聖書:士師記6章11~14節・使徒言行録25章1~12節

説教:佐藤 誠司 牧師

「ギデオンは彼に言った。『わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのような事がわたしたちにふりかかったのですか。先祖が『主はわたしたちをエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。』」(士師記6章13~14節)

「パウロは言った。『わたしは皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存知のとおり、わたしはユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、誰もわたしを彼らに引き渡すような計らいは出来ません。わたしは皇帝に上訴します。』」 (使徒言行録25章10~11節)

 

今日は使徒言行録の第25章初めの物語を読みました。このところの使徒言行録の物語は、お読みになって、皆さん、どうでしょう。読んでいて正直、あまり面白くないですね。なぜなのでしょうか? 使徒言行録の終盤は、パウロのローマ行きを語ります。ローマ行きとは言え、かつてのような伝道旅行ではありません。未決囚、つまり、判決が確定していない囚人としてローマに連行されていく、その行程を描いているのです。

出て来るのは、人間の思惑だばかり。パウロを亡き者にしようとするユダヤ人たちの思惑があり、そのユダヤ人たちのご機嫌を取り持ちつつ、じつは内心、彼らに対して最大限の権力を維持しようとするローマ総督の思惑があります。パウロはと言えば、その思惑と思惑の板ばさみになっているかに見える。右を見ても、左を見ても、人の思惑と計略だけ。どこにも神様の御業は語られていないかに見える。そういう暗澹たる物語の中に、いったい、どうすれば、私たちは福音の光を見出すことが出来るでしょうか?

さて、パウロの置かれた状況ですが、これは厳しいものがあります。パウロはずっと囚われの身、鎖につながれているのです。パウロはエルサレム神殿でユダヤ人の暴動に遭って、神殿冒涜の罪で殺されそうになった。そのパウロの命を救ったのは、意外にも、ローマ軍の守備隊の千人隊長リシアでした。ところが、隊長が駆けつけたのは暴動の最中でしたから、隊長はなぜパウロが同胞のユダヤ人にかくも激しく排斥されるのかが分かりません。そこで彼は事の真相を究明しようと、最高法院の議員たちを招集して、パウロと対決させますが、会議は紛糾し、その混乱の中でリシアは、パウロがローマ帝国の市民権を持っていることを知らされます。これは粗略には扱えないぞと悟った千人隊長リシアは、パウロの身を手厚く保護します。

ユダヤ人たちはパウロ暗殺の陰謀を計画し、この計画が未然に漏れると、千人隊長はパウロの身柄を総督のいるカイサリアに移します。ローマから派遣されたユダヤ総督は、もうこの頃はエルサレムではなく、カイサリアにいたのです。それだけ、この短い間に、エルサレムが、総督が滞在を避けるほど、物騒な町になっていたということでしょう。

さあ、今やパウロの身柄は総督フェリクスに握られています。パウロを裁く裁判官はフェリクスなのです。ところが、これは歴史の事実ですが、ローマの裁判官はユダヤ人の訴訟を扱うのを嫌いました。なぜかと言うと、他の民族なら、宗教上の問題が裁判に持ち込まれることは、めったに無かったのです。ところが、ユダヤ人は宗教と生活が律法によって固く結び合わされていますから、当然、裁判にも宗教がからんでくるわけで、しかも、法廷ではローマの裁判官はユダヤ人から異邦人扱いを受けるわけですから、面白くないのです。主イエスを裁いたピラトの場合もそうでした。あのときユダヤ人たちは異邦人であるピラトの官邸に入ることを嫌いました。だから、官邸の外からでも聞こえるように、大声で「十字架につけと」と叫んだわけです。

フェリクスも同様だったと思います。そこでフェリクスは、事情を把握している千人隊長リシアが来るまでは、裁判を延期することにした。つまり棚上げしたのです。ところが、肝心のリシアが、どういうわけか来なかった。そこで、パウロはフェリクスに拘留されたまま二年の時を過ごします。フェリクスにすれば、ユダヤ人の裁判には関わりを持ちたくないのです。棚上げしているうちに、転任できたら最高だと思っていたかも知れません。総督なんて言っても、所詮はお役人なのです。

じつはローマから派遣されて来るユダヤ総督には数年で人事異動があったのです。熱狂的な愛国主義に沸くユダヤを治める仕事は、ローマ人なら誰しも二の足を踏みました。フェリクスはその任期をのらりくらりとやり過ごしたようです。パウロの裁判も棚上げにされたままです。

ところが、彼の後任者フェストスは違いました。彼はカイサリアに着任して3日後にはエルサレムに上って前任者がやり残した仕事を片付けにかかっています。こういう裁判官というのは、怖いです。仕事として人を裁いてしまうからです。やたらハンコを押したがる法務大臣みたいなものです。

この仕事熱心に目をつけたのが、パウロを亡き者にしようと企むユダヤ人たちでした。最高法院の面々がフェストスに会見し、パウロの罪状をあれこれと言い立て、身柄をエルサレムに移すよう懇願します。道の途中で殺してしまおうと考えたのです。しかし、フェストスはこれを断ります。彼はパウロの裁判はあくまでローマの管轄にあることを表明したのです。しかし、フェストスは、着任早々の総督として、ユダヤ人たちの歓心も買っておきたいと思ったのでしょう。こうパウロに言います。

「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか。」

パウロは答えます。

「わたしは皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存知のとおり、わたしはユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、誰もわたしを彼らに引き渡すような計らいは出来ません。」

そしてパウロは最後にハッキリと言います。

「わたしは皇帝に上訴します。」

決定的な瞬間です。パウロ自身が「私はローマで裁かれるべきだ」と言い切ったのです。なぜ、パウロは、そのように言い切ることが出来たのでしょうか?おそらく、パウロが「私は皇帝に上訴する」と言ったとき、彼の魂に響き渡っていたのは、主イエスの言葉であったと思います。パウロの身柄が千人隊長に保護されたその夜、主イエスが語りかけてくださった、あの言葉です。

「勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

この言葉がパウロを最後まで支えていきます。「勇気を出せ」というのは「頑張れ」ということではありません。じつはこの「勇気を出せ」というのは「安心しなさい」ということなのです。主イエスがしばしば弟子たちに語られた言葉です。福音書に、ガリラヤの湖の上をイエス様が歩いて、弟子たちの船に近づいて行かれる物語がありますね。弟子たちが恐怖に捕らわれて幽霊だと叫んだその瞬間、主がこう言われます。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

この「安心しなさい」というのが「勇気を出せ」というのと同じ言葉なのです。勇気、安心の根拠が、ここに示されています。「私があなたと共にいる」。これが勇気と安心の根拠なのです。そして、主イエスはパウロに「ローマでも証しをしなさい」と言われたですね。あれは、「私があなたをローマに遣わすのだ」ということです。さあ、いかがでしょうか? 主イエスがパウロに言われた言葉。そこには二つの大事な要素があることに、皆さん、気付かれたことでしょう。一つ目は「私があなたと共にいる」ということ。そして二つ目は「私があなたを遣わす」ということです。じつは、この二つは、旧約聖書の中に、しばしば登場する預言者の定式と呼ばれるものなのです。出エジプト記の第3章、モーセが神の山ホレブで燃える柴の中から神様の御声を聞き、神様と出会い、イスラエルの人々をエジプトから救い出すために遣わされる物語がありますね。最初、モーセはためらいます。ところが、神様のご意思は変わらない。神様はこう言われるのです。

「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」

神様が共にいてくださるということが、神様から遣わされたことのしるしだと言うのです。これは凄いことだと思います。普通「しるし」と言えば、目に見える事柄を言います。ところが、ここではそうではない。目に見える「しるし」ではなくて、目に見えない「しるし」なのです。これは信じなければ一歩も踏み出せないということです。モーセも、パウロも、そういう約束をいただいたのです。そしてそれを信じて一歩を踏み出しました。

私たちだって同じです。礼拝の最後にある祝祷。あれは「派遣」という意味を持っています。「私があなたを遣わす」という主の御声を聞くわけです。そしてその根拠をも私たちは聞いている。「私があなたと共にいる」という事も、同時に聞く。それが祝祷です。これも、主が共にいてくださるという目に見えない「しるし」を信じなければ、一歩も踏み出せない。主が私と共にいてくださる。そのことを信じることが出来るからこそ、私たちはこの礼拝から一歩を踏み出せる。それが主から遣わされて行くということです。私たちが置かれた状況がいかに厳しくとも、遣わされて行くことに変わりはないのです。

パウロだって、そうだったと思います。パウロの置かれた状況は、人間の目から見たら、これはもう絶望的です。なのに、パウロはそこに望みをつないだのです。諦めなかった。なぜなのでしょうか? 今日は旧約の士師記からギデオンの物語の一節を読みました。ギデオンという人は、わずか300人を率いて、何万という敵を打ち破ってイスラエルを救った人です。どんな勇ましい人かと思いますが、じつはその正反対なのです。当時、イスラエルはミディアンという荒々しい民族に攻められて、非常に苦しんでいた時です。で、皆、山の洞窟に逃げ込んで隠れていたのです。その時に、ギデオンは必要に迫られて酒舟の中で麦を打っていた。そこへ神様の使いがやって来て「勇者よ、主があなたと共におられます」と告げるのです。その時にギデオンが言った言葉が13節に出ております。

「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのような事がわたしたちにふりかかったのですか。先祖が『主はわたしたちをエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。」

神様の使いが、ギデオンに「主があなたと共に居られます」と言った時に、ギデオンは「そんなことはない」と言い返している。反論しているのです。こういう話が聖書に出て来ること自体が面白いと思います。神様が共にいてくださるというのは、神様が守っていてくださるということです。そこでギデオンは言うのです。そんなはずはない。あなたの言うように、神様が本当に私たちと共におられるなら、今のような惨めなことにはならないのではないかと。こんな惨めな状態になっているのは、神様が私たちを見捨てたからなんだと。それがギデオンの言い分です。

この言葉はギデオンだけでなく、信仰生活をしている人に、しばしば起こってくる思いではないかと思います。神様が一緒におられるなら、こんな辛い目悲惨な目に遭うはずがないではないかと。これは神様が私のことなんか見捨ててしまわれたからに違いないと、そういう思いのすることが、私たちの信仰生活の中には起こってまいります。じつはここが信仰にとって急所でありまして、ここを曖昧に見過ごしてしまいますと、信仰生活というものが建前的なものになってしまいます。ギデオンはそこを見逃さないで、言い返しているのです。ギデオンは言いました。「主が先祖に行われたあの御業は、どうなってしまったのですか」と言いました。ギデオンは聞いて知っている。主の救いの御業を聞いて知っているのです。そして、今その御業はどこにありますかとつっかかっているのです。

どうでしょうか。私たちも神様の御業は聞いて知っています。聖書を読んで知っています。しかし、そのことと、現在、自分が直面している問題との関係がよく分からない。この問題の解決のために、神様がいったい何をしてくださるのか。そこがぼやけている。いわば、聖書の言う約束と、自分の生活とが、分裂している。これは囚われの身のパウロも直面した問題ですし、誠実に信仰をもってこの世を生きようとしたときに、誰もがぶつかる問題です。

そういう問題を抱えてギデオンが神様につっかかったとき、神様は何と言われたことでしょうか? 14節に書いてあります。

「主は彼の方を向いて言われた。『あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことが出来る。わたしがあなたを遣わすのではないか。』」

いかがでしょうか。凄いでしょう? 私は、こういうところに、聖書のメッセージと私たちの生活との接点があると思うのです。私なんか神様に見放されたに違いない、私なんかしょうがない、と、そう思っている人。そういう人の方を向いて、神様は「あなたを選んで、あなたを遣わす」とおっしゃる。何にも問題を感じないで、順風満帆な人ではなくて、行き詰って行き詰って、にっちもさっちも行かなくなって、「その御業はどうなったのですか」と言っている人を神様は選んで「私があなたを遣わすのだ」と言われる。ペトロがそうでした。パウロもそう。こんな鎖につながれた私なんか、役にも立たないと思っている。破れ果てたかに見える、その人が選ばれる。そういうことが起こってくる。それが人間社会ではない、信仰生活の独自のところです。

ところが、ギデオンは、そう言われても「はい、そうですか」とは、なかなか言えない。ギデオンは、私はこんなにも惨めで弱く、醜い人間だと言います。貧弱な家族の中でも、一番役立たずなのです。これは儀礼的に謙遜して言っている言葉ではない。本音です。実感なんです。しかし、この本音と実感は、どこから出て来たものでしょうか? 自分を見つめるところから出て来ているのです。自分を見つめ始めると、これはもう、弱い自分、役立たずの自分しか見えてはこないです。しかも、それは、だいたい当たっている。だから、私たちは「自分のことは自分が一番よく知っている」なんて言うわけです。しかし、そういう弱い自分、役立たずの自分を、神様は、わざわざ選ばれるのです。

イエス様を見捨てて、「私はあの人のことは知らない」とまで言ったペトロが選ばれました。そして未決囚として鎖につながれているパウロが選ばれている。二人とも、人間の目からすると、再起不能な人たちです。しかし、神様は再起不能な人を再起させてくださる。もう役にも立たん、生きていてもしょうがない。甲斐が無いとさえ思う。回りの人たちも自分もそう思う時に、神様だけは見捨てない。

「私はあなたと共にいる。私があなたを遣わす」と、そう言って用いてくださる。役立たずということが、かえって、神様のお役に立つ。そのことが分かったときに、パウロは言いました。「私が弱い時にこそ、私は強い。だから、喜んで弱さを誇ろう」と言いました。人間は本当に弱くならないと、神様を求めないです。「我弱きときに強し」というのは、弱い人間でないと言えません。そして神様のことを本当に心から信頼してなければ、言えません。それが言えるということが、私たちの最後にして最大の恵みなのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

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