聖書:創世記28章10~19節・コリントの信徒への手紙二1章3~5節
説教:佐藤 誠司 牧師
「見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしはあなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。』ヤコブは眠りから覚めて言った。『まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。』」(創世記28章13~16節)
今日は創世記の28章、アブラハムの孫であり、イサクの息子であるヤコブの物語を読みました。ヤコブはお父さんのイサクとまるで正反対の性格です。イサクという人は穏やかで、争いを好まない。人が無理を言って来ても、譲ってしまう。そういう人でしたが、ヤコブはそうではない。人のものまで奪い取ってしまう。いわゆる悪い奴なのです。
彼には双子の兄弟がありました。お兄さんはエサウという名ですが、このエサウが当然、お父さんの跡を継ぐはずだったのですが、それを出し抜いて、お父さんの目が悪くなっていたのを良いことに、お兄さんになりすまして、エサウが受けるべき祝福を受けてしまった。
このように、ヤコブという人は、とんでもない人物ですが、聖書は意外なことを語っています。それはエサウとヤコブがまだ母の胎内にいる時から神様はヤコブを選んでおられたのだと、私たちから見れば不思議に思えることを聖書は語っています。なぜ、神様は竹を割ったようなエサウではなく、悪者のヤコブを選ばれたのか。ここがまず疑問として浮かび上がります。そこで、今日はぜひ、この疑問を心に留めながら、ヤコブの物語を味わっていただきたいと思います。
今日読んだ箇所は、ヤコブの物語のごく一部です。一部ではありますが、ヤコブという人の人生の原点となった大事な出来事が語られています。お兄さんを裏切り、お父さんを騙して神様の祝福を手に入れたヤコブですから、当然ながらエサウは激怒します。お父さんが生きているうちは、まだこらえていますが、お父さんが死んだらヤコブを殺そうと。それほどまでに怒りが燃え上がった。それでお母さんのリベカが心配して「ここにいたら危ないから、逃げなさい」と言う。それでお母さんの里であるハランに、ラバンという叔父さんを頼って行けと言って送り出した。そのハランに行く途中の出来事が、今日読んだ箇所で語られています。
道に行き暮れて、ただ独り、石を枕にして、ヤコブは野宿をします。わびしい限りです。叔父を頼って行くとはいえ、叔父さんが生きているかも分からない。生きていても、歓迎してもらえるか全く保証の限りではない。いや、途中で野垂れ死にするかもしれないのです。そういう旅をしている時に、彼は夢を見た。正確に言えば、夢の中でヤコブは一つの経験をしたのです。私たちからすれば、「なあんだ、夢か」という言い回しもあるように、夢は経験には入れません。ところが、聖書はそうは考えない。聖書は夢を一つの経験にカウントします。なぜか。夢を通して神様はお語りになるからです。この時のヤコブが、まさにそうでした。彼は夢の中で先端が天に達する階段が地に向かって伸びており、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしているのを見ます。すると、主が傍らに立って、こう語りかけたのです。
「わたしはあなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。」
ヤコブはビックリ仰天します。主なる神様は続けてこう言われます。
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
今、ヤコブはハランに行くという考えはあるものの、先方に受け入れてもらえるかは定かではないし、途中でどんな目に遭うかも分からない。文字通りの流浪の身です。そういう旅をしている時に「わたしはあなたと共にいる」「あなたを決して見捨てない」「わたしはあなたを守る」という約束を受けた。しかも、これらはすべて無条件の約束です。
これがヤコブの原点になりました。ヤコブの波乱に満ちた生涯を支え続けた出来事です。素晴らしいことです。ところが、この約束の言葉を受けたヤコブが、夢から覚めた時、何と言ったでしょうか。彼は、こう言ったのです。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
神様が共にいてくださるなど、思いもよらなかったと正直に述べているのです。これは私たちにも解ります。境遇から言っても、場所から見ても、今のヤコブはどん底であり、ここに神様がおられるなどとは思いも及ばない。皆さんも、大変な苦労をして、独りで不安や恐れの只中にある時、神様が共におられるなんてことは、なかなか実感することが難しい。そういうことは、あるのではないかと思います。
しかし、本当は神様はおられた。共におられたのです。自分独りだと思っていたヤコブと共におられた。私は、こういうところに聖書の大事なメッセージが湧き出ていると思います。どういうことかと言いますと、私たちが心満たされて、「ああ、神様は共にいてくださるのだなあ」と思っているから神様はおられるのではない。私たちが、こんな所には神様おられないと思っている。あるいは、こんな時に神様は共におられるわけがないと思っている、その時、その場所に、私たちの思いに関わらず、神様はおられる。共におられる。私たちの思いに関わらず、神様は共にいてくださるというのは、厳然たる事実です。ですから問題は、神様が共におられるかどうかではなくて、それを私たちが信じるか信じないかという事です。
このことがヤコブには思いもよらないことだった。思いが及ばなかったのです。その思いが及ばない心の隙間に、神様は割って入って来られた。そして、「わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを見捨てない」と言って、ご自身を現わしてくださった。この出来事がヤコブの原点となって、ここからヤコブの新しい歩みが始まって行きます。
しかし、それならこれ以降のヤコブの人生は悩みが無くなったかというと、全くそうではありません。むしろ悩みと苦しみの連続のような人生を彼は送るわけです。今日は読みませんでしたが、29章から、ずっとヤコブの話が続きます。叔父のラバンの所に無事行き着いたのですが、そこでこの叔父さんにヤコブは騙されてしまいます。かつてお父さんを騙し、お兄さんを騙したヤコブが、反対に騙されたのです。ヤコブの話を読んでいますと、本当に人間臭いと言いますか、私たちの身の周りにある世の中というものを見せられているような感じがします。騙したと思ったら騙される。しかも、ヤコブは騙されたと言って大いに憤慨するのですが、自分がかつて親兄弟を騙したことは忘れてます。
そうこうしながらもヤコブは結婚し、家族が出来て、家畜も増えます。順風満帆のように見えますが、どうも叔父のラバンとの仲が思わしくない。ラバンはヤコブの妻ラケルの父親ですから、ラバンと仲たがいするのは具合が悪いのです。
すると、神様が「故郷に帰りなさい」と言われる。それでヤコブは決心をして故郷に帰るのですが、さあいよいよ故郷へ帰るその途中で、今まですっかり忘れていて、もうあまり心の痛みでもなくなっていた過去の出来事、自分がかつて兄さんを騙したというあの出来事が、何十年かの時を隔ててヤコブの大問題になって浮上してきます。あの時、兄さんは私をぶち殺すと言って激怒したけれど、今の兄さんは私に対してどんな思いを持っているだろうかと、ヤコブはそこが心配だったのです。故郷に帰れば、嫌でも兄さんと対面しなければならない。
そこでヤコブは使いを送って、兄さんに「弟ヤコブが帰ります」と挨拶をさせました。反応を見ようとしたのです。使いが帰って来て、兄さんの返事をもたらします。すると、なんと400人の僕を引き連れて弟を迎えに行くと言うのです。400人もの家来を連れて迎えに来るということは、きっとこれは仕返しに来るに違いないとヤコブは考えた。ただ喜んで歓迎するのなら、400人もの家来は要らんだろうと。これはきっと自分たちを皆殺しにするつもりだろうと。そう思ったのです。
そこでヤコブは策を弄します。自分の家畜を幾つにも分けて先に行かせて、まず家畜の群れとエサウを会わせるわけです。エサウが「この家畜は誰のものか」と尋ねて来たら、僕に「これはヤコブの家畜で、エサウ様にお土産として持って行くのです」と答えさせる。このやり取りを、家畜の群れの数だけ繰り返すのです。すると、貰える家畜がどんどん増えていくわけですから、次第にエサウの心も和むだろう。その上でヤコブはエサウと会おうと、そういう作戦を立てました。全く抜け目がありません。
しかし、それでもヤコブには不安が残る。そこで家畜の次は家族を分けた。奥さんが4人いましたので、子供たちも含めて、それを二つのグループに分けた。そして、こっちがやられたら、あっちへ逃げるというふうに、あらゆる手段を使って身の安全を計りました。
しかし、どうでしょう。こういう作戦・算段というのは、いくら巧みに張り巡らせても心の平安は得られるかといえば、決してそういうことではない。ヤコブもやはり、そうでした。ついにヤボクという川の渡しを渡る時に、彼は家族みんなを先に渡して、自分一人が残って、祈ったのです。
しかし、それで心に平安があったかと言うと、そうではなかった。ますます不安が募って来る。ヤコブは、石を枕にして野宿をした時、大きな経験をしました。「わたしはあなたと共にいる」「わたしはあなたを見捨てない」という約束を受けました。しかし、だからと言って、不安が無くなるわけではなかった。私は、こういうヤコブの姿を見ていますと、これは本当に信仰生活の実態を見せられる思いが致します。私たちは、人のことだと「祈りなさい」とか「委ねなさい」とか言いますが、なかなかそうはいかんのだということが、実際に大きな悩みの中にある人にはあると思うのです。そんな時、どうすれば良いだろうかと言うと、これはもう祈るしかない。
ヤコブは祈りました。この先、もう一歩踏み込んだら、兄エサウの土地だという、まさに土壇場で、ヤコブは祈った。「神様、もう動けません。どうしても、この川を渡ることは出来ません。助けてください」と祈ったんです。
すると、何者かが現れて、ヤコブと格闘したと書いてあります。これが人なのか、それとも御使いなのかは分かりません。ただ分かっているのは、この人がヤコブと夜通し格闘したことと、この人はヤコブを祝福することが出来たということです。やがて、夜明けが近づくと、この人は「去らせてくれ」と言いますが、ヤコブは答えます。
「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」
すると、この人はヤコブを祝福し、ヤコブは、どうしても超えられなかった川を、渡ることが出来ました。
私は、このヤコブの物語は神の祝福というものの本質を見事に現わしていると思います。ヤコブという人はお父さんのイサクとは違う、ある意味、罪深い人間です。しかし、神様は、そんなヤコブを母の胎にいる時から選び分かち、祝福されました。しかし、その祝福は、喩えて言えば植物の種のようなものです。まだ芽生えてはいないし、実を結んでもいないのです。しかも、ヤコブは長じて、親兄弟を騙す、とんでもない人間になった。しかし、神様は、こんな男は私の祝福に値しないと言って見離したりはなさらない。「わたしはあなたを決して見捨てない」と言われたとおり、ヤコブを見捨てず、むしろ、彼を祝福を受け継ぐ者にするために、神様は人を騙したら騙される、それがいかに人の健やかな命を損なうかということを、一つ一つヤコブに経験させておられるのです。
ですから、彼がこうして苦しんで苦しんで生きて行っているという事こそ、じつは神様の祝福の現われだったのです。「わたしは決してあなたを見捨てない」「あなたがどこへ行っても、わたしはあなたと共にいる」という祝福は、こうして多くの苦しみを味わうヤコブの人生の中で、やがて芽生えて、実を結んで行きます。
しかし、それで終わりではなかった。ヤコブは、その人生の最後に、大きな悲しみを経験します。自分がいちばん愛していた末の息子ヨセフを、兄たちが寄ってたかって奴隷に売り飛ばした。しかも、兄たちは罪を逃れるために、弟ヨセフは野獣に食われて死んだのだとお父さんに報告した。息子たちに騙された、裏切られたわけです。かつて兄を裏切り、父を騙した、そのことが今になって自分に降りかかってくる。そこには、やはり神様の裁きがあります。これを因果応報というふうに受け止める人もあるでしょう。確かに一見、そのように見えるのです。しかし、そのもっと奥に祝福がある。私たちは、そこに注目したい。因果応報に祝福はありません。
さて、涙も涸れるかと思うほど泣いたヤコブに、死んだと思っていたヨセフが生きている。エジプトで国を治める偉い身分となっていて、飢饉で生きていけないという時に、エジプトから迎えがくる。こうして神様はヤコブの苦しみや悲しみを用いて、御自分の祝福の実りを実らせていかれる。
私たちもいろいろな悩みに遭いますし、悲しい出来事にも遭います。しかし、それらを通して本当の祝福が実を結んでいく。私たち信仰者の歩みとは、そういうものだと思います。ヤコブの物語は、そういう本物の祝福があるのだということを私たちに教え、そこへと招いているのだと思うのです。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
2月18日(日)のみことば
「地の果てまで、すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。」(旧約聖書:詩編22編28節)
「預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしている者は黙りなさい。」(第一コリント書14章29~30節)
コリント教会はパウロが基礎を据えた教会ですが、霊の賜物に恵まれた人が多く、霊の働きを重んじるあまり、霊的熱狂主義に走る恐れがあったようです。パウロ自身は霊の働きを重んじていました。しかし、霊的熱狂主義が礼拝(集会)の秩序を乱すことに危惧を覚えていたようです。それは今日の新約の御言葉にも現れています。おそらく共に集まった人々は座って詩編を歌うように読んでいたのでしょう。そのあとの黙想のときに、啓示が与えられた者が立ち上がって預言の解き明かしを始めたのです。
しかし、いくら聖霊に導かれて自由にキリストを証しするといっても、無理な拡大解釈が起こらないよう他の者たちは語られた預言の言葉を検討しなさいとパウロは言うのです。しかし、時折、こういうことが起こった。先に啓示を受けて預言を語りだした人がまだ語っている途中で、別の人が啓示を受けて語り出したら、どうすれば良いか? パウロは意外にも、こう言うのです。
「先に語りだしていた者は黙りなさい。」
普通だったら、先に語りだした人が話し終わってから次の人が語りなさいというのが常識と思えるのに、先の人が黙りなさいとパウロは言うのです。どうしてなのでしょうか? じつはパウロの言う「黙りなさい」という言葉の本当の意味は「聞きなさい」ということなのです。