聖書:使徒言行録11章1~18節

説教:佐藤  誠司 牧師

「わたしが話し出すと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることが出来たでしょうか。」 (使徒言行録11章15~17節)

 

今日読みました使徒言行録第11章の物語は、10章のコルネリウスの物語の後日談に当たります。後日談があるというのは、要するに、あの出来事が尾を引いたということですね。コリネリウスの物語は、使徒言行録の中で最も規模の大きな物語ですが、ここにおいて、ルカがなぜコリネリウスの入信物語をあれほど手を尽くして語らなければならなかったか、その理由が明らかにされてまいります。

異邦人、しかも、ユダヤの人々が忌み嫌っておりましたローマ人が福音を信じて救われるという出来事は、ユダヤ人キリスト者にとって大変衝撃的な出来事でした。どこが衝撃的だったか? それは私たちからからすれば、まさに意外なところに、ユダヤの人々は衝撃を受けたのでした。今日の物語の冒頭に、こう書いてありますね。

「さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と言った。」

エルサレム教会のユダヤ人キリスト者たちが強い抵抗を示したのは、異邦人が神の言葉を受け入れて救われたことそのものではなくて、それに伴ってペトロが異邦人たちと食事を共にしたことだったのです。つまり、彼らは、ペトロが異邦人に洗礼を授けたのはけしからんと言っているのではなく、ペトロが異邦人と食事を共にしたことに異論を唱えているのです。

これはいかにもユダヤ人という感じがいたします。それほど、ユダヤの人々にとって、律法の食物規定は絶対的なものだったのです。律法には事細かに、どういう食べ物は汚れているか、どういう食べ物なら食べて良いかということが記されていたのです。で、それがどうして異邦人との食事まで禁じられるに至ったかというと、そういう汚れたものが出て来る可能性のある食卓に、ユダヤの人々は決して近づかなかった。つまり、異邦人と食卓を共にすることを彼らはしなかったということです。

この非難に対してペトロは弁明を求められることになります。しかも、ペトロは、それを個人的な弁明としてではなく、神の導きと福音の前進を証しする弁明として語らなければならなかったのです。ペトロは困惑したに違いありません。最高法院で弁明するのなら、まだ分かるのです。しかし、よりによって、どうしてキリスト教会で弁明しなければならないのか? ペトロの心中は穏やかならざるものがあったと思います。かつて、最高法院に連行され、弁明を求められたときは、確かにそれは厳しい試練ではあったのですが、ペトロはむしろ、正々堂々と語ることが出来ました。今、あのときのペトロの言葉を振り返ってみますと、どうでしょう。4章の19節で、ペトロはこう語っているのです。

「神に従わないで、あなたがたに従うことが、神の前に正しいことかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」

また5章の29節でも、ペトロは同様のことを述べております。

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」

私たちは人に従うのではなく、あくまで神様に従うのだと、堂々と語っています。そしてペトロは、主イエスの御名のために辱めを受けるに足る者とされたことを喜びつつ、むしろ晴れ晴れとした心で最高法院を出ることが出来たのです。これらを見ますと、これは確かに厳しい試練ではあったけれど、「主イエスの御名のために」という晴れやかさがあったと思うのです。

しかし、今のペトロは、どうでしょうか。教会で非難されて、それを教会の人々に向かって弁明しなければならないのです。そこでペトロは非常に慎重に、順を追って事の次第を語っていきます。自分のやったことを語るのではなく、自分の身に起こった神の導きを語ったのです。

ペトロは口を開いて語り始めます。ヤッファにいる自分とカイサリアにいるコルネリウスの両方に神が働きかけ、ビジョンを示されたこと。その導きに自分は身を委ねて行動したこと。コルネリウスも導きに身を委ね、御言葉を受け入れたこと。それらを順を追って語るうちに、ペトロは気がついたに違いありません。それはすべてが神の導きの内にあったこと。そして神様は今、人間の思いを越えて、全く新しいことをなそうとしておられることに気がついたのです。

ペトロは語りながら、むしろ問いかけていたと思います。主イエスに問いかけたのです。主イエスよ、あなたなら、どうお答えになるでしょうか? この問いかけの中で、ペトロは主イエスの御業と御言葉を思い起こしたに違いありません。主イエスも、しばしば食事のことで人から咎められました。罪人や徴税人と喜んで食卓を共にされたときも、そうだった。あのとき、主イエスはこう言われたではないか。

「丈夫な人に医者は要らない。要るのは病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

また、主イエスは、汚れた食べ物を嫌う人々に対して、こうも言われたではないか。

「外から人の体に入るもので人を汚すことが出来るものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」

主イエスはこう言われたのです。食べ物は人の心に入るのではなく、腹の中に入る。腹の中に入って、外に出る。だから、すべての食べ物は清められる。しかし、人の心から出て来るものは人を汚す。悪い思い、妬み、傲慢や憎しみ、そういうものが人の中から出るときに、人を汚すのだと主イエスは言われたのです。

ペトロはそういう主イエスの御言葉の数々を思い起こしつつ、自分の身に起こったことを語りました。

昼の12時の祈りのとき、ペトロは空腹を覚えて、我を忘れたようになった。すると、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅を吊るされて地上に降りてくるのを彼は見たのです。ペトロがその中を見ますと、様々な獣や鳥たち、地を這うものが入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」という声が聞こえた。ところが、ペトロは驚いて、こう言います。

「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことはありません。」

すると、天からの声が、また聞こえた。

「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」

ペトロは自分の身に起こったことを語ったに過ぎません。しかし、これほど痛烈にユダヤ人の食物についての慣習を否定した言葉が、かつてあったでしょうか? ある意味で、ペトロは、かつて最高法院で語ったのと同じ事を、ここで教会の仲間に向かって語っているのではないかと思います。

「神に従わないで、あなたがたに従うことが、神の前に正しいことかどうか、考えてください。」

自分は神に従わないわけにはいかないのだとペトロは言うのです。そして、ペトロは、神の導きに従ってコルネリウスの家に入り、神の導きによって、彼らに神の言葉を語ったことを述べます。

「わたしが話し出すと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることが出来たでしょうか。」

聖霊が異邦人に降ったのだとペトロは言うのです。もし、そうであるなら、これは神がすでにこの異邦人たちを清めて救いを受けるに足る者としてくださったということではないか。もし、そうであるなら、自分のような者が、神様のご計画をどうして阻むことが許されようか。ペトロはそう言ったのです。これはどういうことかと言いますと、あなたがたも神様のご計画を妨げてはならないのだとペトロは言い切ったということです。今や神様は自分たちユダヤ人が思いもよらなかった計画をすべての民の上に成し遂げようとしておられる。もしそうであるならば、あなたがたも神の御業の前に黙すべきではないか。神は今や、すべての民を祝福しようとしておられるのではないか。これこそアブラハムへの約束の成就ではないのか。

創世記22章に、神様がアブラハムに対してなさった約束の言葉が記されています。ここは創世記12章の約束の言葉と並ぶ重要な個所です。アブラハムが神様の命令に従って、独り子であるイサクを犠牲にささげようとした。まさにイサクの命が取られようとするそのときに、神様は声をかけられる。

「その子に手を下してはならない。」

そして、神様はアブラハムに、こう言われます。

「あなたは独り子をも惜しまなかった。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を祝福する。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を受ける。」

今やこの約束が成就するときではないか。アブラハムが独り子イサクをささげたように、今度は神様が独り子である主イエスを犠牲にささげてくださった。そのことによって、アブラハムへの約束は成就したのだ。主イエスの十字架と復活によって、地上の諸国民はすべて祝福に入る。まことに「主の山に備えあり」。神様は思いもよらないところに道を開いてくださる。それこそが神のご計画ではないかと、だったらそのご計画を人は妨げてはならないのだと、ペトロは言うのです。

このペトロの言葉を聞いた人々は静まり返り、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美したと書いてあります。一件落着したかに見えます。ペトロを非難した人々が自分たちの非を悟って、丸く収まったかに見えます。

しかし、本当にそうなのでしょうか? 私はそうではないと思います。そして誰よりもペトロがそのことを痛感していたのではないかと思うのです。このとき、ペトロはエルサレム教会の変貌を痛感したに違いありません。割礼を受けている者たちがペトロを非難したと書いてありました。この「非難する」というのは大変強い言葉です。人々の面前で、なじったということです。ペトロといえば、かつては主イエスの一番弟子であり、十二使徒の中でも筆頭に位置する、押しも押されぬ教会の指導者です。そのペトロを公然と非難する人々がエルサレム教会に現れたのです。この非難の背後にあるのは、当時のエルサレムを席巻していたユダヤ主義的民族主義ですが、どうしてそのような人々が教会に出て来たかと言いますと、非常にさりげない描写ですが、6章の7節に、こんな描写がありました。

「祭司たちも大勢この信仰に入った。」

神殿に仕える下級祭司たちが、神殿貴族と言われた大祭司階級への反発からキリストを信じる信仰に入ったというのです。この大祭司階級への反発の背後にあったのがユダヤ主義民族主義、つまりユダヤ的な愛国主義でした。この人々が、エルサレム教会内で律法を重んじる民族主義的な派閥を形成して、徐々に大きな発言力を持つようになったのです。これはキリストの使徒としての霊的権威よりも、民族主義的な権威のほうが、今のエルサレム教会では優勢になっていたことを示唆しています。これはどういうことかと言いますと、教会が、霊的な指導者よりも世俗的な指導者を重んじ始めたということです。これは、じつを言うと、教会の自殺行為です。教会が教会でなくなってしまうからです。教会が教会でなくなったら、教会はいかにその組織や建物が残ろうと、もはや消滅したも同然です。さあ、この危機的な状況を、教会はどう乗り超えていくのか? それが使徒言行録の後半の眼目になってきます。

かつて、最高法院でガマリエルという学者がキリスト者たちのことを、こう預言しました。

「あの者たちの計画や行動が人間から出たものであるなら、放っておいても自滅するだろう。しかし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことは出来ない。」

もし教会というものが、人と人との交渉や合議のみによって進んで行くのなら、教会というのは、これは間違いなく消滅していたことでしょう。しかし、教会は主イエス・キリストを頭とするキリストの体です。神の畑であり、神の建物です。人の目には絶望かと思える、まさにそこから命を吹き返していく。私たちの教会だって、そうだったのです。イザヤ書43章に、こんな御言葉がありますね。

「昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。」

昔のこととは、ここでは律法と読むことが出来るでしょう。エルサレムの愛国主義に包囲されて、急速に律法遵守に傾斜していくエルサレム教会とは別の形で教会の御業が起こされていく。アンティオキアに教会が生み出されていきます。ペトロがエルサレム教会を出て行きます。迫害者であったサウロが、異邦人伝道へと召されていきます。バルナバがサウロをアンティオキア教会へ迎え入れます。まさに「主の山に備えあり」。人の思いやはかりごとを超えて、主の御業は進みます。その御業の果てに、今の私たちがあるのです。