聖書:創世記45章3~8節・マルコによる福音書14章1~11節
説教:佐藤 誠司 牧師
「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。だから、わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」(創世記45章7~8節)
「イエスは言われた。『するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。』」(マルコによる福音書14章6~9節)
今日からマルコ福音書の14章に入ります。ここから主イエスの受難物語が始まります。正確に言いますと、この第14章に於いて、受難週の主要な出来事、すなわち、最後の晩餐、裏切りの予告からゲツセマネの祈り、そして主イエスの逮捕、裁判の物語が続き、次の15章で総督ピラトによる裁判と判決、十字架の出来事が畳み込むように語られていく、そのような構成になっているわけです。
ですから、受難物語の幕開けを告げる今日の物語は、これから始まる壮大な受難物語の冒頭に置かれた序曲のような趣があります。序曲というのは、オペラの幕開けの前に演奏される楽曲です。幕が開く前ですから、観客にはまだ舞台は見えていません。しかし、まだ見えない舞台を彷彿とさせるように、これから始まる本編の主題を先取りしていくのが序曲です。今日の個所もそうでありまして、これから始まる主イエスの受難の意味を的確に描いて聞かせてみせる、そういう趣を持つ個所であると思います。
今日は14章の1節から11節までを読みました。新共同訳聖書はエピソードごとに太いゴチック体で小見出しを付けています。それを見ますと、今日読んだ箇所は三つのエピソードから成り立っていることが分かります。最初に祭司長たちや律法学者たちによる主イエスを殺すたくらみが語られます。そして、最後にイスカリオテのユダによる裏切りの計略が語られています。いずれも主イエスを亡きものにしようとする闇の計画です。そして、この二つに、ちょうどサンドイッチのように挟まれて語られるのが、主イエスに香油を注いだべタニアの女の物語です。
私は、このサンドイッチのような構造は、なかなかに意味深いものがあると思っています。第一のエピソード、祭司長たちや律法学者たちのたくらみは、それだけでは主イエスの死には至らない。たくらみというのは、あくまで心の内面のことだからです。その意味では、第三のエピソード、ユダの裏切りの計略も同じです。計略とはまだ心の内面のことです。祭司長や律法学者たちのたくらみも、ユダのたくらみも、まだ水面下にあるわけです。
しかし、やがて、この両者が手を結ぶ時が来る。祭司長たちや律法学者たちの手とユダの手が結び合わされて、主イエスを裏切り、殺す計画が実行されていく。この両者の手を結び合わせているのが、二つのたくらみのエピソードの真ん中に挟まれたべタニアの女が取った行為ではないかというのがマルコ福音書の問いかけです。
でも、どうしてなのでしょう。主イエスに高価な香油を注いだこの女性の行為は、今や世界中で称賛されている。「ナルドの壺ならねど」という讃美歌は、今も多くの人に愛されている。この女性には主イエスに対する敵意や憎しみは微塵もない。この人の、一見異常に見える行為も、ひとえに主イエスへ寄せる愛故の行為であったと見るべきでしょう。それがどうして、よりによって、祭司長・律法学者たちのたくらみの手とユダの裏切りの手を結び合わせることになるのか。皆さんの中にも。そこがどうも腑に落ちないと思われた方も多いと思います。そこで、腑に落ちない思いを今しばらく心に留めていただいて、第二のエピソード、べタニアの女性の物語に入っていきたいと思います。
今、私は「べタニアの女性」と言いましたが、このべタニア村は、エルサレム近郊のオリーブ山のふもとにある小さな村で、マルタとマリアの姉妹、その弟ラザロが住んでいたことで知られます。主イエスはたびたび彼らの家を訪問され、滞在もなさったようです。べタニア村は、主イエスがことのほか愛された村なのです。
そのべタニア村に、らい病人シモンの家がありました。おそらく、シモンという人は、かつて主イエスにその病を癒していただいたのでしょう。主イエスはシモンに招かれて、客として食事の席に着いておられた。そのときのことです。
当時のユダヤの食事の席はテーブル席ではありません。大きなベッドに寝そべって、左の肘をついて半身を起こして右手で食べた。このようなスタイルですから、おのずと両足はベッドの外に出ており、頭はテーブル席に着いた場合よりも、かなり下に位置することになる。後ろに立って給仕する僕の手よりもずっと下に位置していることになります。この頭の位置が、これ以降の出来事の動線を導いていきます。
ここに、一人の女性が登場します。招かれた客たちは、女を見て、この家の女奴隷が給仕するために来たのかと思ったことでしょう。しかし、彼女の振る舞いは違いました。持っていたのは石膏の壺。彼女は主イエスの後ろに立つと、手にした壺を壊したのです。すると、香りが家いっぱいに広がった。その香りで、人々は、それがナルドの香油であることを知った。すると、居合わせた人々が憤慨して、こう言い合います。
「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
こう言って女性を厳しく咎めたのです。いかがでしょうか。ずいぶん女性に対して厳しいと思われたかもしれません。しかし、この人々の言い分は、正論です。主イエスご自身も、かつて金持ちの青年に向かって「持ち物を全部売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる」と言われました。憤慨して女性を咎めた人々の言い分は、決して間違ってはいなかったと見るべきでしょう。ところが、主イエスは彼らにこうおっしゃったのです。
「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」
いかがでしょうか。前半は、確かにこの女性への同情に満ちていると思います。この女性が取った、一見異様とも思える行為の背後にある愛の心根というものに、暖かい眼差しを注いでおられます。この女性も、主イエスの言葉を聞きながら、さぞ深い慰めが与えられたこと思います。ああ、イエス様は私の思いを分かっておられる。そう思って、深い安堵感をおぼえたに違いありません。
しかし、最後の言葉は、どうでしょうか。「この人はできるかぎりのことをした」と言われた、そのあとに言われた、次の言葉です。
「つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」
この言葉を聞いて、女性はどう思ったことでしょうか。彼女はとても驚いたと思います。いや、私はそんなつもりでやったのではない、と心の中で叫び続けたのではないか。あなたを葬るなんて、そんなつもりは私には毛頭なかったと、心の中で繰り返し訴えていたに違いありません。
今、私は「つもり」という言葉を使いました。私も日常生活の中でよく使う言葉ですが、皆さんはどうでしょうか。「つもり」という言葉を、皆さんはどんな時に使われるでしょうか。
例えば、こんなシチュエーションがあると思います。意に反して、親しい人を傷つけてしまった。悪気はなかったのです。そんなとき、「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんです」などと言いますね。このように、「つもり」というのは「意思」とか「計画」のことなのですが、「意思」や「計画」に比べると、やや軽い、曖昧な意味合いを持っています。曖昧なものですから、「つもり」は普段は無意識の中に埋没しています。意識化されていないのです。それが衝撃的な出来事や言葉によって激しく揺さぶられるときに、初めて意識化されてくる。それが「そんなつもりではなかったんです」という言い方になるわけです。
そして、この「つもり」というのは曖昧で無意識なものですから、無防備な状態で心の奥底に温存されています。無防備というのは、言ってみれば、扉が開けっぱなしになっている状態です。扉が開いているものですから、そこから、他者の意思や計画が入って来る。入って来て影響を与えるのです。そして「そんなつもりではなかった」と言うしかない、新しい生き方が始まっていく。皆さんは、そんな経験は無いでしょうか。
主イエスの頭に香油を注いだあの女性が、そうでした。主イエスが「この人は前もって私の葬りの準備をしてくれたのだ」と言われたとき、彼女は心の中で叫びました。「いや、私はそんなつもりでやったのではない」と叫んだに違いありません。そのとき、彼女の中で、それまで無意識に埋没していた「つもり」が丸裸にされて浮かび上がった。そして、その中へ、主イエスの御計画と御心が入って来たのです。そして彼女は、自分の「つもり」が命じるままに生きる根無し草にような生き方から、主イエスの御計画や御心に従って生きる生き方へと変えられたのです。そのとき、彼女の耳と心に、主イエスの言葉が響きました。
「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
ここは「福音が宣べ伝えられる」という言葉が福音書の中で初めて出て来る記念碑的な場面です。それは裏を返せば、宣べ伝えられる福音の中心がハッキリしてきたということです。主イエスの歩みと共に、福音の中心がハッキリしてきたのです。
さあ、福音の中心とは何なのでしょうか。それは、主イエスがこの女性の取った行為を福音に結び付けたことからも分かります。彼女の行為は福音の中心に直結しているわけです。マルコ福音書が語る福音の中心。それは主イエス・キリストの死と葬りだったのです。
でも、どうして死と葬りが、よりによって福音の中心になるのでしょうか。死と葬りは、多くの人にとってみれば、人生の最後の最後に当たります。もう後が無いと言いますか、それ以降は何も無いわけです。しかし、イエス・キリストの場合は、どうだったでしょうか。キリストの復活によって、新しい命が始まった。しかも、キリストの復活は墓から始まったのです。死と葬りが、命の終わりではなく、復活の命の始まりになった。だから、あの女性の取った行為は、主イエスの死と葬りの備えをしたばかりではなく、復活の命に至る扉を開く行為でもあったのです。だから、マルコ福音書は恐れずに言う。主イエスの死と葬りこそが福音の中心になったのだと言うのです。
この驚くべき御業のために、やがて、あの祭司長や律法学者たちのたくらみも、ユダの裏切りのたくらみも、用いられて行きます。
今日はマルコ福音書に併せて、創世記のヨセフ物語の終結部を併せて読みました。そこに、こんな言葉がありました。
「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。だから、わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」
何を言っているかと言いますと、ヨセフがエジプトへ奴隷として売り渡されてきたことは、ただヨセフ一人の人生を神様が守り祝福するためではなくて、その背後に、もっと大きな神様のご計画があったということです。嫉妬のあまり弟ヨセフを憎み、売り飛ばし、殺そうとした兄さんたちの救いのためであった。それこそ神のご計画であったのだと、ヨセフはそう言っているのです。
これは驚くべきことではないでしょうか。なぜかと言うと、兄さんたちの罪深い行いの中にさえも、神様のご計画はあったのだとヨセフは言っているからです。兄たちの罪の行為の中に、すでに神様が介入しておられたということです。神様は人間の罪をも用いて救いを達成されるのだと言い切っているのです。
マルコ福音書も、同じことを語っています。主イエスの死と葬りをその中心に据えたキリストの福音は、その死をもたらした罪人たちをも、救いの射程に入れている。こうして罪人たちを救いに導く福音が、完成されていきます。この福音によって、私たちは救われたのです。
珍しい柏葉アジサイ
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
8月13日(日)のみことば(ローズンゲン)
「恐れるな、もはや恥を受けることはないから。」(旧約聖書:イザヤ書54章4節)
「このように、あなたがたも、自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」(新約聖書:ローマ書6章11節)
今日の新約の御言葉には、非常にパウロらしいユニークな表現が出ています。最後の「考えなさい」というところです。この「考えなさい」と訳されたところには、じつは「帳簿に記入する」という意味の言葉が使われております。どういう理由で、そういう不思議な言葉を使ったのでしょうか。それは、こういうことなのです。皆さんが会計の仕事をしているとします。一日の仕事の締めくくりに帳簿に記入をするのですが、その時は、誰でも、何度も間違いが無いか確認をして、確かなことだけを帳簿に記入するでしょう。
それと同じように、人生の歩みの中で様々な試練や迷いが襲ってくる。そういう時に、自分の歩みを振り返って、「ああ、自分はキリストと共に死んだ者なのだ。もう罪の奴隷ではない。そして私は今、神に対して生きている。神様のものとして生きている」と、そういうことをハッキリ確認をしなさい。そして心の帳簿にハッキリと記入しなさいと、パウロはそう言っているのです。