聖書:詩編16編1~11節・コリントの信徒への手紙一15章1~11節

説教:佐藤 誠司 牧師

「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。体は安心して憩います。あなたはわたしの魂を黄泉に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。」(詩編16編7~11節)

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現われ、その後十二人に現れたことです。」(コリントの信徒への手紙一15章1~5節)

 

使徒パウロがコリント教会に宛てた手紙は、コリント教会で起こった様々な問題や課題にパウロが懇切丁寧に答えている手紙です。そういう切迫した状況で必要に迫られて書かれた手紙ですから、この手紙は書かれていることが具体的なのです。その具体的な勧めの中に、礼拝の秩序を形作ろうとした表現が出てまいります。これはパウロが意図したことではないかも知れませんが、これによって私たちは当時の礼拝の様子を垣間見ることが出来るわけです。その中に、こんな表現がありました。

「それぞれ詩編の歌をうたいなさい。」

それぞれ歌えと言うのですから、礼拝に集う人たち全員が詩編を歌うように読んでいたのです。当時の教会では詩編を讃美歌のように歌っていたのかも知れません。

そしてもう一つ、詩編をめぐって、当時の教会でしばしば行われていたことがあります。それは詩編の中にキリストを発見していくという営みです。当時はまだ福音書が成立していなかったという事情もあるのでしょうが、それを考慮しても、詩編が福音書のような働きを担っていたなんて、不思議な気がします。当時のキリスト者は、今よりもずっと柔軟で自由な発想で詩編を読んでいたのです。

今日読んだ詩編の16編も、初代教会の人々がキリスト賛歌として礼拝でしばしば歌った詩編です。

「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。体は安心して憩います。あなたはわたしの魂を黄泉に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。」

いかがでしょうか? 初代教会の人々ならずとも、主イエスの贖いの恵みに思いを馳せたくなるような詩編ではないでしょうか? しかも、当時の人々は、この詩編の中に復活の主の姿を発見して、最後の「右の御手から永遠の喜びをいただきます」というところを「永遠の命をいただきます」というふうに言葉を置き換えて復活の主を讃美したと言われます。

そしてもう一つ、この詩編の中に初代教会の人々の心を捉えた言葉があります。皆さんはそれはどこだと思われますか? 2節のカッコに閉じられた告白の言葉なのです。

「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸いはありません。」

これこそ、初代教会の人々のキリスト讃美を決定付けた言葉なのです。あなたこそ私の主、あなたのほかに私の幸いはない。これは他と比較を絶するという意味です。ほかにもいろいろな幸いがある中で、あなたは一番の幸いだというのではない。比較を絶する幸いを、この詩編は歌うのです。

パウロも同じように、比較を絶する幸いを語っています。パウロはそれを「最も大切なこと」という言い方で表しています。これも、ほかにいろいろ大切なものがある中で、これが一番大切だと言っているのではない。比較を絶するたただ一つの大切なことがあるのだとパウロは述べているのです。

パウロはこれまで、コリント教会で起きている様々な問題に福音の光を当てて語ってきました。またコリント教会の人々からの質問にも、福音の光を当てて、一つ一つ丁寧に答えてきたのです。ところが、15章に至って、パウロの語調は変わります。パウロはここで、襟を正してこれまで語ってきたことの根拠を述べている。私たちの信仰の根拠を述べている。すなわち福音そのものを語り始めるのです。

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。」

「もう一度知らせます」と言ってますでしょう? 皆さんは、どんな時に「もう一度言います」という言い方をなさるでしょうか? きっとそれは、相手が大事なことを忘れかけている時だと思うのです。パウロの場合もそうです。コリント教会の人々が、大事なことを忘れかけていたのです。それをパウロは思い起こしてほしいのです。だからパウロは襟を正し、居住まいを正して語りかけます。

「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」

これを見ますと、主イエスを信じて信仰の道に入りながら、福音に留まり得ないで脱落する人たちが少なからずいたことが解ります。パウロはきっと心を痛めていたに違いありません。だからパウロは、そういう人たちがもう一度礼拝に立ち帰ることを願って、信仰の原点を語り直すのです。

今、私は「信仰の原点」と言いましたが、キリストを信じる信仰というのは、明確な原点を持つ信仰です。しかし、その場合、注意しなければならないことがあります。原点という言葉を、私たちもしばしば使いますが、それは多くの場合、自分の中にある原点のことだと思うのです。例えば、あの試練の中でイエス様と出会ったのだから、あの試練が私の信仰の原点だとか、ミッションスクールに入ったのが原点だとか言いますね? 試練に遭遇したのも、ミッションに入学したのも私です。ですから、これらの原点は私の中にある原点と呼ぶことが出来ると思います。

けれども、これが本当に原点と言えるでしょうか? 自分の中にある原点は、必ず色あせる。試練は緊張感を失うでしょうし、ミッション入学は感激が薄まって、それと同時に信仰の喜びも色あせてしまう。これらは皆、自分の中にある原点です。

ところが、パウロが言う原点は違う。パウロの言う信仰の原点は私たちの中には無いのです。私たちの側ではなくて、あくまでキリストの側にある。パウロの中にだって無い。だから、パウロはローマ書の中で、こう述べている。

「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた。」

私がキリストと出会ったのが原点ではない。私がキリストの敵であった時に、すでにこのお方は私を選び、愛しておられた。だから、私の原点は私の中には無い。キリストの御業の中にこそ、キリストを信じる信仰の原点はあるのだとパウロは言うのです。

では、それはキリストのどのような御業であるのか? パウロはその一点を語っていきます。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」

ここにキリスト教信仰の急所が語られています。パウロは、自分は受けたことを伝えたに過ぎないと述べているのです。ここが大事なところです。伝道者というのは、自分が考え出したことを伝えるのではない。彼らは受けたことを、そのまま伝えてきたのです。パウロもこの手紙の11章23節で、次のように述べております。

「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。」

受けたことを、そのまま伝える。何も足さず、何も引かず、歪めず、誇張しない。だからこれは原点なのです。原点とは、いつでも誰でも帰って来れる所です。パウロはその原点を「最も大切なこと」と呼んで、今、コリント教会の人々に伝える。もう一度、伝えるのです。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現われ、その後十二人に現れたことです。」

パウロが言う信仰の原点。キリストの御業の中にある原点。敵であった時に、すでに備えられていた愛と恵みの御業。それは十字架と復活だったのです。パウロの言葉遣いに注意してください。「現れる」という言葉を何度も何度も繰り返し使っています。

「百人以上もの兄弟たちに同時に現れた」「ヤコブに現われ、その後すべての使徒に現われ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」

さあ、パウロはなぜ「現れる」という言葉を繰り返し語ったのか? そもそも「現れる」とは、どういうことなのか? 皆さんは「現れる」という言葉を、どのような意味でお使いになりますか? まず一番ポピュラーなのは「姿が現れる」という意味合いでしょう。ですから、私たちはパウロのここの言葉を読みながら、ああ復活の主イエスが弟子たちの前に姿を現してくださったのだなあと理解をします。これは正しい理解です。

ところが、パウロが使った「現れる」という言葉には、もう一つの意味が込められている。それは「姿」として現れるだけではなくて、「力」として現れるという意味合いです。つまり、復活のキリストは弟子たちの目の前に「姿」として現れただけではなく、彼らの人生の歩みの真っ只中に「力」として現れてくださった。そして、彼らの生き方を根底から変えてくださった。彼らだけではない。敵であった私の人生にも力をもって現れてくださった。そして私の生き方を根こそぎ、ご自分のものとしてゆかれた、と、パウロは告白しているのです。

パウロはそんな自分のことを「月足らずで生まれた未熟児」に譬えています。これは謙遜が言わせた言葉ではない。パウロは本気でそう思っていたのです。医学が未発達な時代です。月足らずで生まれた子供は、そのほとんどが死んでいたでしょう。少なくとも、生まれた瞬間、周りの人たちは皆「ああ、この子は死ぬ」と思ったに違いない。

しかし、人間とは、まさに死ぬ存在ではないでしょうか? その死ぬべき存在が生かされていく。それが本当の人間ではないか? ならば、人はすべて月足らずの赤子ではないか? 死ぬしかない命が選ばれて、救われ、愛されて、生かされる。だから、生かしてくださったお方に感謝して、二度目の人生を生きる。息を吹き返した未熟児のように、命をもう一度受け取りなおして、生きる。それがキリスト者の生き方の真相ではないかとパウロは言うのです。

だから、パウロはここから急に生きなおして生きてきた自分の歩みについて語り始めます。敵であった頃の自分を語り始めるのです。

「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちの無い者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」

値打ちの無い者が、価のある者とされて、もう一度、生かされて生きる。恵みによって生きる。それがキリスト者の生き方ではないかとパウロは言うのです。だから、主の恵みがその人を生かす。生かして生かして、生かし抜くのです。そのことをパウロは次のように言います。

「そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、じつはわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」

これを読みますと、キリストの福音を語ることは、決して客観的な他人事でないことが解ります。パウロは信仰の原点である十字架と復活の福音を語り始めたのでした。ところが、どうでしょう。パウロは福音を語るうちに、いつしか、自分に現れた主の恵みについて証しを語り初めています。私が今日あるのは、神の恵みによるのだと声をつまらせながら語っている。福音を語る者が、いつしか福音に引き込まれて、証しを語っている。

これが福音の力です。福音を聞いてきた私たちも、すでにこの福音の中に引き込まれて、証し人として生かされています。なんという大きな恵みでしょう。

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
9月17日(日)のみことば(ローズンゲン)

「恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたはわたしの証人ではないか。」(旧約聖書:イザヤ書44章8節)

「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。」(新約聖書:ルカ福音書21章14節)

主イエスが弟子たちに求めておられるのは、弁明ではなくて、証しです。弁明というのは、ただの言葉なのです。ところが、証しというのは違います。もちろん、言葉による証しもあるのですが、言葉以上のもの、つまり、その人の生き方とか振る舞いのすべてを通して、ああ、神様は本当にこの人と共におられるのだなあと、敵対者にも分かってくる。そういう生き方や振る舞いのことを、初代教会の人々は証しと呼んだのです。

ですから、キリスト者にとって証しというのは、言葉による弁明とは違う。その人が何を喜びとして生きているか、何に望みをつないで生きているか、何を祈っているか。神様が共にいてくださることを、どんな境遇でも信じているか、それが伝わっていく。敵対者にも伝わっていく。それが証しだった。主イエスはそれを求めておられるのです。