聖書:詩編139編13~17節・エフェソの信徒への手紙2章10節

説教:佐藤 誠司 牧師

「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。」(新共同訳聖書 エフェソの信徒への手紙2章10節)

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」(口語訳聖書 エペソ人への手紙2章10節)

「私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。」(聖書協会共同訳聖書 エフェソの信徒への手紙2章10節)

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものから出来たのではないことが分かるのです。」(ヘブライ人への手紙11章3節)

 

1月19日から使徒信条による説教が始まりまして、今日が四回目です。使徒信条は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という言葉で始まります。ここからも解るように、使徒信条は造り主である神を信じる信仰を、とても大事にしているのです。そこで先週は「世界を造られた神」と題して、造り主を信じる信仰についてお話をしました。この「世界」というのは、この世のあらゆるものという意味ですから、理屈の上ではこれ1回で事足りるわけですが、もう1回、さらに進んで「私を造られた神」についてお話をしたほうが良いと思いました。

この主題のために選んだ聖書の箇所がエフェソの信徒への手紙2章10節の言葉です。

「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。」

この「わたしたちは神に造られたものであり」という所は、以前の口語訳聖書では次のようになっていました。

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」

「神に造られたもの」を「神の作品」と表現していたのです。私はこの口語訳聖書の翻訳はとても素晴らしい訳だと思います。というのも、私には一つ、少年時代の思い入れがあるからです。小学5年の時、確信犯的に宿題をやらない子供が、私を含めてクラスに3人おりまして、ある日、ついに先生の堪忍袋の緒が切れて、「お前らみたいな出来損ないは」と言ったのです。まあ自業自得ではあったのですが、子供心にとても傷ついた。傷ついたのですが、もとの原因が原因ですから、親にも訴えることが出来ずに、やり場のない思いを抱えて数日を過ごしました。ところが、次の日曜。教会学校でこのエペソ人への手紙の御言葉が読まれたのです。

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」

教会学校の先生が、こう語りました。

「きみたちは神様の作品なんだ。神様の作品に出来損ないは一つもありません。」

身に沁みる思いで聞きました。これはまさに福音でした。それまでも私は、神様の話、イエス様の話を聞いてはいましたが、どこか他人事と言いますか、自分とはあまり関わりの無い話として聞いていた。ところが、「神様の作品に出来損ないは一つも無い」という言葉は、全然違った。自分の事として、聞くことが出来た。存在が認められた喜びと言いますか、神様の暖かい眼差しの中に入れられたように思ったことでした。

長々と私事を述べてしまいましたが、自分を神に造られたものと知ることの意味は、案外、こういうところにあるのではないかと思います。

創世記の1章を見ますと、造り主である神様が、いかに丁寧に、心を込めて世界とそこに生きる命を創造されたかが語られています。一日一日、創造の御業を終える度に「神はこれを見て、良しとされた」という言葉が重ねられていく。そして六日目に創造の御業をすべて終えられた時には、ひときわ晴れやかに「極めて良かった」と記されている。この「良しとされた」「極めて良かった」という喜びの声が、この私にも向けられている。壮大な自然を指さして、この大自然は神がお造りになったものだと感嘆するだけでなく、自分自身を指さして「私も神の作品です」と喜んで言うことが出来る。ここから本当の意味で、自分を愛するという事が始まっていく。これが造り主を信じる信仰の恵みであると思います。

先週の礼拝では「世界を造られた神」というお話をしましたが、あそこで読まれた聖書の箇所がヘブライ人への手紙11章の次の言葉でした。

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものから出来たのではないことが分かるのです。」

「見えるものは、目に見えているものから出来たのではない」と言われています。これが大事です。造り主を信じるというのは、目に見えることや外に現れていることだけで事柄を捉えるのではない。目に見えることの背後に、目に見えない神様の御心がある。そのことを知る。それが大事です。

ところが、今の日本の社会はどうでしょう。学校へ行っても、会社に入っても、目に見える成果が求められます。すべてのことが目に見えることによって評価され、判断される。鏡に映った顔を見て、学校からもらった成績表を見て、そこに自分の姿を見て、自分で自分が嫌になってしまう。金沢にいた頃、私は7年間、北陸学院短期大学で「キリスト教入門」という授業を担当したことがありました。前期と後期の最初の時間に、学生たちにアンケートに答えてもらうのですが、その中に「あなたは自分が好きですか」という質問があって、その答えを見るとなんと多くの学生が「嫌い」と答えた。今でも憶えている答えがあります。彼女はこう答えたのです。

「嫌いです。顔もスタイルも。頭悪いし、性格も悪い。人前に出るのが嫌。」

「あなたは自分が好きですか」と訊いただけなのに、彼女はここまで答えた。ということは、これは訊かれて答えているのではなくて、この人が訴えていることなのです。特に最後の「人前に出るのが嫌」というのは、言葉を補えば「人前に出て人から見られるのが嫌」ということでしょう。彼女はこれまで、目に見えることだけで評価され、判断されてきたのでしょう。私の小学生時代の言葉を借りれば「出来損ない」と判定されてきたということです。

しかし、本当は違う。「出来損ない」ではなくて、「神の作品」なのです。ところが、先ほどのヘブライ人への手紙が言うように、自分が「神の作品」であることが分かるためには、見えない所に働く神様の創造の御業を知らなければならない。目に見えることだけで判断していては、ダメなのです。あの教会学校の先生が、お世辞にも上出来とは言い難い子供たちを前にして「君たちは神の作品だ。神様の作品に出来損ないは一つも無い」と確信をもって言い切った。それは、この先生が見えないものに目を注ぐ信仰のセンスを持っていたからでしょう。「神の作品に出来損ないは無い」という言葉は、造り主を信じる信仰がなければ、到底、出て来ない言葉だからです。

造り主を信じる信仰といえば、こういうことがありました。東京神学大学が信徒向けに出している冊子に「東神大パンフレット」というのがあります。薄い文庫本程度の小さい冊子ですが、歴代の名物教授たちが書いたものだけに、今も色あせない内容を持っています。その中に竹森満佐一という新約聖書学の先生が書いた「正しい信仰」という冊子があります。その中で、竹森先生は造り主を信じる信仰について、非常に興味深いことを語っています。少し長いですが、読んでみます。

「神が造り主であることを信じれば、自分と神とが全く違うものであることが解ります。人間らしく生きるということが、よく言われます。しかし、私がよく感じるのは、人間らしくということが、人間の欲望を無限に伸ばすことになり、したがって、人間がまるで神のようになってしまうことであります。それでは、人間らしくはならないで、怪物になってしまうことでしょう。私たちの国では、人間が神になることが、非常にやさしいのです。少し偉い人は、死ねば神として祭られますし、普通の人でも、死んだら仏として拝むのです。このように、神と人間との区別がつきにくいので、人間が人間らしくならないのです。」

竹村満佐一という人は1960年代から1970年代に活躍した新約学者で、吉祥寺教会の牧師も務めた人です。60年代、70年代といえば、日本の近代化が驚異的なスピードで進んだ年代ですが、彼は一見華々しい近代化の根底に、相も変らぬ日本の古い宗教観を見ている。そして私たち日本人が造り主なる神を信じることの本質を見事に突いていると思います。造り主である神を信じることは、神と人間は全く違うのだということを、よく理解することなのだと彼は言うのです。そうでないと、私たちは人間になりそこなって、怪物になってしまう。竹森満佐一氏がこれを書いて半世紀が経ちましたが、どうでしょうか。今の私たちは「竹森さんの言ったことは、もう古いよね」と言えるでしょうか。私たちは竹森さんの言ったことを、すでに卒業したと言えるでしょうか。皆さんは、どう思われますか。

では、神と人間とは違う存在だというのは、具体的には、どういうことなのでしょうか。こういうふうに考えてみては、どうでしょうか。よく「神様は本当におられるのだろうか」と言う人がいます。「神はおられるのか」。これは神様の存在を疑う言い方です。こういう言い方は、一般の人はもちろん、キリスト者の中にも、大きな災害が起こった時など、言う人がいます。私も、東日本大震災の時に聞きました。

しかし、ここでちょっと立ち止まってください。「神はおられるのか」と言って神の存在を疑っているその人は、世界の存在を疑っているだろうか。自分の存在を疑っているでしょうか。多くの人は世界の存在も自分の存在も、夢にも疑うことなく、ただ造り主なる神の存在については、これを疑っている。

しかし、聖書と出会い、信仰が与えられた時に、私たちがまず示されるのは、本当の意味で存在するのは、まず神様だということです。そのことを、聖書は、次のように語っています。

「初めに神は天地を創造された。」

聖書が最初に告げるメッセージです。まことの意味で存在しておられるのは、造り主なる神のみであって、他の被造物は、言うなれば、神様から命のお裾分けを頂いて、その恵みによって存在を許されている。イエス様は、神の国の到来を語る中で、こう言われました。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

ルカ福音書21章33節の言葉です。この「滅びる」というのは破壊されるとか、そういう物騒な意味ではなくて、「過ぎ去る」という意味がある。「過ぎ去る」というのは、言い換えますと「時間の中にある」ということです。被造物はすべて時間の中にあって、過ぎ去るのです。それに対して、主イエスの言葉は過ぎ去ることがない。これを「永遠」と言います。

以前、私は礼拝の中で「永遠が時間の中に突入した」という言葉を紹介しました。これはキリストのことです。永遠であられるお方が時間の中に、歴史の中に突入して来られた。私たちは、このお方によって存在しているのです。もう一度、口語訳聖書で、エフェソの信徒への手紙2章10節の御言葉を読んでみたいと思います。

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」

この「キリスト・イエスにあって造られた」というのは、神様によって造られた時には出来損ないだったけれども、キリスト・イエスが良い作品として造り直してくださったということではありません。キリスト・イエスにあって新しく造られた時に、私たち人間は本来の姿を回復したのだと語っている。

つまり、人間というのは、もともとは良かったのです。「見よ、それは極めて良かった」と神様が喜ばれたくらいです。救われて初めて良くなったというのではない。もともと良かったものを、私たちが泥まみれ、罪にまみれたものにしていた。神様がそれを御子キリストにあって、きれいに洗い清めてくださったのです。だから、私たちは感謝をもって言うことが出来る。「私たちは神の作品です」と喜んで言うことが出来るのです。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

2月9日(日)のみことば

「銀を愛する者は銀に飽くことなく、富を愛する者は収益に満足しない。」(旧約聖書:コヘレト5章9節)

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(新約聖書:第二コリント書4章18節)

今日の新約の御言葉は使徒パウロがコリント教会の人々に書き送った手紙の一文です。ここには「見える」という言葉と「見えない」という言葉が際立った対照を見せて使われています。一読して、すぐに分かることは、パウロが「見えるもの」よりも「見えないもの」のほうに大きな価値を見いだしていることです。しかし、それは何も、目に見えるものはどうでも良いということではありません。パウロが言いたいのは、そういうことではなくて、見えるものと見えないものは質的な違いがあるということです。

目に見えるものが私たちの心を捕らえてしまうことがあります。特に昨今の日本の社会は見えるものが重んじられます。学校に行けば見える形で成績を上げないといけない。会社に行けば、見える形で業績を上げないと評価されません。目に見える成果を上げよ、というのが社会全体の合言葉にすらなっている、それが今の日本の社会ではないかと思います。しかし、目に見えるものは過ぎ去るものでもあります。一時的なものなのです。だからパウロは目に見えるものに心を奪われてはならないと言うのです。