聖書:イザヤ書7章14節・ルカによる福音書1章26~38節

説教:佐藤 誠司 牧師

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神に出来ないことは何一つない。」(ルカによる福音書1章35~37節)

 

今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を少しずつ学んでいます。使徒信条はまず父なる神、造り主なる神を信じる信仰を語りました。これを信仰の第一条項と言います。次に使徒信条は、父なる神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰を語ります。この部分を信仰の第二条項と呼んでいます。この第二条項は、次のように語られます。

「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。」

ここまでが第二条項の前半です。ここを注意して見ますと、あることに気が付きます。使徒信条はイエスというお方を「独り子」「主」「キリスト」という三つの言葉で言い表しているのです。この三つの言葉は文法的に言えば、名詞です。三つともに、もともとは固有名詞ではなく、一般名詞でした。一般名詞なんだけれど、時代が進むにつれて、これらの名詞はイエス様についてのみ使われるようになりました。しかし、言葉の出自としては固有名詞ではない。あくまで一般名詞です。そこで、どうしたかと言うと、皆さんが英語の文章をお読みになると解ると思います。この三つの言葉を大文字で書き始めるようにしたのです。そうすることによって、これは一般名詞なんだけれども、イエス様お一人のことなんですよ、と、そういうニュアンスが込められるようになったのです。つまり、「独り子」「主」「キリスト」というのはイエスというお方の称号になりました。これが第二条項の前半の意味です。

ところが、第二条項の後半に入ると、どうでしょうか。

「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり、」

いかがでしょうか。お聞きになっただけで、もう気づかれた方もおられると思います。ここには、もはや名詞での展開はありません。イエス様の地上の歩みのすべてが動詞で語られている。「動詞」って、漢字でどう書きますか。そう、「動く詞」と書いて動詞です。動くのです。これは象徴的な事実です。このお方は鎮座ましますのではなくて、動くのです。その動きの最初に来るのが、次の言葉です。

「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、」

ここでまず言われているのは、イエスというお方は聖霊によって宿ったということです。これはイエス様が神の子であり、神と等しいお方であることを示しています。その神ご自身と言っても良いお方が、マリアという一処女からお生まれになったのだと使徒信条は語っている。この二つのことを一つにすると、神様が人となってこの地上に生まれてくださったということになります。つまり、まことの神がまことの人となって生まれた。それがイエスというお方なのだと語っているのです。これは、イエスは神と人との中間のハイブリットというのとは全く違う。

では、使徒信条はどうしてそのようなことを強調しなければならなかったかと言いますと、古代のキリスト教会の中で、イエス様をまことの神として心から崇めようとするあまりに、イエス様がまことの人であることを否定する人たちが現れたからなのです。このことと関連の深い聖書の言葉があります。ヨハネの手紙一の第4章1節以下の言葉です。

「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」

ここに「イエス・キリストが肉となって来られた」という言葉があります。「肉となる」という言い方は、聖書に親しんでおられる方なら解るでしょうが、聖書や教会生活に馴染みの薄い方は、「肉となる」という言い方は、なんとも分かりにくい。ここは、むしろはっきりと「イエス・キリストが肉体をとって来られた」と訳すべきでしょう。これを「神の御子の受肉」と言います。

ここを読んで解ることは、当時の教会でイエス・キリストが肉体をとって人となってくださったことを否定する人々が現れたということです。もちろん、これは異端ですが、異端に走る人たちというのは概して、真面目な人、ひたむきな人が多いのです。このイエス・キリストの受肉を否定した人々も、そうです。彼らはイエス・キリストは全くの神であって、霊的な存在である。自分たちと同じような下世話な存在ではないのだと、大真面目に主張したのです。真面目に、誠実にイエス様を神の御子として心から信じた、と言えなくもないのです。

しかし、いくら真面目で誠実であっても、これは間違いです。なぜでしょうか。なぜキリストが人となった神であることを否定するのが間違いなのか。皆さんは、なぜだと思われるでしょうか。そう、十字架の苦しみと死を無意味なものとしてしまうからです。イエス・キリストは確かに神の御子であり、神と等しいお方ですが、そのお方が肉体を持つ人となって、十字架についてくださった。体を裂かれて、血を流し、徹底的に苦しみ抜いて、身代わりの死、贖いの死を遂げてくださった。そして、肉体を伴って復活なさった。そこにこそ、神の御子の受肉の意味があるのです。

新約聖書というのは、イエス・キリストの十字架と復活から、すべてを語り直した文書です。新約聖書には四つの福音書が収められていますが、福音書もそうなのです。福音書というと、一般にはイエス・キリストの地上の歩みを記した伝記のように思われていますが、じつはそうではない。伝記というのは、ある人物の生涯を時系列で描く文学の一形態です。しかし、福音書は一見時系列に見えますが、じつはそうではない。福音書は十字架と復活からキリストの出来事を語っているからです。ですから、福音書がイエス様の歩みを語るのは、言うなれば、すべて壮大な回想シーンです。十字架と復活からイエス様の歩みを回想して、あの御業にはこういう意味があったのか、あのお言葉には、こんな深い意味が隠されていたのかと、イエス様の御業とお言葉をたどりながら、じつはそこに込められた十字架と復活の意味を再確認しているのが福音書です。それは今日読んだ受胎告知の物語でも、同じです。

天使ガブリエルがマリアのもとを訪れて、こう告げます。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

天使は「おめでとう」という神の祝福を告げる言葉によってマリアの心の扉をノックしたのです。しかし、マリアにはそれが何を意味するのかが解らない。自分の日常生活と神の御業がどのように結び付くのか。それが解らないのです。そこで天使は言います。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

あなたは神から恵みをいただいた。これはもっと正確に言うなら、あなたはすでに神の恵みに捕らえられているということです。本人すら知らない間に、すでに神の恵みがマリアを捕らえていたのです。

しかし、これは何もマリアに限ったことではありません。私たちの誰もが、あとになって思い至ることではないでしょうか。私たちの心が神様に向かい始めるより先に、神の恵みが私たちを捕らえていたのです。しかし、それは今は解らない。だからマリアは、こう答えるのです。

「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

マリアはまだ信じられない。あくまで彼女は自分の中に立っている。自分という土俵から一歩も外へは踏み出していないのです。私たち人間は誰も、ここでなら不安なく勝負が出来るという土俵を持っています。ここでなら大丈夫。自信を持って相手に立ち向かうことが出来る。安全圏内と言っても良いと思います。この土俵の中は安全なのです。平穏無事に過ごせるのです。しかし、ここには冒険が無い。そういう土俵です。

ところが、天使は彼女をいざなう。自分という土俵の外へ、自分だけでしっかりと立つことの出来る安全圏内から一歩踏み出すようにと、マリアをいざなうのです。天使は言います。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。」

いかがでしょうか? ガブリエルが着々と駒を進めているのがお解かりのことと思います。あなたは神の力に包まれて、神の子を産むのだと、そこまでガブリエルは言うのです。そして、最後に天使は切り札を出します。

「神に出来ないことは何一つない。」

短い、しかし、決定的な一言です。この言葉が、ついにマリアを揺り動かす。自分の力だけで立つことの出来る土俵から、神に支えていただかないと立つことの出来ない世界へと、一歩を踏み出すのです。そのとき、マリアの口から、思いもよらない言葉が出て来ます。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」

本人すら予想しない言葉、思いもよらない言葉というものがあります。あとになって、こんな弱い私が、なぜあんなことが言えたのかと不思議に思う。そういう言葉を、皆さんも人生のある場面で口になさったことがあると思います。

それは、今思えば、自分の中から出て来た言葉ではない。外から与えられた言葉。さらに言うなら、神が与えてくださった言葉です。マリアの場合が、まさに、そうでした。それは彼女がそれまでの生き方から、一歩、外へと踏み出したことの、しるしの言葉だったのです。

「私は主のはしためです」とマリアは言いました、「はしため」という言葉は今や死語になりましたが、これを不快語だと理解するのは、問題があると思います。これは「私はあなたの下に身を置きます」ということだからです。主なる神を主人として、その下に膝を屈めて身を置くのです。そしてマリアは「お言葉どおり、この身になりますように」と言いました。自分の心と体をすべて、神様の約束に預けた。あなたは聖霊の力に包まれて神の御子を生むという約束に、身も心も委ねたのです。

ここに、神の御子が肉体を持つ人として生まれることがハッキリと語られています。十字架への歩みは、すでにここから始まっていたのです。この事を使徒信条は次のように語っています。

「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、」

天使が告げたとおりです。しかし、使徒信条は、このあと、すぐにこう続けています。

「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、」

イエス・キリストが神の独り子でありながら、肉体を伴った人間としてマリアから生まれてくださった。それはまさしく十字架への道を歩むためであったと、使徒信条は語っている。まさに天使が告げたように、神に出来ない事は何一つないのです。私たちは、このようなお方を救い主としてあがめている。まことの神であり、まことの人。キリストを信じる信仰が、ここに生まれるのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

3月30日(日)のみことば

「わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」(旧約聖書:イザヤ書57章15節)

「一日に七回、あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(新約聖書:ルカ福音書17章4節)

今日の新約の御言葉は、主イエスが弟子たちに「赦し」について語られたお言葉です。これは七回までは赦せというふうに回数を言っておられるのではありません。むしろ、数を超えて赦し続けよと言っておられる。これは、言葉を替えて言うなら「赦しを数えるな」ということです。自分が相手を赦した回数を指折り数えて、「よーし、あと1回でやっつけてやろう!」などというのは、赦しでもなければ、福音でもない。赦しなさいという福音を自分勝手に律法にすり替えているに過ぎません。

赦しだけではありません。おおよそ、主イエスが私たちに求めておられることは、ことごとく、信仰がなければ出来ないことばかりです。赦しなさい。祈りなさい。感謝しなさい。喜んでいなさい。耐え忍びなさい。賛美しなさい。これらは皆、信仰の事柄です。まことに、その意味で、主イエスというお方は、信仰がなければ出来ないことを私たちにお求めになる。赦しは、その中で最たるものではないでしょうか? 「赦しなさい」という主の言葉を私たちは聞くのですが、それをどう聞いているのか? そこが肝心要ではないでしょうか? 律法として聞いているのか、福音として聞くか。そこが肝心です。