聖書:イザヤ書43章1~4節・使徒言行録28章23~31節

説教:佐藤 誠司 牧師

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1章8節)

「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒言行録28章30~31節)

 

2年前の5月から読み継いできた使徒言行録が、今日の礼拝をもって終わります。書物を書く人というのは、誰しも、お話の終わり方にひときわ心を砕くものです。せっかく中身が素晴らしくても、終わりがつまらなかったら、どうでしょう。それだけで、もう、その書物の全体の印象が、つまらないものになってしまいます。

つまり、終わり方の印象が書物全体の印象を左右してしまうわけです。それほどに、書物の終わり方というのは大事なのです。優れた語り部であるルカが、そのことに気付いていないわけはありません。ルカは、福音書のラストでもそうでしたが、非常に印象深い仕方で、余韻を残す終わり方を試みています。その終わり方については、あとで述べるとして、まずはローマに到着したパウロについて、使徒言行録が語っていることを、少しお話ししてみたいと思います。

パウロという人は、非常に早くからローマへ行くことを望んでいました。それは彼が、まだ見ぬローマ教会の人々に宛てた手紙を見れば、分かります。その熱望ともいえる願いが、ついに叶えられたのです。しかし、それは、当初パウロが願ったような伝道旅行ではなく、皇帝の裁判を受けるための囚人護送という形で実現したのでした。しかし、パウロは、それを決して不服とせず、むしろ、自分に与えられた未決囚としての歩みの中で、いかに福音の前進のために働いて行けるか。パウロの願いと関心は、今や、その一点に注がれています。パウロ自身、手紙の中で、こう述べているとおりです。

「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進のために役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、多くの人に知れ渡り、主に結ばれた多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」

ローマに到着したパウロは、監禁生活の中で福音の前進のために働きます。囚人とはいえ、ローマ市民権を持つパウロは、番兵を一人つけられただけで、比較的自由な環境が与えられたようです。つまり、自分から自由に出かけられない代わりに、多くの人を招くことが出来たのです。さあ、パウロは、どういう人々を招いたことでしょうか? もちろん、パウロは、あれほど訪問することを熱望したローマ教会の人々を、まず招いたに違いありません。しかし、不思議なことに、使徒言行録は、ローマ教会の人々を招いたことよりも、ローマ在住のユダヤ人たちを招いたことに注目しています。これは何か訳があるに違いありません。ユダヤ人たちとの第一回目の会談の様子は、先週読んだ17節から22節にかけて記されています。パウロは彼らに向かって慎重に言葉を選びつつ、弁明を試みています。もちろん、自分のための弁明ではありません。福音のための弁明をパウロは試みるのです。パウロは言います。

「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖につながれているのです。」

これに対してユダヤ人たちから返って来た答えは、こうでした。

「わたしどもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟の誰一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。」

これを見ますと、ローマのユダヤ人社会が比較的穏健で、キリストの福音に対して先入観を持っていなかったことが分かります。彼らは、キリスト教のことを「この分派」と呼んでいます。彼らの中では、キリスト教は、あくまでユダヤ教の一分派なのです。

そこで、パウロは日を改めてユダヤ人たちを招きます。そして、朝から晩まで説明を続けたと書いてあります。この「説明」というのは、御言葉の解き明かしということです。ルカ福音書の24章、エマオの物語に同じ言葉が出て来ます。復活の主イエスが二人の弟子たちと歩みを共にしながら、御言葉を説き明かされる場面です。あそこに、こう書いてあります。

「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体に渡り、御自分について書かれていることを説明された。」

今、パウロは、あのとき主イエスがなさったのと同じことを、同胞のユダヤ人たちに向かって試みているのです。パウロもモーセの律法と預言者の書を引用して、イエスについて説得しました。昔「友情ある説得」というアメリカ映画がありましたが、今、パウロが試みている説得は、まさに、同胞に対する友情ある説得でしょう。パウロは第一コリントの中で、こう言っております。

「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。」

パウロという人は、ユダヤ人から散々に妨害を受けて、ユダヤ人への伝道を諦めて異邦人伝道のほうへ行ったように見られがちですが、これを見ると、決してそうではないことが分かります。やはり、同胞の救いがパウロの心からの願いだったのです。だからこそ、パウロは友情ある説得に努めるのです。

しかし、その努力は必ずしも報いられるとは限りません。これまでもそうでしたが、パウロの話を受け入れた人は、ごく少数であり、多くの人はパウロのもとから去って行きました。今回も、そうです。ある者は信じ、またある者は信じようとはしなかった。そして彼らはパウロのもとから去って行った。そのとき、パウロは彼らに向かって、こう言います。

「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に語られました。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らを癒さない。』だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」

この括弧でくくられた所は、イザヤ書第6章の御言葉です。イザヤが預言者として立てられて遣わされて行く場面です。「ここに私がおります。私を遣わしてください」とイザヤが言った。そのときに、神様はイザヤに、こう語れとおっしゃった。それがこの言葉です。あなたは人々が聞いても悟らず、見ても理解できないような言葉を語りなさいと、神様はそう言われたのです。これはイザヤが期待したことと正反対のことです。いや、イザヤだけではない。私たちも全く逆のことを期待するでしょう。あなたたちは人々が聞いて悟りやすい言葉を語りなさい。見て理解できることをしなさい、と、神様ならきっとそう言われるはずだと思っている。ところが、神様の御心はそうではなかった。聞いて悟らず、見て理解できないことを語れとおっしゃる。どうしてなのでしょうか? 私たち人間は、言葉を聞くとき、必ず自分の知恵や知識や経験に照らし合わせて聞こうとします。しかし、神様の言葉は、どうでしょう。知恵や知識、あるいは経験に照らし合わせて、理解することが出来るでしょうか? 出来ないでしょう? では、神様の言葉は、どうすれば、分かりますか? 詩編の46編に、こんな言葉があります。

「力を捨てよ、知れ、わたしは神。」

力を捨てるのです。力とは、知恵であり、知識であり、経験です。誇りであり、名誉であり、この世で賞賛される、ありとあらゆるもののことです。それらが力尽きて、徹底的に絶望したときに、神様の言葉が、人の魂に染み入って来るのではないでしょうか。パウロが託された福音の言葉とは、そういうものだったのです。その福音を、自分たちの聖書の知識や知恵、経験で聞こうとしたのがユダヤの人々でした。しかし、彼らは去って行きました。パウロは残されたのです。それはちょうど、舞台にパウロだけが一人残されたような印象を与えます。パウロはどうなるのでしょうか?

さあ、ここから使徒言行録は急転直下、ラストスパートをかけていきます。30節にこう書いてあります。

「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれと無く歓迎した。」

これを見ますと、パウロは二年後に皇帝による裁判を受けて裁かれたことが想像できます。その結果、どういう判決が下ったかについて、使徒言行録は沈黙を守っています。しかし、私たちがここで注目したいのは、ルカが「丸二年間」というふうに期間を限定していることです。期間を二年に限定した。ところが、続く31節は、様子が違うのです。こう書いてありますでしょう?

「全く自由に何の妨げも無く、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」

この「教え続けた」というのは「継続」を表す言い方です。そして、ルカが使徒言行録の最後に持って来た言葉が「妨げられず」という言葉です。これは、おそらく、ルカが万感の思いをもって用いた言葉なのでしょう。この言葉がラストに来ることによって、使徒言行録は非常に強いメッセージを最後に放つことになりました。「妨げられず」というのは、言い換えますと「中断されない」ということです。

先ほど、30節で、ルカは「丸二年間」というふうに、期間を限定しました。これによって、パウロの生涯が中断されたことを暗示しているのです。ところが、次の31節では、妨げられず、中断されることなく、教え続けたというニュアンスを添えている。これは「今に至るまで中断されていない」という強い意味合いを持っています。もちろん、これはパウロのことではないでしょう。パウロの後を継ぐ者たちによって、ということです。つまり、ルカの視線は、30節をもってパウロから離れて、31節ではパウロの後継者たちに注がれていることが、これで分かります。そして、使徒言行録はここで、私たち読者に、冒頭の主イエスの約束を思い起こさせます。第1章8節の言葉です。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

思えば、これは使徒言行録全体の主題を提示し、全体の構成を語る重大な言葉でした。実際、聖霊降臨以降の使徒言行録の構図は、この言葉にピタリと沿っています。エルサレムにおけるキリスト証言がペトロをはじめとする使徒たちによって成されます。これが第一段階です。そして次に、ユダヤとサマリア全土の伝道がアンティオキアに至るまでフィリポたちギリシア語を話すヘレニストたちによって成されていく。これが第二段階です。そして第三段階である異邦人への伝道が、はじめはペトロによって、次いでパウロによって成されていくわけです。しかも、興味深いのは、彼らの働きが分断されることなく続いて、前の人が撒いた種を後の人が刈り取っていることが分かります。パウロでいえば、パウロは自分が撒いた種を収穫したのではないですね。バルナバが撒いた種を刈り取り、ペトロが撒いた種を刈り入れています。こうして彼らは、キリストの証人となるという一点において一つとされて、地の果てに至る働き人とされている。

さあ、「地の果て」って、どういうことなのでしょうか? 多くの伝道者、宣教師が「地の果て」という言葉を使います。北陸にやって来た宣教師トマス・ウィンも、初めて金沢に足を踏み入れたとき、妻に向かって、「ここは地の果てではなかろうか」と語ったと言われます。この「地の果て」という言葉が誤解を生みまして、この宣教師はこの土地を僻地のように思っておるのかと反発する人々も現れたといいます。しかし、宣教師たちが「地の果て」という言葉を使ったことの背後にあるのは、この使徒言行録が伝える主イエスの言葉だったのです。では、主イエスが言われた「地の果て」とは、どういう意味なのか?

私は「地の果て」という言葉を聞くたびに、思い出す映画があります。それは木下惠介監督が演出した「喜びも悲しみも幾年月」という作品なんです。木下恵介という人はセリフの名人でして、例えばこんなセリフがあるのです。この映画は、戦前から戦中、戦後にかけての燈台守の夫婦の歩みを描いた作品でして、映画の冒頭、若い夫婦ですから、次から次へ転任の命令が下ります。しかも、その任地というのが凄い所ばかりなのです。港から仲間に送り出された夫婦は、沖合でやっと二人きりになります。そこで妻は初めて今まで言えなかった愚痴をこぼします。

「またこんな地の果てみたいな所じゃないの。」

すると、夫がやさしく妻を諭すのです。

「何言ってるんだ。平地の真ん中に立ってる灯台なんて、無いさ。どこだって地の果てさ。」

いかがですか? いいセリフでしょう? 同じ「地の果て」という言葉を使いながら、妻と夫では意味が全く違うのです。妻は文字通り「僻地」という意味で、この言葉を使いました。ところが、夫のほうは違います。闇に向かって光を投げかけるという「働き」の意味で、夫はこの言葉を使いました。だから彼は「どこだって地の果てさ」と言うことが出来たのです。

しかし、これは灯台の光だけではなく、福音の光についても言えることではないでしょうか。使徒言行録が語る「地の果て」とは、決して辺鄙な僻地ということではなかった。人の世の闇に向かって、福音の光が初めて投げかけられ、語られる所こそ、主イエスが言われた「地の果て」ではなかったか。ならば、現代の日本社会に生きる私たちもまた、地の果てに至るキリストの証人とされている。そのことに改めて気付かせてくれるのが使徒言行録なのです。その意味で、使徒言行録は2千年前のパウロたちと現代に生きる私たちをつなぐ福音のタイムトンネルだったのです。

「福音は妨げられず。」

ルカは使徒言行録の最後に「妨げられず」という言葉を置きました。ルカが万感の思いを込めて置いた言葉です。パウロの死を超えて、なお余りある感謝と恵みを、ルカはこの一言に込めたのです。パウロは一人、残されたのではありません。パウロに続く名も無い信仰者が、福音の光をかかげて歩みました。パウロがバルナバたちの撒いた種を刈り入れたように、私たちも先人の撒いた種を感謝をもって刈り入れています。

福音は妨げられず。主イエスの恵みを証しする地の果てまでの働きの中に、私たちも招き入れられています。その一点を心に刻み付けて、最後にもう一度、主イエスの約束の言葉を聞きましょう。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

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