聖書:申命記29章9~14節・使徒言行録24章24~27節
説教:佐藤 誠司 牧師
「今日、あなたたちは、全員あなたたちの神、主の御前に立っている。」(申命記29章9節)
「数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義や節制や来たるべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、『今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする』と言った。」(使徒言行録24章24~25節)
今日は使徒言行録の第24章24節から27節までを読みました。このところの使徒言行録の物語は、区切るのが難しいほど、息の長い物語が多いのですが、今日の個所は比較的短いと言いますか、物語と物語の谷間のような趣があります。こういうところは、とかく見過ごされがちなのですが、著者であるルカは、案外、こういう谷間のような個所に、大事なメッセージを潜ませていることが多いのです。そういうわけで、私たちは、今日の短い物語の中にルカが散りばめた福音のメッセージを、逃さないように気をつけて読み取って行きたいと思うのです。
さて、パウロの置かれた状況ですが、パウロはずっと囚われの身のままです。パウロはエルサレム神殿でユダヤ人の暴動に遭って、神殿冒涜の罪で殺されそうになったのです。そのパウロの命を救ったのは、意外にも、ローマ軍の守備隊の千人隊長リシアでした。ところが、隊長が駆けつけたのは暴動の最中でしたから、隊長はなぜパウロが囚われたのか、さっぱり分かりません。そこで彼は事の真相を究明しようと、最高法院の議員たちを招集して、パウロと対決させようと試みますが、会議は紛糾し、その混乱の中でリシアは、パウロがローマ帝国の市民権を持っていることを知らされます。これは粗略には扱えないぞと悟った千人隊長リシアは、パウロの身を手厚く保護します。
ユダヤ人たちはパウロ暗殺の陰謀を計画し、この計画が未然に漏れると、千人隊長はパウロの身柄を総督のいるカイサリアに移します。ローマから派遣されたユダヤ総督は、もうこの頃はエルサレムではなく、カイサリアにいたのです。それだけ、この短い間に、エルサレムは、総督が滞在を避けるほど、物騒な町になっていたということでしょう。
さあ、今やパウロの身柄は総督フェリクスに握られています。パウロを裁く裁判官はフェリクスなのです。ところが、これは歴史の事実ですが、ローマの裁判官はユダヤ人の訴訟を扱うのを嫌ったそうです。なぜかと言うと、他の民族なら、宗教上の事が裁判になることは、めったに無かった。ところが、ユダヤ人は宗教と生活が律法によって結び合わされていますから、当然、裁判にも宗教がからんでくるわけで、しかも、法廷ではローマの裁判官はユダヤ人から異邦人扱いを受けるわけですから、面白くないのです。そう言えば、あのポンテオ・ピラトも主イエスの裁判に関わることを嫌いましたね。
フェリクスも同様だったと思います。そこでフェリクスは、事情を把握している千人隊長リシアが来るまでは、裁判を延期することにした。火中の栗を拾うわけにはいかなかったのです。ところが、どういうわけかリシアは来なかった。そこで、パウロはフェリクスに拘留されたまま時を過ごします。ここにパウロとフェリクスの不思議な対話が生まれます。フェリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリストを信じる信仰について話を聞いたのです。フェリクスは以前から主の道を知っており、関心を持っていたのです。
ドルシラがユダヤ人であったと書かれています。つまり、彼女は律法のもとにあった人物なのです。しかし、彼女は離婚という律法違反を犯してフェリクスの妻となったといういきさつがあります。フェリクスが彼女を奪ったのです。ドルシラはヘロデ家の女性です。だいたいヘロデ家の人物は聖書の中では、すこぶる評判がよろしくありません。ドルシラもその例に漏れません。彼女はヘロデ・アグリッパの娘でありまして、25章13節に出て来るベルニケの妹に当たります。ドルシラはもともとアジゾスという王家の人の妻だったのですが、フェリクスがそれを引き離して、自分の妻にしたのです。そんな彼らがパウロから聞いた話は何であったか。こう書いてあります。
「しかし、パウロが正義や節制や来たるべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、『今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする』と言った。」
パウロは主として三つの事柄を話したようです。そしてその結果、フェリクスとドルシラ夫妻は二人とも、恐ろしくなったというのです。いったい、パウロは、どのような話をしたのでしょうか? さあ、パウロがフェリクス夫妻に語った三つの事とは、どういうことだったのか? そこが今日の物語の焦点になってまいります。
パウロはフェリクス夫妻に「正義」と「節制」、そして「来るべき裁き」を語ったと書いてあります。「正義」と「節制」、そして「裁き」です。ここに「正義」とありますが、これはじつは誤解を招きやすい翻訳です。正義というと、我々はすぐに「正義の味方」とか「正義感が強い人」とかいうふうに、人間の正義を連想しますが、じつはルカがここで使っているのは「義」という言葉なのです。もちろん、一言で「義」と言っても、大きく分けて「神の義」と「人の義」があるわけですが、パウロが信仰の話をするのに「人の義」を語ったとは考えにくいですから、おそらくここは「神の義」についてパウロは語ったと見るべきでしょう。そして二番目の「節制」というのもスポーツ選手がするような肉体の節制のことではなくて、私たち人間が「神の義」に応えて生きて行く新しい生き方のことを言っているのではないかと思います。そして三番目に裁きが語られていく。この順序はいったい何を表しているのでしょうか?
今日は使徒言行録と併せて旧約の申命記を読みましたが、この申命記という書物は、旧約の学者によりますと、ユダヤ教の古い礼拝の順序で書かれているのだそうです。どういう順序かと言いますと、一番初めにシナイ山に於いて起こった出来事を歴史的にずっと語った。つまり、神様がどんなにイスラエルを憐れんでくださったか、慈しんでくださったかということをずっと語ってきて、そのあとに、モーセが勧告をしています。つまり、モーセが人々に向かって「だから、あなたがたは神様の慈しみを忘れてはならない。いつでも神様を信じて従って行きなさい」ということを勧告する。
そして、そのあとで、じゃあ神様に従って生きていくためには、どうするか、と。ここで律法を語るわけです。神様はこうしなさいと言っておられますよ、と。そして、そのあとで、神様と人々が契約を結ぶ。そして言葉でこの契約を確認したあとで、モーセが犠牲の動物の血を取って、その半分を祭壇にかけ、半分を礼拝に来ている人々の頭にかける。そういう儀式をして、契約を締結したのです。そしてそのあとで、もしもこの契約を忠実に守るなら、神様はこういう祝福を与えてくださる。守らないならば、こういう呪いが来る、という具合に、祝福と呪いを語って、礼拝が終わる。これが古いイスラエルの礼拝の順序だったのです。まず神様が与えてくださった恵みを確認して、次に勧告があって、そして律法が語られ、それを受け入れますという約束をして、最後に祝福と呪いがある。
いかがでしょうか? パウロがフェリクス夫妻に語った信仰の話の順序と似ていますでしょう? 神の義が語られ、次にそれに応えて生きる新しい生き方が語られ、最後に来るべき裁きが語られる。もちろん、パウロが語ったのは、申命記が語るような古いイスラエルの事ではない。キリストによって全く新しくされた救いの中身を語っていると見るべきでしょう。ではなぜ、パウロはキリストによる救いの中身を語るために、わざわざ申命記の古い礼拝のモチーフを借りて来たのか? どうも、そこが分かりません。
けれども、私たちから見ると、申命記という書物は旧約の古い書物ですが、ユダヤの人々にとってみれば、申命記というのは特別の書物なんです。こんな御言葉があります。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
この御言葉が語るように、申命記という書物は、礼拝の心を語る書物なんです。礼拝の心とは何でしょうか? それは「昔々、こういうことがありました」というふうに救いの出来事を過去の事として追想するのではなくて、神様の救いの御業を今の事、今日の事として経験することです。だから、今日読んだ29章に、こんな御言葉があったでしょう?
「今日、あなたたちは、全員あなたたちの神、主の御前に立っている。」
今日なのです。「昔々あるところに」ではない。「今日、ここに」なんです。そして、この「今日、ここに」という申命記の特別の性格をそっくり受け継いだのがルカだったのです。だから、ルカ福音書には、こんな御言葉があるでしょう?
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」
「はっきり言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。」
パウロがフェリクス夫妻に語ったのも、これであったと思われます。あなたがたは牢に入れられている私を勝手気ままに呼び出して、信仰の話でも聞いてみるかと思ったかも知れない。しかし、あなたがたは今日、主の御前に立っている。神様の前に立つというのは、今日の事、今の事なのです。過去の事ではない。
アブラハムという人がいます。そのアブラハムの所に神様が現れて、御自分のことを何と言われたか? 「私は全能の神である」と、そうおっしゃった。ところが、アブラハムの孫であるヤコブの所に神様が現れなさったときに、何と言われたでしょうか? 「私はあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である」と言われたですね。ヤコブという人は、おじいちゃんのアブラハムやお父さんのイサクから話を聞いて、神様のことは知っている。神様はこういうお方だ、こういうふうにしてくださったのだと、聞いて知っている。つまり、初めて神様のことを聞くわけではないのです。知っている。予備知識があるのです。
ところが、聞いて知っている、聞いて信じているというのは、過去の事として聞いている。過去の事として信じているのです。これは言い換えますと、まだ本当の意味で神様と出会っていないということです。ところが、そんなヤコブに神様は現れてくださって、声をかけてくださいます。神様は何と言われたでしょうか?
「私はアブラハムの神、イサクの神、主である」と御自分を示してくださったのです。私は、あなたがおじいさんやお父さんから聞いている、アブラハムの神、イサクの神なんだよと言っておられるのです。日本語の翻訳では分かりにくいですが、じつは、ここは全部現在形なのです。つまり、神様は「私はアブラハムの神でした」と言っておられるのではない。
もちろん、アブラハムはとっくの昔に亡くなっています。しかし、神様は過去形ではおっしゃらない。「私はアブラハムの神でした」とは絶対に言われない。強い意志を持って「私は今なおアブラハムの神であり、イサクの神であり続けている」と、そう言われるのです。なぜでしょうか? 神様は、アブラハムを過去の人になさらない。イサクを過去の人になさらないのです。アブラハムの手を離しておられない。イサクが死んだからと言って、イサクの手を離したりはなさらないのです。これは私たちについても言えることです。私たちも、いつの日か、必ず死ぬでしょう。しかし、神様は私たちを過去に押しやることをなさらない、ずっと手を離さないで、よみがえりの日まで、手を取っていてくださる。
聖書全巻が語る真理が、ここにあります。聖書が語っているのは過去の一頁ではない。聖書は神様の過去のアルバムではない。「ああ、こんな人もいたね」、とか、「そう言えば、ああいう人たちもいたよね」というのではない。今、今日の事です。だから、申命記は言います。
「今日、あなたたちは、全員あなたたちの神、主の御前に立っている。」
今日です。今なのです。今、あなたがたは、あのモーセに語りかけ、イスラエルの人々をエジプトから導き出した、あの神様の前に立っている。主イエスを甦らせた、その神様の前に立っている。そしてこの礼拝が行われている。パウロはフェリクス夫妻に、そこまで語ったのではないかと思います。だからこそ、フェリクスは、聞いていて恐ろしくなったのです。
このフェリクスの反応は、私は間違ってはいないと思います。神様の前に立つというのは、ある面、空恐ろしいことだからです。聖なるお方の前に出るのです。イスラエルの人たちは恐ろしさに震え上がりました。ちょっとでも私たちは神様の言葉を聞くことが出来ませんので、モーセさん、どうそあなたが代わりに聞いてください。私たちは、あなたが取り次いでくださるお言葉を、神様のお言葉として聞きますから、どうか直接神様にお会いすることだけは勘弁してくださいと言いました。そこまで神様の前に出ることは厳粛なことだったのです。
もちろん、主イエスが来られてから、私たちの神様に対する思いは、ただの恐れではなくなりました。イエス様は、神様を「天の父」と呼ぶことを教えてくださったからです。それでも、神様にお会いするというのは、ただの人に会うのとは違います。罪人である私が、神様の前に立っている。これは得がたい特権であり、恵みです。私たち罪人が何の憚りも無く、礼拝に出ることが出来るためには、私たちの罪を丸ごと贖い取って、御前に清い者として神様の前に出ることが出来るようにしてくださった、イエス・キリストの十字架の御業がどうしても必要だったのです。それ無しに神の前に出ることは、イザヤが「災いだ。私は滅びるばかりだ」と言ったように、恐ろしいことなのです。それを、恐れることなく御前に近づこうではないかと言えるようになったのは、ひとえにキリストの十字架の恵みです。私たちは今日、何気なく礼拝に出て来たかも知れません。しかし、今はどうですか? 違いますね。今、ここに共に集い得たことが、どんなに得がたい恵みであることか。私たちはこの恵みに心からの感謝をもって応えたいと思います。
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