聖書:イザヤ書43章1~2節・コリントの信徒への手紙二4章16節

説教:佐藤 誠司 牧師

「しかし、ヤコブよ、あなたを創造された方、イスラエルよ、あなたを形づくられた方、主は今こう言われる。恐れるな、私があなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの。」(イザヤ書43章1~2節)

「だから、私たちは落胆しません。私たちの『外なる人』が朽ちるとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(コリントの信徒への手紙二4章16節) 以上、聖書協会共同訳

 

今日はコリントの信徒への第二の手紙を読みました。ここに、こんな御言葉がありました。

「だから、私たちは落胆しません。私たちの『外なる人』が朽ちるとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」

これは大変有名な御言葉でありまして、この御言葉によって励ましを受けた方は、ずいぶん多いと思います。この御言葉を、皆さんはどのように受け止めておられるでしょうか。普通、この「外なる人」というのは、私たちの肉体のことなのだ、肉体が年をとってだんだん衰えて、体力も気力も衰えていくけれど、内にある信仰は日々新しくされていくと。そのように受け止めておられる方が多いのではないでしょうか。

もちろん、この理解は間違いではありません。「外なる人」というのは体のことも言っております。私たちは若い頃は自分の体に自信を持っています。しかし、年齢と共に、目が薄くなり、耳が遠くなり、また色々と調子の悪いところが出て来ます。そうなってきますと、まことに体というものは当てにならない。そして、体が弱ると共に、心もなんだか暗くなってきて、人生だんだん先細りになっていく、そういう心細さを感じます。そういう私たちが「『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」などと聞きますと、何だか励まされる気がいたします。しかし、それと同時に、本当にそれで問題は解決したのだろうかという疑問も感じます。

信仰生活というのは、私たちが毎日生活をしているその中で起こってくる疑問や問題というものを、うやむやにしてはいけないと思います。建前ばかり言って、実際の生活は信仰とは違う別のところで行われているというようなことでは、信仰が本当に生きた力にならないのです。ですから、私たちが日常生活の中で感じる疑問や問題を真正面から捉えて、御言葉によって解決する。それが大事です。

この「外なる人」というのを、ただ体のことだと捉えて、体は衰えても精神は若々しいと、そのような意味に取りますと、体が衰えていくのに伴って心も気力も衰えていく。そういう現実にぶつかった時に、さて私の救いはどうなるのだろうという疑問に必ず直面します。私どもの教会にも、あれだけ熱心に教会に来ておられたのに、もうすっかり年を取られて、人の顔も分からない。そんな方もおられます。そういう方々は、じゃあ今でもちゃんと信仰を持って生きておられるかというと、どうもそうではなさそうだと、そういう気がいたします。もう神様のことも、キリストのことも分からなくなった。そういう感じのする方がおられます。そうなった時に、じゃあその人の救いはどうなるのか。よその人のことではありません。自分もやがてそうなったら、私は救われるだろうか。信仰によって救われるという言葉は、私たちは行いではなく信仰によって救われるのだと言うので、私たちには大変に頼もしい励ましの言葉ですが、それと同時に、じゃあ私の信仰がなくなったら、どうなるだろうかという大変に切実な疑問が湧き起こってきます。

私たちが自分の内面を覗き込みますと、口には出しませんが、色々と嫌な思いがあります。人に対して妬んでみたり、恨んだり、あるいは私などは自分がいかに自己中心であるかということをつくづく思い知らされます。また難しい問題に直面しますと、信仰がぐらぐらする。神様を信じていると言いながら、狼狽することが、それこそ、しょっちゅうあります。そういう自分像を見るにつけ、私の信仰はこれで良いのだろうかという疑問・疑念がふつふつと起こってまいります。

しかし、この「外なる人」というのは私たちの体だけではない。私たちの精神も含んでいる。大事なのは「外なる人」は体のことだけではない、ということです。私たちがキリストのことも分からない、訳が分からない状態になっても、私たちは捨てて置かれるわけではないのです。

聖書の中には、救いを確証する御言葉がいくつか出て来ます。その代表が今日読みましたイザヤ書43章の1節の御言葉です。

「しかし、ヤコブよ、あなたを創造された方、イスラエルよ、あなたを形づくられた方、主は今こう言われる。恐れるな、私があなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの。」

この御言葉には条件が一つも無いですね。「あなたがこうであったら、私はあなたを贖う」なんて了見の狭いことは言っておられないのです。「わたしはあなたを贖った」と明言しておられる。全部、丸ごとなのです。たとい私がボケて神様のことが分からなくなったとしても、神様は私を御自分のものとしてくださった。それが「贖い」ということです。この贖いのために、神様は独り子を送ってくださいました。神様に背いて、どうしても言うことを聞かない私たちのために、キリストが十字架にかかって罪を贖ってくださった。造り主である神様に背いているということ以上に大きな問題は、私たちには、ほかには無いですね。病気であろうと失敗であろうと、神様に背いているということ以上に大きな問題ではない。その私たちの背きの罪を、神様はキリストにおいて解決してくださったのです。これが私たちに与えられている救いの約束です。

そして「わたしはあなたの名を呼んだ」と言われております。名を呼ぶというのは、ある基準に合わせて、ここから上の人間は救ってやるけれど、ここから下はダメだなどと、そういう差別はしない。名を呼ぶというのは、一人一人を神様が一対一で覚えていてくださる。私という人間がちゃんとした信仰生活を送っていようと、あるいはボケてきて何も分からなくなっていようと、そのことを神様は一切知った上で「私はお前のことを引き受けた」と言ってくださる。それが「名を呼んだ」ということです。「あなたはわたしのものだ」と言って、丸ごと引き受けてくださっている。これが私たちに対する保障です。

私たちに与えられている信仰は、何によっても崩されないものなのです。パウロがローマ書の8章の最後のところで言いましたね。

「他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことは出来ないのです。」

この神の愛というものを具体的に語っているのが福音なのです。ですから、私たちの体、心がどのようになっても、私たちは神様の愛の中にしっかりと受け止められている。この福音を知らされて、信じるのが信仰です。ですから、信仰というのは、何か人間の素質とか、あるいは修養を積んで確信を得ましたとか、そういうことではない。福音を聞いて、「ああ、本当にそうだ、ありがとうございます」と言って受け取る。いわば空っぽの入れ物の中に恵みを受け取るのが信仰です。

もちろん、信仰には成長が伴いますから、聖書を読んだり、御言葉の解き明かしを受けたり、御言葉のメッセージを生活の中に生かすことも大事です。しかし、その信仰の最後の最後、行き着くところはどこかと言うと、「ああ、やっぱり神様、私のこと、全部引き受けておられたんだなあ」というその一点です。このことを知る。それが「内なる人は日々新しくされていく」ということの中身です。どうして日々新しくされていくかと言いますと、今言ったような信仰をもって私たちは生きておりますが、いつでも信仰がハッキリしているかと言うと、どうもそうではない。いろんな出来事・難問にぶつかっては、信仰がぐらぐら揺らぎます。そういう信仰の揺らぎというのは、一見、マイナスのように見えます。しかし、じつは、必ずしもそうではないのです。私たちは、つい、自分の信仰に頼ると言いますか、自分を頼みにするところがありますから、順調に行ってますと、ついつい自分の信仰に頼る。「信仰で乗り切って行こう!」などと思ってしまうわけです。ところが、そういう信仰でやって行ってると思っている自分が、時にとんでもない問題にぶつかる。そうしますと、途端にぐらぐらと揺れる。その揺らぎの中で「ああ、私の信仰はもうダメなんじゃないか」と心底観念する。

大事なのは、じつは、そこなのです。私たちに与えられている信仰や祈りというのは、もうダメだと観念をした、まさにそこから新たに生まれてくる。それが「内なる人は日々新しい」という御言葉の意味です。ダメになったところから、甦って来る。主イエスを三度否認したペトロが、もうダメだというところから立ち直りましたね。あれなのです。「外なる人は衰えても、内なる人は日々新しい」というのは。ぐらぐら揺れても良いのです。ぐらぐら揺れるあの揺らぎは、新しいものが生まれるための胎動です。

自分というものに一度絶望する、その中で御言葉がもう一度、語りかけられる。そういう経験を、皆さんもなさったことがあると思います。ペトロがそうでした。かつては自信満々で聞いていた「わたしに従いなさい」という主の言葉を、完全に打ち砕かれて、自分というものにほとほと絶望したその中で聞いた。その時、彼は初めて、本当の意味で御言葉を聞いたのだと思います。そして彼は、決定的な御言葉を聞きます。

「しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

この御言葉を聞いた時、彼の人生は決まったのです。ペトロだけではありません。問題にぶつかったり、大失敗をやらかしたりして、信仰がぐらぐら揺らぐ中で、自分というものに絶望する。その時に、望みの道は開かれる。パウロが言いましたね。

「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

この「逃れる道」というのは「逃げ道」のことではありません。自分に絶望した時に、神様が開いてくださる道のことです。イスラエルの人々がエジプト軍に追われて、断崖絶壁に追い詰められましたね。前は海、後ろはエジプト軍という時に、誰が海の中に道が開けると思ったでしょうか。あれが「逃れる道」です。

そういうふうに、何か事あるたびに道が開かれ、御言葉によって立ち直って行く。それが信仰の歩みです。ですから、私たちの信仰は決して立ち止まったりはしません。淀んだ古い水たまりのような信仰ではなく、こんこんと湧き出る泉のような信仰です。「内なる人は日々新しくされる」とは、そういうことです。

私たちは死者を復活させてくださる神様、天地の造り主である神様を信じております。礼拝の中で「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白をしていますね。

しかし、皆さん、その神様を見たことはありますか。その神様が生きて働いておられるのを、見たことがおありでしょうか。見ていないですね。ということは、見ないで信じているのです。これ、大事なことですよ。その神様が私たちの救いのために、主イエス・キリストを送ってくださった。そして私たちの罪を贖うために十字架についてくださった。見ましたか。イエスが十字架の上で死んだ。それは確かに誰の目にも見えたでしょう。

しかし、そのキリストの死が私たちの罪の赦しのための贖いの死であったというのは、誰にも見えなかった。現代人は「見ること」と「信じること」を混同しています。「見るべきこと」と「信じるべきこと」をごっちゃにしています。キリストが十字架につけられた時に、私たちも共に十字架につけられて、古い自分は死んだのだと。皆さん、それを見ましたか。どこにも見えないです。見えないけれど、私たちはそれを信じている。こうして私たちは、いつの間にか見えないものを信じる、そういう信仰に引っ張り込まれているのです。なぜですか。本当の望みは目に見えないからです。私たちがどんな時にも望みを失わないで生きるためです。今日の箇所の少し前に、パウロは次のように述べております。

「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、」

ここの「途方に暮れても失望せず」というところは、昔の文語訳聖書では「せんかた尽きくれど、望みを失わず」となっておりました。「せんかた尽きた」というのは、望みが全く無くなったということです。望みが無くなった時にも望みを失わないというのは、理屈で言えば矛盾なのです。しかし、福音の真理というのは、非常にしばしば、矛盾の中にある。「せんかた尽きる」というのは、私たちの努力も能力も創意工夫も、あるいは人の助けも、もう何もかもダメだ。もう終わりだということです。そういう場面で私たちは神様を仰ぎ見、祈ることが出来る。御言葉によって立つことが出来る。私たちは、世の人たちが持っていない、一つの望みを持っている。せんかた尽きた、その時にも「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけてくださるお方を知っているではないですか。

私たちも、やがて、礼拝に出て来ることが困難になった時に、礼拝するということが、どんなに大きな恵みであるかということを思い知らされます。しかし、体が健康なうちは、そうは感じない。だんだんそれが困難になって、礼拝に出ることが大きな戦いになってきた時に、それが大きな恵みだということを改めて知らされる。

「だから、私たちは落胆しません。私たちの『外なる人』が朽ちるとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」

新たにされるというのは、自分で新しくなることではありません。神様が新しくしてくださるのです。だから、私たちは落胆しない。どうか皆さん、どんな事が起こっても落胆しない。内なる人が日々新たにされるのだからと。そう喜んで言うことが出来る。そういう信仰生活を、ご一緒に歩んで行きましょう。

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

8月18日(日)のみことば

「あなたの律法を愛する人には豊かな平和があり、つまずかせるものはありません。」(旧約聖書:詩編119編165節)

「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして、『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」(マルコ福音書6章8~9節)

今日の新約の御言葉は主イエスが12人の弟子たちを伝道にお遣わしになる時のお言葉です。ずいぶんと厳しいことが言われております。しかし、これはただ単に持ち物のことを言っておられるのではない。杖一本なら持参しても良いですよとか、下着は一枚なら持っていきなさいとか、そういうレベルのことを言っておられるのではないのです。じゃあ、イエス様は何を言っておられるかというと、要するに、明日のことを思い煩うなということです。

物見遊山の旅に出かけるのではありません。神の国の到来を告げる旅、福音を告げる旅に遣わされるのです。だったら、そこにすでに始まっている神のご支配に身を委ねて生きるのが、あなたがたの本来の生き方ではないかと主は言われるのです。明日のための思い煩いを心の中に隠し持っていて、喜んで福音を語れるだろうか、明日の生活に心を乱しながら、神の国の到来を人々に告げることが出来るだろうか? しかしながら、イエス様は食べ物や衣服は必要ないと言っておられるのではありません。福音を告げ知らせる人は福音によって生活をすべきことを主イエスご自身が実践しておられたのです。