聖書:イザヤ書40章1~11節・使徒言行録20章25~38節
説教:佐藤 誠司 牧師
「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」 (イザヤ書40章7~8節)
「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところに入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることが出来るのです。」 (使徒言行録20章29~32節)
使徒言行録の学びも、いよいよ終盤に差し掛かりました。これからは、パウロのエルサレム行きとローマ行きが語られていきます。これまで、パウロは、自分の意思で伝道旅行に出かけておりました。ところが、最後のエルサレム行きとローマ行きは違います。自分の意思ではなく、強いられて行くのです。先週読んだ22節に、こう書いてありました。
「そして今、わたしは、霊に促されてエルサレムに行きます。」
この「霊」というのは、もちろん、聖霊のことなのですが、「霊に促されて」というのは、直訳しますと「霊に縛られて」となる。とても強い言い方なのです。霊に縛られて、エルサレムへ行く。これはヨハネ福音書21章の、復活の主がペトロに言われた言葉を思わせます。あのとき、主イエスはこう言われたのです。
「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
この「他の人に帯を締められ」というのが、じつは「縛られて」ということなのです。今、パウロは霊に縛られて、つまり、聖霊に帯を締められるようにして、エルサレムに連れて行かれる。自分の意思ではない。神様のご意思によって、どうしても、エルサレムへ行かなければならない。
さて、パウロたちはエルサレムを目指して船旅に出ます。一行を乗せた船はエフェソには寄らずにミレトスの港に直行します。そのミレトスの港に、パウロはエフェソ教会の長老たちを呼び寄せるのです。エフェソといえば、パウロのアジア伝道の中心となった町ですが、それと同時にパウロが大変に苦労をした、伝道の難しい町でもありました。
パウロ自身の手紙を見ますと、パウロは第一コリント15章32節で「エフェソで野獣と戦った」と述べています。また第二コリントの1章でもパウロは「アジア州で蒙った苦難」について「生きる望みさえ失った」とまで語っています。エフェソの伝道がいかに大変だったかが、これで分かります。パウロが今回、エフェソを避けて直接ミレトスに行ったのも、おそらく、危険を回避するためであったと思われます。思わぬ時間をとられたくなかったのです。しかし、エフェソ教会の長老たちには、どうしても言い残しておきたいことがある。だから、パウロは、わざわざ長老たちを呼び寄せたのです。おそらく、長老たちは、すべてを打ち捨てて、ミレトスへ駆けつけたことと思われます。港にある、小さな家で、小さな集会が開かれました。旅立つ者と残る者とが、共に讃美をなし、祈りをささげ、そして御言葉を聞いている。私は、これは教会の姿、礼拝の姿そのものではないかと思います。どこの教会、いつの時代の礼拝でも起こっていることです。キリスト教会の礼拝は、その最初の時代から、別れの要素があったのです。旅立つ人と残る人とが、別れを前にして、一つの御言葉に与るのです。パウロは言います。
「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことが出来さえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」
これは必死の覚悟というものではない。罪赦され、伝道者として立てられた者が歩む、当たり前の道です。「恵みの福音」とパウロは言っております。恵みとは、いただいたものということです。誰からいただいたのでしょうか? 神から、主イエスからいただいたのです。いただいたから、分かち合う。分け合う。共に一つの福音に与るために、そうするのです。パウロは言葉を続けます。
「そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して、御国を宣べ伝えたのです。」
「もう二度と顔を見ることがない」というのは、これでお互い、二度と地上で会うことはないということです。つまり、パウロは、死ぬことをハッキリ見つめているのです。パウロだけではありません。長老たちにも、それは分かっている。パウロがエルサレムに行く。そのこと自体に、死の予感を、彼らは感じ取っていたと思います。パウロの言葉は、続きます。
「だから、特に今日、はっきり言います。誰の血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神のご計画をすべて、ひるむことなく、あなたがたに伝えたからです。」
もう亡くなりましたが、東京神学大学の松永希久夫学長が、私たちの学年の卒業前に、この個所で説教をなさったのを、覚えています。松永先生は、いきなり、こう切り出したのです。
「あなたたちは、遣わされた教会に対して、何ら責任がない。」
ビックリしました。驚く私たちを尻目に、松永先生は言葉を続けました。
「これから先、あなたがたも、教会を去っていくときが必ず来る。けれども、残していく人たちに、あなたがたは何ら責任がない。責任は教会の主であるイエス・キリストが負ってくださる。だから、ひるむことなく、御言葉を語りなさい。余すところなく御言葉を取り次ぎなさい。あなたがたは御言葉に対して責任があるからです。」
さて、28節からは、ひるむことなく御言葉を伝えたパウロだからこそ、言える言葉が続きます。
「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。」
あなたがた自身に気を配りなさいとパウロは言うのです。これ、どういうことかと言いますと、聞いているのは教会の長老たちでしょう? その長老たち自身が、まず、御言葉に養われているかどうか、そこにまず気をつけなさい、とパウロは言うのです。長老たち自身が、御言葉を聞いているか。御言葉に生かされているか。御言葉に養われているかです。御言葉に養われていない長老が、いくら大勢寄り集まっても、群れに気を配ることは出来ないからです。
ここに「群れ」という言葉が使われております。これまでにも何度かお話ししましたが、聖書に出て来る「群れ」という言葉は、羊の群れという意味なのですが、ただ複数の羊が群れているだけでは、群れとは言わない。羊が群れているから、群れなのではなくて、その羊たちが一人の羊飼いに養われている。その養われている羊たちのことを、聖書は「群れ」と呼んだ。だから、詩編の100編に、こんな御言葉があります。
「わたしたちは主のもの、その民。主に養われる羊の群れ。」
また、ヨハネ福音書10章16節に、こう書いてあります。
「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
一人の羊飼いとは誰のことですか? もちろん、主イエス・キリストのことですね。この群れ全体に気を配るためには、長老たち自身が御言葉に養われていることが、どうしても必要なのです。だから、パウロは続けて言います。
「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」
神の教会という言い方は、パウロらしい言い方です。パウロは、あの問題だらけのコリント教会のことを「コリントにある神の教会」と呼びました。決してあなたがたの教会とは言わない。教会は神様のものだからです。その神様が独り子の十字架の死という尊い犠牲を払って御自分のものとなさった。その教会の世話をさせるために、神様があなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのだとパウロは言うのです。
そして、29節から、パウロは、自分が去ったあと、教会を襲う試練について語っています。
「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところに入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」
これを読んで分かるのは、教会を襲う試練というのは、教会の外から来るのではないということです。外から狼どもが入って来て群れを荒らす。これは主イエスご自身も言っておられたことです。ヨハネ福音書の10章で、主イエスは「狼は羊を奪い、また追い散らす」と語って警告しておられます。
しかし、群れを襲う試練は、そういう外からの脅威だけではない。それだけではなくて、あなた方の中からも邪説を唱えて、弟子たちを惑わす者が出てくる。どうやら、パウロの力点は、こちらのほうにあるのではないかと思います。あなたがた自身が狼にならないように、あなたがた自身が御言葉に養われていなければならない、とパウロは言うのです。
最後の「目を覚ましていなさい」とは、そういうことです。主イエスご自身も、弟子たちに、しばしば「目を覚ましていなさい」とおっしゃいました。憶えておられるでしょう。ゲツセマネの園で祈るとき、繰り返し「目を覚まして祈っていなさい」と言われた。目を覚ますとは、起きていることではなくて、祈り続けていることなのです。そこから、この言葉は、初代キリスト教会で、キリスト者同士の合言葉になりました。信徒同士が励ましあうとき、ある人が大変なときを迎えようとしているとき、彼らは互いに「目を覚ましていよう」言い合いました。何に対して目を覚ましているのでしょうか? 御言葉に対してなのです。聞いた御言葉に対して、心が開かれているか? 心が閉ざされていれば、それは目を覚ましていることにはならない。ゲツセマネの弟子たちのように、眠りこけている。御言葉に、御言葉の恵みに心開かれ、祈りに倦み疲れないことです。
さて、32節に、別れの言葉が出て来ます。
「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることが出来るのです。」
別れが迫っています。しかも、もはや二度と顔を合わせることもないであろうと思われる。そういうとき、私たちなら、どんな言葉を交し合うでしょうか? また会えるよ、と言っても、空しく響くだけです。あらゆる言葉が試される。別れとは、そういうものなのかも知れません。パウロも、それに気がついていたのでしょう。パウロは自分の言葉を出さなかった。そうではなくて、神とその恵みの言葉とに、あなたがたを委ねる、と、そう言ったのです。
その根拠が、述べられています。
「この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることが出来る。」
別れに際して、これだけは言うべきだと、松永学長は私たちに噛んで含めるように言いました。礼拝というのは、いつも別れの要素がある。だから、礼拝の最後にある祝祷は、派遣の言葉であると同時に、別れの祝福でもあるのだと、松永先生は教えてくれたのです。祝祷のたびに、この使徒言行録20章32節の言葉を心の中で言いなさいと。
「あなたがたを、神とその恵みの言葉とに委ねる。」
35節には、極めて珍しい言葉が記されています。
「受けるよりは与えるほうが幸いである。」
パウロはこれを主イエスご自身の言葉であると述べておりますが、福音書を見ても、これと同じ言葉は見当たりません。使徒言行録を書いたルカの福音書にも記録がないわけですから、これはパウロ自身が主の言葉として伝えていた御言葉なのでしょう。味わい深い言葉だと思います。受けるよりは与えるほうが幸いだ。いったい何のことを言っておられるのか? 私は、これは神様からいただく恵みのことだと思うのです。いただいた恵みは、与えるのです。自分だけのものにしてはいけない。ましてあの1タラントンを与った僕のように、地面の穴を掘って埋めておいてはならない。分け与えるのです。惜しみなく、与える。主イエスのお言葉が胸をよぎります。
「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」
パウロは語るべき言葉をすべて終えて、ひざまずいて、祈ります。自分の言葉ではなく、主の言葉に、すべてを委ねたからです。長老たちはパウロの首を抱いて激しく泣いたと書いてあります。
しかし、どうでしょう。この場面の、突き抜けた明るさは、いったいどこから来るのだろうと思います。確かに、これは別れなのです。しかし、キリスト者には、本当を言うと、別れは無いのです。賛美歌に「またあう日まで」という美しい曲がありますね。また会う日まで。主の御前で、再び会う、その日まで、という意味の賛美歌です。その日まで、お互いが、主にあって健やかに歩めるように、主の御言葉に委ねるのです。相手を委ね、そして自分自身をも委ねるのです。
今日はイザヤ書40章の御言葉を読みました。ここにも神様の御言葉への信頼が語られています。
「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
とこしえに立つ神様の言葉に、委ねる。礼拝には別れの要素があるのだと申しました。しかし、それはあくまで要素でありまして、私たちは主の御前で再び合間見える。顔と顔とを合わせる。その日、そのときまでを主にあって歩むために、私たちも言いたいと切に願う。今日、私たちは、神とその恵みの言葉とに、あなたがたを委ねる。
かしわ葉あじさい
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