聖書:詩編51編12~14節・使徒言行録2章1~13節
説教:佐藤 誠司 牧師
「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」(使徒言行録2章1~4節)
聖霊降臨日・ペンテコステを迎えました。過越しの祭りから七週間後の、五旬祭と呼ばれるユダヤ教の収穫の祭りの日。これは主の復活日から数えて50日目に当たるのですが、その日、一同が一つになって集まっていたと書いてあります。彼らは「心を合わせて熱心に祈っていた」と書いてあります。つまり、彼らはすでにユダヤ教のシナゴーグではありえない、独自の交わりを形成しつつあったことが分かります。
場所はどこであったかと言うと、弟子たちが泊まっていた家の二階の部屋であったと思われる。おそらく、これはルカ福音書22章の出て来た「最後の晩餐」が行われた二階の部屋であったと思われます。つまり、弟子たちは、主イエスと最後の食卓を囲んだ家に寝泊りし、その食卓を囲んで集まっていたことが、ここから分かります。彼らの中心に、主がパンを裂き、杯を手渡してくださった食卓が常にあったということです。これは大事な意味を持つことだと思います。さあ、2節からは、聖霊降臨の有様が語られていきます。
「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」
それは風のようであったと書かれています。風は目には見えません。しかし、風がもたらす力は耳に聞こえます。主イエスの言葉が思い起こされます。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」
このあと、主イエスは、こう言っておられたでしょう?
「霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
聖書、特に旧約を読みますと、「風」という言葉と「霊」という言葉、そして「息」という言葉が重なって出て来ることに気付かされます。聖書の原文では「風」と「息」、「霊」というのは、同じ言葉なんです。「霊から生まれる」と主イエスはおっしゃいました。今、弟子たちの上に起こりつつあるのは、まさにそういうことです。弟子たちの群れが、霊から生まれようとしている。続いて、3節には次のように書いてあります。
「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」
先ほどは、耳に聞こえてきたと言われていましたが、今度は目に見えたのだとルカは言うのです。「炎」というのは、何を表しているのかと言いますと、出エジプト記第3章にモーセが神の山ホレブで神と出会う場面で、燃える芝が出てきますね。炎が燃え尽きないのです。あの炎は神の現臨を表すものとして、その後も聖書に繰り返し出て来ます。そして「舌」というのは、言葉のことなんです。その言葉の象徴である舌が分かれ分かれになって現れて、一人一人の上にとどまった。それは、まさに、新しい言葉が神の現臨によって、弟子たち一人一人の上にとどまったということです。
このように、ルカは、聖霊降臨は、まず耳に聞こえて、次に目に見えたと語ります。聖霊そのものは、耳にも聞こえないし、目にも見えないでしょう。しかし、聖霊の働きは耳に聞こえるし、目にも見える。だから、ルカは、このあとで「聖霊」という言葉を出して来るのです。4節です。
「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」
ルカはここで初めて、2節と3節で述べてきた不思議な現象が聖霊によって引き起こされたことなのだと語ります。そして、ルカは非常に慎重に「聖霊」と「言葉」を結び付けています。
さて、聖霊降臨といえば、ルカのこの不思議な表現に戸惑いを覚える人が多いのも事実です。確かに、2節、3節の表現などは、人知をはるかに超えて、まことに不思議であり、説明不可能のようにも思えます。しかし、まさにその人知を超えた不思議さの中に、教会誕生の真実は隠されているのではないでしょうか。どういうことかと言いますと、人知を超えるというのは、とりもなおさず、神の御業ということです。つまり、ルカが聖霊降臨の物語によって語っているのは、教会とは純粋に神様の御業によってこの世に誕生したのだという、その一点ではないでしょうか。
さて、一同は聖霊に満たされて、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で語りだしたと書いてありました。すると、この大きな物音を聞きつけて、エルサレムの人々が集まってきます。五旬祭はユダヤ教の大きな祭りですから、地中海世界に散らされていたユダヤ人たちが、エルサレム巡礼に帰ってきていたのですが、この人たちはユダヤ人ではありますが、日常生活にはヘブライ語ではなく、その住んでいる国の言葉を話しているわけです。彼らは、このキリストを信じて一つ家に集まっている人たちが、自分の故郷の言葉を話しているのを聞いて、ビックリ仰天します。しかも、彼らがさらに驚くのは、このガリラヤの人たちが自分たちの故郷の言葉を話しているに留まらず、彼らが皆、神の偉大な御業を語っていたからです。これはどういうことかと言うと、神の御業がその国の言葉に突入してきたと言いますか、その国の言葉を神の御業を語る言葉へと造り替えていくということです。
言葉の背後には、その国の考え方や民族の文化や習慣があるわけですが、神の御業がその国の人々の考え方や民族の思考の様態までを変えていく。神の御業がその国の言葉そのものを変えていくのです。ですから、ここで人々が驚いているのは、自分の国の言葉が、こんなにも生き生きと神の偉大な御業を証しする器として用いられている、そのことに驚いているのです。
つまり、使徒言行録はここで何を語っているかと言うと、これから先、これらの国の文化、習慣、考え方そのもの中にキリストの福音が突入していって、その文化や習慣、考え方をまるごと、神の偉大な御業を語る言葉にしていく。その中に、今、使徒言行録を読んでいる、あなたの国も含まれているのですよと、語りかけているのです。
言葉が変えられていく。言葉が本来の姿を取り戻していく。そういうことが起こるのだとルカは語る。そういえば、ルカは福音書の最後を、次のように締め括っておりました。ルカ福音書24章の53節です。
「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」
じつを言いますと、この少し前の50節に「主イエスが手を上げて弟子たちを祝福された」という表現が出て来るのですが、主イエスが弟子たちを祝福なさった。この祝福するという言葉と、弟子たちが神をほめたたえた、という言葉は、聖書の原文では全く同じ言葉が使われております。それを日本語に翻訳する際に、人間である弟子たちが神様を祝福したというのは、どうも違和感がありますので、「神をほめたたえた」と訳したのです。しかし、ほめたたえるという翻訳も、祝福するという翻訳も、じつは意訳でありまして、この言葉の本来の意味は「よい言葉を語る」ということです。
主イエスが弟子たちに「良い言葉」を語ってくだされば、それが祝福の言葉となり、弟子たちが神様に向かって「良い言葉」を語るとなれば、それは当然、ほめたたえの言葉になった。そういう理解から新共同訳はこのように翻訳したのです。これは間違ってはいないと思います。けれども、私は、ここにはやはりルカ独自の主張があるように思います。ルカは福音書の最後で、使徒言行録の聖霊降臨の出来事を予告しているのです。さあ、主イエスが良い言葉を語り聞かせてくださることによって、弟子たちが語り始める「良い言葉」とは、聖霊降臨によって、教会に与えられる新しい言葉のことです。やがて世界の言葉をも造り替えていく、新しい言葉。本来の言葉です。ではその新しい言葉、本来の言葉とは、どういう言葉なのでしょうか?
創世記の11章にバベルの塔の物語がありますが、あれは人間が本来の言葉を喪失していく物語です。あの物語は、うっかり読みますと、神様が傲慢な人間を罰するために言葉を混乱させて、様々な言語を与えてしまわれたというふうに読んでしまう。すると、様々な言語があるのは神の罰なのかということになってしまうわけです。
しかし、本当はそうではないですね。神様が言葉を混乱させる前に、すでに彼らは本来の言葉を失っていたのです。神様は、本来の言葉を喪失した人間をご覧になって、人間同士の言葉の土台になっているものを乱された。言葉を乱したのではなく、言葉の土台を乱されたのです。では、言葉の土台って何ですか? 言葉って心の現われでしょう? その心を一つにすることが出来なければ、言葉は通じても心は通じない。だから、使徒言行録には「彼らは心を合わせて熱心に祈っていた」とか「一同は一つになって集まっていた」と書いてあるのです。
では、心と心は、いったいどこで一つになればよいのか? 本来の言葉とは、どういう言葉なのか? そこが肝心要になってまいります。創世記というのは、その点を、とてもしっかりと語っておりまして、11章のバベルの物語が人が本来の言葉を喪失していく物語であるなら、その前に「これが本来の言葉ですよ」という物語をちゃんと語っているのです。それは創世記第2章7節の人間創造の物語です。こう書いてありますね。
「主なる神は、土の塵で人を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
さあ、「ここにも「息」という言葉が出て来ております。まさに「神の息」ですが、これが聖霊です。人間というのは形だけではダメなのです。神様が命の息、すなわち聖霊を吹き込んでくださることによって、人は初めて人となった。こうして人は生きる者となったのです。この「生きる者になった」というのは、単に生物学的な意味で生きる者となったということではありません。この「生きる者になった」というのは、神様に返事をする者となったということなのです。創世記によれば、人が言葉を使うのは、ここからです。ここから分かりますのは、本来の言葉というのは霊的なものだということです。神様に返事をするのが本来の言葉です。しかし、言葉で返事をするためには、まず心と生き方が神様のほうに向いていないといけません。心と生き方が、言葉を変えていくのです。返事をする言葉へと変えていく。そしてもう一つ、神様に返事をするためには、神様の呼びかけ、語りかけを聞いていなければなりません。創世記第2章7節は、そういうことを語っています。神が命の息、すなわち聖霊を吹き込んでくださって、人は神様に返事をする言葉と心、生き方を獲得した。それを喪失したのがバベルの出来事であったわけです。
しかし、今や聖霊降臨の出来事によって、人は本来の言葉を回復しました。心を一つにして互いに祈り合う、その交わりの中で、それは起こりました。神の恵みに応えていく生き方と心の上に、神様に返事をしていく霊的な言葉が与えられ、その神の御業を喜んで語る言葉が、地中海世界の多くの言語を造り替えて、今や海を越えて、この日本にも届いている。これこそ神の偉大な御業であると思います。私たちは、その御業を日本の言葉で讃美します。その感謝と賛美が、私たちの言葉と生き方、心をさらに造り替えて、私たち一人一人と、私たちの教会を、神の恵みを映し出す鏡としてくださる。聖霊降臨とは過去の出来事ではありません。今に至る神の御業、神の偉大な御業なのです。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
5月19日(日)のみことば
「あなたの贖い主、あなたを母の胎内に形づくられた方、主はこう言われる。わたしは主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた。」(旧約聖書:イザヤ書44章24節)
「あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」(ルカ福音書11章39節)
主イエスが言われた「強欲」というのは、なかなか意味深長な言葉です。もともとは「むさぼり」という意味のあった言葉なのです。「むさぼり」と聞けば、以前の口語訳聖書に親しんでおられる方は、十戒の十番目の戒めを連想なさるかも知れません。口語訳聖書では「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」となっていました。これは、やはり口語訳のほうが正確です。
それにしても、十戒はまことに興味深いことを語っていると思います。ここに先立つ第八番目の戒めで「盗んではならない」と盗みを禁じているのです。その上で「隣人の家をむさぼってはならない」と言う。つまり、十戒は「盗み」と「むさぼり」を分けて考えているのです。そこが十戒の大事なところです。「盗み」というのは目に見える行為です。しかし、「むさぼり」は違います。決して目には見えません。しかし、よく考えると「むさぼり」の心が盗みを生み出していることが多いのです。では、その「むさぼり」とは、どういうことなのか? 不正に欲しがることなのです。隣人のものを不正に欲しがる。それが「むさぼり」です。そして、「むさぼり」にはもう一つの意味がある。それは、神のものを自分のものとする、という意味です。おそらく、聖書が語る「むさぼり」は、こちらの意味のほうが多いのではないかと思います。本来なら神のものであるべきものを、横取りをして、自分のものとしてしまう。これが聖書が言う「むさぼり」です。