主イエスはペトロたちの離反と裏切り、そして彼らが主イエスを裏切ったことによって、深刻な自己嫌悪に陥ることをご存知でした。だから、彼らが生かされ、生き延びるようにという願いを込めて、この食卓を囲んでくださったのです。あの時、主イエスはパンを手に取って言われました。
「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
また、杯を彼らに渡して言われた。
「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
主イエスはこの食卓を「約束の食卓」として設けてくださいました。私はあなたがたを見捨てない。私は必ずあなたがたと共にいる。共にいて、必ずあなたがたを救う。肝心なのは、この約束を思い起こすことです。順風満帆の中で思い起こすのではありません。人生の荒波の中で、試練の中で、思い起こす。私たちには帰るべきところがある。多くの聖徒たちが、ここを原点として人生を歩みました。
今から私たちも聖餐にあずかります。この聖餐は、今、私たちにとって大切なだけではありません。私たちが絶望の淵に立たされたときに、この聖餐に現された主の約束を思い起こすことが出来るか。最後の時にこの食卓を思い起こすことが出来るか。ここに約束の鍵があります。私たちが主のものとして健やかに生きるために、この食卓は備えられています。はるか昔、エレミヤが預言したように、私たちの心の中に備えられているのです。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
9月3日(日)のみことば(ローズンゲン)
「苦難の中から主を呼ぶと、主はわたしに答えてくださった。」(旧約聖書:詩編120編1節)
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより、無償で義とされるのです。」(新約聖書:ローマ書3章23~24節)
今日の新約の御言葉に「無償で義とされる」と書いてあります。これは、人間の状態を問題にしないということです。その人の状態や性格、行いを一切問うことなく、全く一方的な恵みによって与えられるということです。私たちは神様の「恵み」とか「愛」と聞きますと、多分に情緒的なものを連想するかも知れません。しかし、ここで「恵み」と言われているのは、そういう情緒的なことではなくて、神様が人の救いのために起こされた具体的な行動を指しています。
神様はイエス・キリストを身代わりに立てる。御子であるイエス・キリストを贖いのための供え物となさった。そういう仕方で、神様は私たちを救ってくださった。キリストが私たちの身代わりになるって、どういうことでしょうか? それは、イエス様の十字架は私たちの十字架だということです。十字架の上でイエス様が死なれた時、古い私たちも死んだのです。そしてイエス様が甦られた時、私たちは新しい命に生き始めた。これが罪と死からの解放です。このことをしっかり見据えることがキリスト教信仰の急所です。