聖書:出エジプト記20章1~6節・マタイによる福音書6章24節
説教:佐藤 誠司 牧師
「神はこれらすべての言葉を告げられた。『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。』」(出エジプト記20章1~4節)
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(創世記28章15節)
今日は出エジプト記第20章の「十戒」の前半部分を読みました。十戒は1950年代にアメリカで映画化されて、日本でも大変に評判になったものですから、十戒の名は多くの人に知られるようになりました。しかし、十戒が何を語っているのかという点になりますと、日本では一般にはほとんど知られていないのではないかと思います。それに比べれば、私たちキリスト者は、もう少しは知っていると言えるかもしれません。しかし、皆さん、どうでしょう。十戒といえば、何々してはならないという禁止の戒めが多いですね。そういうこともあって、十戒といえば、なんだか堅苦しい規則のようなものを連想しないでしょうか。
もし、そういう連想をするとすれば、それは十戒にとっても、私たちにとっても、まことに残念なことです。そこで今回、キリスト教会の礼拝で十戒を読むのですから、私たちキリスト者にとって、十戒とは、旧約聖書とは、どういう意味を持っているのかということを念頭に置いて、ご一緒に十戒の言葉を読んでいきたいと願っています。
そこでまず、多くの人が十戒に対して抱いている誤解を解いて、そこから十戒の心に入って行きたいと思います。十戒はどこから始まるかということです。十戒は「十の戒め」と書きますから、第一の戒めから十戒が始まると考える人が多いと思います。第一の戒めは3節の次の言葉です。
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
確かにこれは大事な戒めで、だからこそ、これが第一に置かれているのですが、この言葉から十戒が始まるのだと理解をしますと、この3節の言葉は1節2節の言葉と切り離されてしまいます。そうしますと、3節の言葉が単なる戒め、規則の言葉になってしまう。死んだ言葉になってしまうのです。どういうことかと言いますと、1節を見ますと、こう書かれています。
「神はこれらすべての言葉を告げられた。」
この「告げられた」というのは、「語りかけられた」ということです。神様が語りかけておられる、そういう言葉なのです。お前たちが守るべき規則だぞと言って、紙切れ一枚の規則を与えたのではない。神様がイスラエルの人々に、あなたがたが健やかに生きていくためには、こういうことが大事なんだよと言って、懇ろに語りかけておられる。十戒とはそういう「語りかけ」の言葉なのだということを、この1節の言葉は語っています。
次に大事なことが2節に出て来ます。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
これは、私はお前たちの神なんだぞと威張っているのではありません。十戒を語る神様と十戒を聞くイスラエルの人々との関係を語っている言葉です。関係というのは大事です。同じ厳しい言葉であっても、赤の他人に言われるのと、親子の関係の中で聞くのとでは、響き方がずいぶんと違ってきます。
ではイスラエルの人々と主なる神様との関係はどうであったでしょうか。イスラエルの人々はエジプトで奴隷になって400年。誰も救ってくれる人はいなかった。自分たちは永久に奴隷のままだろうと、そう思っていた。それを神様が奴隷の状態から救い出してくださった。そういう神様なのです。
この1節と2節がまずあって、それから3節の戒めの言葉が出て来るわけです。ですから3節の戒めの言葉は1節2節と表裏一体、切り離せないのです。それを、3節だけ切り離して読みますと、これはたちまち規則の言葉になってしまいます。「わたしをおいてほかに神があってはならない」という規則になってしまいます。しかし、本当はそうではない。わたしはあなたを奴隷の家から導き出した。だからこのわたしを信じて、わたしに任せなさいと言っておられる。これは規則の言葉ではない。語りかけの言葉です。神様の熱い思いがほとばしっている言葉です。
そして、4節から6節のところに「何の像も刻んではならない。像を拝んではならない」と言われています。偶像を拝むことを禁じる言葉です。これも、皆さん、よくご存じの言葉だと思います。この礼拝に来ておられる方なら、自分はクリスチャンなので、そんな像を刻んだり、拝んだりはしていないと自信を持って言われる方も多いと思います。確かにそれは、特に日本という国にあっては大事なことです。石や木を刻んで像を造って拝む。確かにそれも偶像礼拝ですが、そういう、目に見える偶像礼拝をしていなければ、偶像礼拝をしていないことになるだろうか。これは結構、難しい問いです。
偶像礼拝って、どういうことでしょうか。じつは、偶像礼拝には二つのパターンがある。一つは目に見える偶像礼拝。これは割と簡単です。やっかいなのはもう一つの偶像礼拝。目に見えない偶像礼拝です。目に見えないというのは、言い換えますと、心の中ということです。心の中で偶像礼拝をしている。神様とはこういうお方なのだと勝手にイメージして、それを拝んでいる。そういう人のことをパウロは、「彼らは自分の腹を神としている」と言いました。この「腹」というのは胃や腸のことではなく、心の深みということです。欲望や願望が宿っているのが、この腹です。自分の願いや欲望を映し出した神様のイメージを拝んでいる。これが目に見えない偶像礼拝です。ですから、この目に見えない偶像礼拝はキリスト者だって無縁とは言えない。
私たち人間が偶像礼拝というものを避けることが出来ない弱い存在だということを、神様はよくご存じです。旧約聖書を読みますと、いたるところに偶像との闘いが出て来ます。人々がエルサレム神殿に詣でて、たくさんの捧げものをして、熱心に礼拝をしている。パッと目には信仰熱心な人たちです。ところが、この人々を預言者たちが非難しています。非難された人たちは「自分たちのどこが悪いのだ」と怒ります。ちゃんと礼拝をしてるじゃないか、捧げものもしてるじゃないかと人々は言う。そうしますと、預言者は「あなたたちの生活は何だ」と。神殿で礼拝をしていると言うが、生活の場では隣人を奴隷に売り飛ばしたり、借金の方に隣人の無くてはならないものを奪い取ったり、兄弟に対する愛や憐れみがちっとも無いではないか。本当に神様を礼拝していたら、その信仰から出て来る生活というものが、そこにあるはずだ。ところが、あなたがたの生活は神様を拝んでいる人の生活ではないと、預言者たちはそこを批判するのです。この人々は、腹の中で、勝手な神様のイメージを造り上げて、それを都合よく拝んでいたに過ぎなかった。人間の罪というのは、こうして礼拝という営みの中にも現れて来るわけです。
こういうやっかいな偶像礼拝の心を打ち砕いて、まことの礼拝に立ち帰らせてくれるのが、聖書の言葉です。聖書はどのようにして私たちをまことの礼拝に立ち帰らせるのか。それは聖書を通して私たちに語りかけられる神の言葉によってです。私たちが生きた神様の語りかけと出会った時に、今まで心の中に持っていた神様とはこういうお方だという勝手な思い込みが打ち砕かれて、目が開かれる。そういうことが起こってくる。詩編の119編に、こんな言葉があります。
「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。」
有名な御言葉ですが、この「無知な者」というのが、「神を誤解する者」ということです。全く神様を知らないということではない。しかし、自分の願い通りの神様像を勝手に造り上げている。それがこの「無知な者」の意味です。
例えば、こういうことがあります。神様の愛ということを、私たちは知っています。知っているし、信じてもいます。ところが、何か大きな間違いを犯したり、大失敗をしたりしますと、もうこんな自分はダメだろう、見離されても文句は言えないなどと思ってしまいます。親戚一同から見離されることもあるでしょう。ところが、神様は見離したりはなさらない。聖書がそう語っている。そのことに気が付いたとき、ああ、神様の愛というのは、自分が思っていたような浅はかなものではなく、そんなに深いものだったのだと思い知らされる。それが「御言葉が開かれると、光が差し出で、無知な者にも理解を与える」という御言葉の本当の意味です。
イザヤ書の43章の18節に、次の言葉があります。
「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。」
これだけを読みますと、何のことだか分かりにくいですが、この言葉の少し前、16節と17節を見ますと、こう書いてあります。
「海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方。戦車や馬、強大な軍隊や共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方。」
もうお分かりのことと思います。これは神様がイスラエルの人々をエジプトの奴隷の家から導き出してくださった出エジプトの出来事なんです。さあ、そうしますと先ほど読んだ18節は、「出エジプトのことを思い出すな」と言われていたことが分かります。出エジプトの出来事といえば、イスラエルの人々にとって救いの原点です。最も大切な民族の原点です。それを、どうして「思い出すな」と言うのでしょうか。それは、この言葉の次に出て来る「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」ということと関連しています。
出エジプトの出来事は確かに大事な信仰の原点です。しかし、私たちが、いつもそこに留まって、それしか考えられなくなってしまったら、どうでしょうか。神様は新しいことをなさる。神様はきっとこうしてくれるだろうなどと、私たちが抱くちっぽけな期待を打ち砕くような、もっと大きなことをなさる。イザヤが言うのは、そういうことです。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを知らないのか。」
私たちが神様を信じているという時、いつでもあるイメージを持っております。神様はこういうお方で、こういうふうに語り、こういうふうに救ってくださるというイメージを抱いています。このイメージが、いつの間にか、私たちの信仰を閉じ込めてしまう枠になっています。枠がありますと、もうそこから出られない。籠の鳥みたいなものです。
ところが、私たちの人生は、常に新しいこと、想定外のことが起こってきます。ですから、いつまでも古いイメージの枠に閉じこもっていますと、信仰が私たちを導くことが出来なくなってしまいます。ギリシアの神々や日本の神々は、鎮座まします神です。鎮座するのですから、そのための場所が必要になります。そこで壮麗な神殿を建てて、そこに鎮座する偶像の神を拝んだのです。言うなれば、神殿の中に神々を閉じ込めているのが、古代ギリシアや日本の宗教です。
それに対して、聖書が証ししている神様は、生きて働く神様なんです。いつも相手と共に動いて行く。イスラエルの人々がエジプトを脱出して荒野を旅した時も、神様は一緒について行った。ついて行って、人々のために働いてくださった。そういう神様なんです。
ところが、これがギリシアの人々には分からない。古代ギリシア人にとって、働くというのは、あくまで奴隷の仕事なのです。堂々と鎮座することなく、こまごまと働く神は、ひょっとしてあなたたちの奴隷なのかというわけです。同じようなことが、昔、大阪でもありました。ある教会の礼拝の看板に「神は働いておられる」という説教題が書かれていたのですが、これを見た町のひとたちが「お宅さんらの神さんは、いったい、どこで働いていはるのですか」と訊いたというエピソードが伝わっています。
今から思えば、おかしな話ですが、「神様」という言葉一つ取ってみても、これほど強い思い込みがある。勝手なイメージがあるということでしょう。そして、私たちキリスト者も、いつの間にか、同じような思い込みで神様のイメージを造り上げているのではないかと思います。イスラエルの人々が、まさにそうだったのです。40年の間、荒野を行く時、神様はずっとイスラエルの人々と一緒に歩んで来られた。生きて働く神様というものを、人々は実感していたのです。
ところが、約束の地カナンに入って、さらにエルサレムに入りますと、ああ、もうこれで安心だということで、立派な石造りの神殿を建てた。すると、人々は神様は神殿におられるのだと思い込んだ。そうしますと、イスラエルの人々の信仰が、固まってしまった。止まってしまった。そこから、イスラエルの人々の信仰は命を失ってしまったのです。
やがて、イスラエルは国が二つに分裂し、北のイスラエル王国が滅ぼされ、南のユダ王国も滅亡して、神殿が破壊された。主だった人々はバビロンに捕虜として連行されて行きます。多くの人がもうダメだと思った。ところが、神様は神殿が破壊されても、生きて働いておられる。そして、なんとバビロンまでついて行かれた。バビロンといえば、イスラエルの人々にとって、まさにどん族です。そのどん底の只中に、主なる神様は共におられた。そして生きて働いてくださったのです。神様がヤコブに言われた言葉が思い起こされます。
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
私たちが信じる神様は、このようなお方です。私たちが、いかに罪を犯して、どん底に落ちようと、どこまでも一緒にいてくださる。罪びとを決して見捨てない。十戒は、この神様の自己紹介です。この生ける神を信じなさい。これが十戒のメッセージです。このメッセージを、枠にはまることなく、日々の生活の中で常に新しく受け取っていきたいと思います。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
3月3日(日)のみことば
「彼ら(被造物)はみな知っている。主の御手がすべてを造られたことを。すべての命あるものは、肉なる人の霊も、御手の内にあることを。」(旧約聖書:ヨブ記12章9~10節)
「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」(ルカ福音書24章44節)
今日の新約の御言葉はルカ福音書の結びの言葉です。律法と預言者という言い方は、聖書全巻を表すものです。当時はまだ新約はありませんから、聖書全巻といえば旧約のすべてということです。第9章の山上の変貌の物語を思い起こします。あの物語は、最後は、どうなったでしょうか? モーセとエリヤは雲の中に姿を消して、主イエスだけが残られた。そのとき、天から声が聞こえたのです。
「これは私の子、選ばれた者、あなたがたはこれに聞け。」
あなたがた、つまり、キリストの弟子たちは、これに聞け。モーセの律法と預言者は、すべてこのお方の御業を証しするものなのだから。イエス・キリストご自身による御言葉の説き明かしを受けるだけで十分なのだと言われるのです。キリストこそ生ける神の言葉だということです。これは、考えてみれば、じつに大胆なことですが、じつはこれが新約聖書のメッセージなのです。