聖書:イザヤ書40章26~31節・マルコによる福音書13章1~13節
説教:佐藤 誠司 牧師
「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方の力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。あなたは知らないのか。聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は極めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章26~31節)
「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。」(マルコによる福音書13章9節)
主イエスがエルサレムの都にお入りになって、まず最初になさったことは、エルサレム神殿で商売をしている人々を神殿から追い出すことでありました。これを「宮清め」と呼びますが、主イエスは、神殿はあくまで祈りの家であるべきだとお考えになっていたわけです。そして、主イエスは、それ以降も、毎日、神殿で御言葉をお語りになりました。
ところが、神殿に参拝にやって来る人の中には、主イエスが語る御言葉よりも、神殿の壮大さや壮麗さのほうに心引かれる人たちもいたようです。今日の個所の最初のほうに、弟子の一人が「なんと素晴らしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」と感嘆の声を上げている姿が出て来ます。弟子たちまでが壮麗な神殿に見とれているのです。どうしてなのでしょうか。
こういうことは、考えられると思います。当時、ユダヤはもうローマ帝国の支配下にあって、いずれこの国はローマによって滅ぼされるのではないかという漠然とした不安が人々の間に漂っておりました。不安というのは、拭おうとすればするほど、人の心を深く捕らえるものです。そこで、この国の安泰を保障してくれそうな立派な神殿を人々は見にやってきた。神殿の要を支えている巨大な石や壮麗な柱を見て、人々は初めて心の平安を得たのでしょう。しかし、その平安は果たして本物でしょうか?
そういうことは現代でもありますね? 例えば、北朝鮮などでは、壮大な軍事パレードを国民に見せ付ける。国民はそれを見て、わが国もこれで安泰だと思って心の平安を得る。しかし、その平安は、果たして本当の平安でしょうか。決してそれは本当の平安ではない。軍事パレードによって得られる平安の裏側には、むしろ不安がある。ひょっとしてこの国は攻められるのではないか、滅ぼされるのではないかという不安がある。不安だから、その不安をかき消してくれそうな立派なもの、壮麗なものを見たいのです。
神殿の巨大な石や壮麗な建物に見とれていた人々も、そうでしょう。不安なのです。何が不安なのか? これはもう決まっています。先行きが不安なのです。この先どうなっていくのか分からない。だから不安なのです。主イエスはそんな彼らの心を見抜いて、こうおっしゃいました。
「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石も崩されずに他の石の上に残ることはない。」
あなたがたが心の頼みにしているこれらの石も、建物も、崩れ去る時が来る。主イエスはそう言われるのです。イエス様は人々の不安を煽っておられるのではありません。このあと、不安を募らせる弟子たちに、主イエスはこう言っておられる。
「人に惑わされないように気をつけなさい。」
不安が消えない、消えないどころか、ますます不安が募ってくる。それは、惑わされているからではないかと主イエスは言われるのです。惑うとは、どういうことでしょうか? 人の心が本来の所からずれていくこと、それを聖書は「惑い」と呼んだのです。さあ、それでは、人間の本来の場所とは、いったい、どこなのでしょうか? 示唆に富む御言葉が創世記の2章7節に書かれています。
「主なる神は土の塵で人を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
創世記の創造物語というのは、一見すると、御伽噺のようですが、じつは大変に深い洞察力に満ちています。ここもそうですね。神様は人間の体を土の塵で形作られた。土の塵なんて、大変もろいものです。吹けば飛ぶような卑しい存在です。値打ちが無いのです。ところが、神様はその、もろい、値打ちの無い体の中に、ご自分の命の息を吹き入れてくださった。卑しいものの中に、尊いものを満たしてくださったのだと創造物語は語る。これが聖書全巻を貫く人間観でありまして、この人間観が、聖書全体に影響を与えているわけです。例えば、パウロが言った大変有名な言葉がありますね?
「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」
第二コリント4章7節の言葉です。土の器とは土の塵で造られた人間の体のことでしょう。その卑しい器の中に神様は宝を盛り込んでくださったのだとパウロは言うのです。卑しい器の中に尊い宝が盛られている。この宝は人間の中に本来あったものではない。神様から与えられたものです。だから、パウロは続けてこう言っております。
「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」
また、イエス様も、マタイ福音書の10章28節で、こう言っておられるでしょう?
「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい。」
体を生かしている命があります。生物的な生命のことです。それに対して魂を活かす命があるわけです。その命とは、生物的な生命のことではないのです。魂を生かしている命のことです。
さて、創世記に戻りますと、神様が命の息を吹き入れてくださった。それによって人は生きる者となったと書いてありましたね。この「生きる者になった」というのは、ただ単に生物的な意味で生きるようになったということではありません。神の呼びかけに応え得るようになったということ。もっと平たく言えば、神様に返事が出来るようになったということです。神様の呼びかけに返事が出来る。これは神様と真向き合いになっている、ということです。つまり、人間の本来の場所というのは、神様と真向き合いになっている場所のこと、つまり、神様の前なんです。ここから外れていくことが「惑う」ということなのです。
ですから、創世記3章で、ヘビが人間を誘惑しますね。あれは文字通り惑わしている。人間を本来の場所から横道にそれさせようと、ヘビは誘惑をするわけです。その結果、人間はどうなりましたか? 「あなたはどこにいるか」という神様の呼びかけに応えられなくなったでしょう? つまり返事が出来なくなった。これを聖書は「罪」と呼んだのです。
主イエスが人々に「惑わされないよう気をつけなさい」とおっしゃった。それは本来の場所からそれないでいなさい、神様の前から離れてはならない、ということだったのです。ここからそれて行くと、どうなるか? 神ならぬものに心が引かれていく、別のものを頼ってしまうのです。神殿で、巨大な石や壮麗な建物を見て、心の平安を得ていた人たちのことを、今一度思い起こしてください。こんな立派な神殿が我々にはあるのだと思って、彼らは平安を得ておりました。ところが、この平安は本物の平安ですか。そうではないでしょう? 不安があるから、つかの間の平安が欲しい。ただそれだけです。
では、本当の平安はどこにあるのか? 最初にお話したことを思い起こしてください。主イエスは毎日、神殿で御言葉を語っておられたのでしょう? どうしてこの人たちは、そっちのほうに行かなかったのでしょう。これは2千年前のユダヤのお話ではありません。今の私たちの社会の真相を言い当てている物語ではないでしょうか? 主イエスは御言葉を語っておられるのです。昨日も今日も変わりなく、御言葉を語っておられる。しかし、主イエスのもとに来る人は多くはない。ほかのものに心引かれて、つかの間の平安を得ている。
さて、6節から後は、弟子たちに向けて語られたお言葉が記されております。いろいろなことが言われておりますが、特に目を引くのは、あなたがたは証しをするのだ、とハッキリ言われている点でしょう。国と国が敵対し、また様々な災害や飢饉が起こる、しかし、それらのことは産みの苦しみの始まりに過ぎない。これらのことが起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害する。あなたがたは地方法院に引渡され、会堂で打ちたたかれる。私の名のゆえに王や総督の前に引っ張り出される。しかし、それは、あなたがたにとって証しをする機会となる。
証しという言葉が出てきております。今でも教会の中でよく使われる言葉ですが、今ではどうでしょう、証しといえば、私たちは、入信のいきさつとか、イエス様との出会いを語るのが証しだと思っております。ところが、まあそれも証しの中に入るのでしょうが、本来の証しというのは、もともとは法廷用語だった。つまり、裁判の席で使われた言葉だったのです。これには、初代教会の迫害の歴史が反映されていると考えることが出来る。つまり、初代教会のキリスト者たちは、信仰ゆえに法廷に引きずり出されることが多かったのです。そのときに、裁判所がキリスト者に語ることを許したのが「弁明」の言葉でした。自分を弁明することが、被告人には認められていたのです。
ところが、主イエスが弟子たちに求めておられるのは、「弁明」ではなくて、「証し」なのです。弁明と証しは、いったいどこが異なるのでしょうか。
弁明というのは、ただの言葉なのです。ところが、証しというのは違います。もちろん、言葉による証しもあるのですが、言葉以上のもの、つまり、その人の生き方とか振る舞いのすべてを通して、ああ、神様は本当にこの人と共におられるのだなあと、敵対者にも分かってくる。そういう生き方や振る舞いのことを、初代教会の人々は「証し」と呼んだのです。ですから、キリスト者にとって証しというのは、言葉による弁明とは違う。その人が何を喜びとして生きているか、何に望みをつないで生きているか、何を祈っているか。神様が共にいてくださることを、どんな境遇でも信じているか、それが伝わっていく。敵対者にも伝わっていく。それが証しだったのです。
今日はマルコ福音書と併せて旧約のイザヤ書40章の言葉を読みました。これも、行きたくない所に連行されていった人々に向けて語られた言葉です。ユダヤの国が滅ぼされて、多くの人々が捕虜として、あるいは奴隷として、外国に連行されて行きました。そこには希望など、これっぽっちもありません。その中で人々は「私の道は主に隠されている」と言い、また「私の裁きは神に忘れられている」と言いました。
これはどういうことかと言いますと、「私の道」というのは「私の人生」ということですね。神様の目は私の人生には届いていないと嘆いているのです。私の裁きは神に忘れられているというのは、私の祈りは聞かれていないということです。いずれも深い嘆きと絶望の言葉です。で、人々は絶望しながら、夜空を見上げる。すると、どうでしょう。満天の星が輝いている。それを見ておりましたときに、ここがユダヤの人々の凄いところだと思うのですが、彼らは語りかける声を聞くのです。
「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方の力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。」
夜空を見上げて、いったい誰がこの世界を造ったのか、この地上では国と国が争い、この国が勝ち、この国は栄華を誇っている。しかし、誰もこの夜空の星を支配することは出来ない。まさに人の手の届かない、あの星を造ったのは誰か。誰がこの世界を支配しているのか。誰がこれらを創造したか。その一点に目を開かれたときに、捕らわれの身の人々が初めて望みを持つのです。どこに望みを持つのか? 自分たちの中には、もう望みはないのです。さあ、いったい、どこに望みを持つのでしょうか。
「あなたは知らないのか。聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は極めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
主に望みをおく、とハッキリ言われています。この預言者も、かつては「我が道は主に隠されている」とか「我が裁きは主に忘れられている」と言って嘆いていたのです。自分たちはこの外国で、捕虜のまま死んでいくに違いないと思っていた。人間の頑張りというのは、ある一線までは持ちこたえられます。ところが、その一線を越えますと、堰を切って流れる怒涛のように、もう押し流されるのをどうすることも出来ません。堤防がある間は、川の水は支えておれるのですが、堤防が破れたら、もうダメでしょう?
人間の頑張りというのは、あの堤防に似ています。私たちも、自分の努力や頑張りで、人生の様々な悩みや労苦に持ちこたえていきます。ところが、それが破れたら、いったい、何でもって頑張るでしょうか? その破れの中で、いったい、誰に望みをつなぐでしょうか? もう自分はダメだと思って人生にケリをつけてしまうでしょうか? そういう人は、この日本という国には多いと思います。しかし、私たちはそうではないでしょう? ああ、今までは自分の中に救いの根拠を求めていたけれど、本当は違うのだと、今まではつい、自分の内面や身の周りばっかり見ていたけれど、ああ、神様を見上げることを忘れていたなあと、ハッと気付く。ハッと気付いて、そこへ帰って行く。ああ、いつでも帰る道は開けるのだと分かる、目が開かれる。
生きた信仰というのは、そういう目を覚ますことの連続ではないでしょうか。あのままだっらた、死んでいたのに、今はそうではない。神様と真向き合いになって、喜んで生きている。ああ、これこそが本当の生き方なんだと分かる。これが主イエスが言われた「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」ということなんだと思います。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
7月23日(日)のみことば(ローズンゲン)
「主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。」(旧約聖書:詩編5編13節)
「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」(新約聖書:マタイ福音書6章13節)
今日の新約の御言葉は、主イエスが弟子たちに教えてくださった「主の祈り」の一節です。いや、正確に言うなら、教えてくださったと言うより、主イエスは「あなたがたはこう祈りなさい」とお命じになったのです。この祈りは「私たち(我ら)」を主語にしていますが、その真意はキリスト者同士の連帯であると同時にキリスト者とキリストの連帯をも示す「壮大な我ら」です。
私が教会学校の生徒だったとき、ある先生が「主の祈りは絶対に独りで祈れない祈りだ」と教えてくれました。イエス様が一緒に祈ってくださる。だから、一人で祈るときも「独り」ではない。そう教えてくれたのです。これは、今まで私が聞いてきた主の祈りの解説の中で、いちばんの名解説だと思います。昔はこういうダイナミックなメッセージが信徒によって語られて、それが子どもたちの心を揺さぶり、残ったのです。「主の祈りはイエス様と一緒に祈れる祈り」。これは良いメッセージだと思います。