聖書:出エジプト記3章4~6節・ヨハネによる福音書1章1~18節
説教:佐藤 誠司 牧師
「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」 (ヨハネによる福音書1章16~18節)
今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条による説教を聴いています。使徒信条は、世界中のキリスト教会が大切な信仰の基準として受け入れているものです。しかしながら、使徒信条はもともと、洗礼の準備の過程で用いられたものですから、教会の信仰が深められていく中で、もう少し詳しい信仰箇条がどうしても必要になりました。そこで古代の教会を代表する人々が小アジアのニケアという町に集まりまして、会議を開き、そこで定められたのがニケア信条です。
今日は「独り子である神」と題して、キリストとは何者であるかをお話するわけですが、そのためにニケア信条を読んでおくことは、とても大きな意味を持ってきます。讃美歌の93―4を開いてみてください。左のページに使徒信条が記されています。そして右のページにニケア信条があります。少し長いですが、キリストに関するところを読んでみたいと思います。
「また、ただひとりの主イエス・キリストを信じます。主は神のみ子、御ひとり子であって、世々に先立って父から生まれ、光からの光、まことの神からのまことの神、造られたのでなくて生まれ、父と同質であって、すべてのものは主によって造られました。主は人間である私たちのため、私たちの救いのために、天からくだり、聖霊によりおとめマリアによって受肉し、人となり、私たちのためにポンティオ・ピラトのもとで十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり三日目に復活し、天にのぼられました。そして父の右に座しておられます。また生きている者と死んだ者をさばくために、栄光のうちに再び来られます。そのみ国は終わることがありません。」
いかがでしょうか。使徒信条と比べて、ずいぶんと長いとお感じになったのではないかと思います。長いということは、詳しいということでもあります。ということは、この詳しさは、古代のキリスト教会で、キリストについて決着を付けなければならない問題がいくつも発生していたことを示しているのでしょう。では、いったい、キリストを信じる信仰の、いったいどこに決着をつけなければならなかったのか。そこが問題になります。
ニケアで開かれた教会会議は、古代の著名な神学者たちが集まって、何日もかけて議論を重ねて、一つの問題に解決を見た会議です。その問題とは「イエス・キリストとは、いったい、どういうお方であるか」ということでした。特に、イエスというお方は、まことの神であるのかどうか。父なる神との関係は、どうなっているのか。それらを聖書はどのように語っているのか。この三つの方向から議論と対話が深められて、その議論・対話の結果を、自分たちの言葉で言い表すと、どうなるのかという、その一点をめぐって更に討論が重ねられました。その結果、聖書に書かれているイエス・キリストと父なる神との関係、また他のあらゆる被造物との関係を、出来るだけ正確に言葉に移すと、このようになると。こういう過程を経て生まれたのが、先ほど読んだニケア信条の言葉だったのです。
そのニケア信条は「主は神のみ子、御ひとり子であって、世々に先立って父から生まれ」と語ります。キリストは神の独り子であって、天地の創造に先立って父なる神から生まれたお方なのだということです。「神から生まれ」というのは、神から生まれた神ならざる者ということではありません。神から生まれた神ということです。それを丁寧に言い表すために「光からの光、まことの神からのまことの神、造られたのでなくて生まれ」という言葉が添えられているわけです。
聖書に、このとおりの言葉が出て来るわけではありません。使徒信条やニケア信条の言葉は、聖書に立脚しながら、聖書が語る真理を自分たちの言葉で言い表したものです。ですから、このニケア信条の言葉と全く同じ言葉が聖書に出て来るということではない。しかし、ニケア信条がその根拠とした聖書の言葉はあるのです。それが今日読んだヨハネ福音書第1章の言葉です。
ご存じのように、ヨハネ福音書はクリスマスの出来事を語ってはいません。クリスマスの出来事を語ってしまいますと、あたかもそれがすべての始まりであるかのような印象を与えてしまうからでしょう。そうではなくて、ヨハネ福音書の眼差しは、はるかな昔、天と地の創造以前の永遠の昔に注がれている。だからヨハネ福音書は「初めに」という言葉をもって、開口一番、こう語ります。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
じつに不思議な始まり方であると思います。発言の「言」と書いて「ことば」と読ます。これには、じつは深い意味がある。どういうことかと言いますと「キリストこそが神の言である」ということを言い表しているわけです。私たちの心を表し、その心を相手に伝えるのが言葉です。心は皆が持っているのですが、ではその心を見せてくれと言われても、それを直接見せることは出来ません。そこで、その心を言い表すために、私たちは言葉を使うのです。
神様も、やはりそうでありまして、私たちが直接神様を知ろうと思いましても、神様は目には見えません。神様って、いったい、どういうお方なのか。なかなか分かりにくいのです。その神様の心を私たちに知らせるものが神様の言葉です。そしてイエス・キリストこそ、その神様の言葉であると、そういうことを、この福音書は最初に語っているわけです。
日本でも、神様という言葉は誰もが使います。いろんな意味で使います。安直なのもありますし、大変に峻厳な教えものもあります。しかし、どんなに深い教えであっても、その多くは人間の宗教心が造り出したイメージです。そのイメージを言葉にしたり、像に刻んだりして、神様とはこういうお方だと人に教えます。しかし、これらはすべて人間の心が描き出した、言うなれば、つくり物の神様です。
これは、この世界を造り、私たちの人生を支配しておられる、生けるまことの神様とは何の関わりも無い、いわば人間の好みです。どうしたら、私たちは、まことの神様にお会いすることが出来るか。いろいろ瞑想したり、思索をしたりしても、私たちは神様に至ることは出来ない。ただ一つの道は、神様ご自身が「私はこういうものだ」と言って、私たちに語りかけてくださる。その神様のお言葉によって、ああ、神様とはこういうお方であったかと、私たちは初めて分かる。イエス様は、そういう神様のお言葉であると、そういうことが、ここに言われているのです。
その神様のお言葉であるキリストは、初めからあった。初めからあったというのは、途中で造られたのではないということです。神様が万物をお造りになる。その前からキリストは神と共にあった。そのあとに「言は神であった」と言われております。イエス・キリストというお方は神様なのだと、これがヨハネ福音書の根本です。そして14節を見ますと、こう書いてあります。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」
私たちがどんなにしても知ることが出来ない、天地の造り主である神様が、御自分を何とかして私たちに知らせようとして、人間になってくださったのです。人の言葉で語り、人としての交わりをなし、人としての行いをすることによって、神様は御自分を表そうとなさいました。これはキリスト教だけが持っている特別なメッセージです。
神様はイエス・キリストにおいて、人間となって私たちの所に来てくださった。だから、私たちがこの目で見ることが出来、そのお言葉を聞くことが出来る。イエス・キリストというお方を知れば、神様がどういうお方であるか、私たちに対してどういう思いを持っておられるか、そのすべてのことが明らかになる。
「私たちはその栄光を見た」と言われています。栄光というと、私たちは何か輝かしいものを連想します。イエス様のなさる様々な奇跡や業。そういうものを思います。もちろん、それも栄光ではありますが、この福音書が「私たちはその栄光を見た」と言っているのは、そういう、なるほどこのお方は神様だなあというようなことだけではない。最後の最後に、主イエスは十字架で殺される。福音書という書物は、そこに向かって語っていく。じつはヨハネ福音書が最終的に「栄光」と呼ぶのは、主イエスの十字架のことなのです。
十字架の死は惨めな、悲惨なものでした。どうしてそこに神様の栄光が現れていると、この福音書は言うのでしょうか? 神様は私たちを救い、私たちに本当の命を与えるために、人となってくださった。人間になったと言っても、ただなんとなく人としての一生を過ごされたというのではなくて、悲惨のどん底にまで降りて行かれた。そして殺されて、死ぬ。それを通して、初めて、神様の私たちに対する御心が現されたのです。
この福音書は、そういうイエス様の十字架の後に書かれたものです。そういうものを見据えながら、ヨハネ福音書は「私たちはその栄光を見た」と言い切っています。
「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
イエス様が、何か自分の思いや決心でやったというのではない。これは父の御心である。私たちの人生を支配しておられる父なる神様が、どんなに深く私たちを思い、私たちの救いを願っておられるか。そのことを明らかにするのが、まさにキリストの十字架です。16節を見ますと、こう書いてあります。
「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」
私たちは皆、と言われています。これは、この方の救いから漏れる者は一人もいないということです。また、私たちは、この方の溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けたと言われています。ここは心して読まなければならないところです。何が言われているのかというと、私たちがどういう状態であり、どういう状況であろうと、どういう問題を抱え、どんな困難に直面していようと、恵みの上に恵みを加えられているという事実に変わりはないということです。17節にこう書いてあります。
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」
モーセは神様の御心である律法を受けて、人々に伝えました。確かに律法は神様の御心を表すものでした。しかし、それが全部ではないのです。律法は神様の御心の一部分に過ぎません。本当に神様の御心を隈なく示すものは何か? それはイエス・キリストです。そしてイエス・キリストを通して現された神様の御心とは何かというと、「恵みと真理」なのです。だから、ヨハネ福音書は18節で、こう語りかけます。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
神を見た者はいないと言われています。これは、じつに大胆な言葉だと思います。なぜなら人間の社会、特に神と人間の隔たりが小さい日本の社会にあっては、自分は神を見たと公言する人が、いつの代にもいたからです。自分は神を見た、自分は神様の心が分かると主張する人が、教祖になって、我こそは神の代理人だと主張してしまう社会です。しかし、私たち人間が心に描いている神様は、まことの神様ではありません。イエス・キリストにおいて現されている神様こそ、まことの神です。人となって私たちに親しく語りかけ、私たちと交わってくださったこの方こそ、まことに生ける神です。この神様を信じて、人生を委ねることが大事です。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
3月16日(日)のみことば
「神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように。あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために。」(旧約聖書:詩編67編2~3節)
「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義とされます。」(新約聖書:ローマ書4章5節)
私たちが聖書を読んでいますと、時折、合点のいかない言葉に出くわします。今日の新約の御言葉などは、さだめし、その典型でしょうか。この「不信心な者を義とされる方」というのは、神様のことです。普通、私たちが「信仰する」というと、何か一生懸命に祈るとか、熱心に求めるとか、そういう、ある決まった大変真面目な形を誠実に守っている人、そういう人が信仰深い人だというふうに考えます。これはいたって常識的な考えであって、誰もが当然と考えています。
しかし、パウロは、そういう宗教的な人間になることを「信心」という言葉で言い表していますが、信心深い人になるということと、信仰ということが、ハッキリと対立させて語られています。つまり、信心深くなることと信仰とは全く別物、違うことなのだ、と。これは、私たち日本人の常識からすれば、まさにビックリ仰天の言葉ではないでしょうか。不信心な者を神様は義と認めなさる。そのことを信じるのが信仰なのだ、と、パウロは言うのです。