聖書:アモス書8章11~14節・ルカによる福音書12章13~21節
説教:佐藤 誠司 牧師
「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り、北から東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが、見いだすことはできない。」 (アモス書8章11~12節)
「しかし、神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。そうしたらお前が用意した物は、いったい誰の物になるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者は、このとおりだ。」(ルカによる福音書12章20~21節)
今、私たちは礼拝で旧約聖書を続けて読んでいます。今日は旧約聖書の終わり近くに収められた十二の小預言書の一つ、アモス書の御言葉を読みました。今の世界に大きなメッセージを放つ御言葉であると思います。
戦争が絶えない時代です。一旦戦争が始まると、全く抑制が効かない。戦争をやめることも、止めることも出来ない人間社会です。私は、今の世界を見るにつけ、創世記第3章に記されたヘビがエバを誘惑するお話を思い起こします。ヘビがエバに近づいて、善悪を知る木の実を食べるよう勧めます。エバが「これを食べると死ぬから、食べてはいけないと神様に言われたのだ」と答えますと、ヘビはこう言いました。
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存じなのだ。」
ヘビが狙いを定めて来た言葉です。これはじつに巧みな言葉です。神様は「善悪を知る実を食べたら死ぬ」とおっしゃった。ヘビは「いや、死なない」と言った。死なないで、どうなるかと言うと「神のようになる」と言った。人間が神様のようになったら、もういちいち神様に導かれなくても、何事も自分でやれるわけです。もう神様は要らない。このヘビの言葉は、嘘ではないのです。実際、木の実を食べた二人は死ななかった。だから、死なないということも嘘ではない。神のようになるというのも、嘘ではなかった。実際、人間は神のようになった。じゃあ神様は嘘を言ったのかというと、そうじゃない。神のようになるというのが、人間にとって「死」であった。これは、御伽噺のような形で言われていますが、中身はむしろ、大変に深い真理を言い表していると思います。
人間は神のようになって死ぬのだという真理は、人間の知恵からは絶対に出て来ない。人間が神様のようになるんだから、結構なことではないかと誰もが考えます。実際、人類はその方向にまっしぐらに進みました。そして、今までは神様の領域だと思っていたことの中に、人間の知恵がどんどん足を踏み入れています。本当に薄気味悪いほど、人間は神様に近づいて、まさにヘビが言った通り、人は神のようになった。
しかし、それで地上に平和があるだろうか。神様をパージしたこの世界に、はたして祝福はあるか。これは今の私たちが考えなければならないことだと思います。神を畏れることを忘れて、人間と人間の力関係だけで物事が進められて行く。その一歩一歩が確実に死に向かっている。これが神のようになった人間の行き着く先だと思わされます。
今日は十二小預言書の一つ、アモス書の御言葉を読みました。「十二の小さい預言書」と書いて「十二小預言書」と呼びますが、内容は決して小さいものではありません。中でもアモス書は、現代社会に対する鋭い警告に改めて目が覚める。そういう書物であると思います。こんな御言葉です。
「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」
いかがでしょうか。「ぐうの音も出ない」とは、まさにこのことで、これは今の私たちの世界に向けられた警告の言葉であると思います。モノは豊かにあります。しかし、飢饉が来ている。モノに飢え渇く飢饉ではありません。神の言葉を聞くことの飢饉です。アモスは続けて語ります。
「人々は海から海へと巡り、北から東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが、見いだすことはできない。」
昔、多くの日本人があこがれたものに「三種の神器」と呼ばれたものがあります。電気洗濯機と電気冷蔵庫と白黒テレビだったかと思います。中でも電気洗濯機が我が家に入った時の、母と祖母の喜びようは、一通りではなかったのを憶えています。それまで、洗濯といえば、母や祖母がたらいに水を汲んで、洗濯板を置いて、その前にしゃがみ込み、長い時間、無理な姿勢で、ひたいの汗を拭いながらやっていた。ですから、電気洗濯機が入った時の喜びと感謝は、ただ事ではなかった。
ところが、時代が進むにつれて、社会全体が変わって来た。国全体で、果てしない幸福追求の歩みが始まりました。確かにモノは立派になって行ったのです。しかし、あの頃は確かにあった喜びや感謝は、徐々に薄れて、なんだか当たり前の感覚が生まれました。そして、満たされない思いが芽生え始めました。何かが足りない。つまり、満たされていないのです。いったい、何に満たされないのか。それが分からないのです。どうしてなのでしょうか。
それは、今の人間社会が神様をパージして、自分が神のようになったからではないか。自分が神のようになっているから、「私には神様がおられる」ということが分からないのです。私たちは伝道する時、「この人は求めている」とか「あの人は求めていない」とか言います。しかし、そういうことは、根本的なことではない。求めている、求めていないというのは、その人の主観の問題、自覚の問題です。浅いレベルの問題です。ところが、神に創造された人間には、もっと深いところがあって、その人が求めている求めていないに関わらず、本当はすべての人が神様を求めて、あえいでいる。そして、その神様に出会えないがために、満たされないで、疲れ果てている。これが聖書が本来的に持っている人間観です。
使徒言行録の17章に、パウロがアテネの人々にメッセージを語る場面があります。アテネの人々は偶像をたくさん作って、それを拝んでいました。しかし、パウロはそれを咎めることなく、むしろ、あなたがたは知らずに、まことの神様を求めているのだと言いました。そして、「あなたがたが知らずに拝んでいるお方をお知らせしましょう」と言って、まことの神様について語りました。あれが、じつは聖書の人間観です。ですから、人間は神様に立ち帰らなければ、本当の平安もなければ、祝福もない。アテネの人たちも、そうだった。まことの神様を知らないがために、平安がない。満たされない。だから次々と偶像を造る。これが人類にとっていちばん根源的な問題です。
ルカによる福音書の12章に、イエス様が語ってくださった譬え話があります。「愚かな金持ち」の譬えです。ある金持ちの畑が豊作だった。もうこれまでの蔵には入り切らないので、古い蔵を取り壊し、もっと大きな蔵を建てて、収穫を全部新しい蔵に収めた。そして彼は自分の魂に言い聞かせた。
「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えが出来たぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。」
そうしますと、神様がこう言われた。
「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。そうしたらお前が用意した物は、いったい誰の物になるのか。」
これは、じつはこの金持ちだけの話ではない。人間が血を流し、汗水たらして築き上げて来たこの文明、この繁栄というものは、いったい誰のものになるのか。イエス様は、この譬え話の最後に、次のように言われました。
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者は、このとおりだ。」
いかがでしょうか。イエス様の譬え話というのは、一筆書きのイラストに似ています。神の前に豊かになることなく、自分のために蓄える富に執着する人間の姿を、非常に鮮やかに描いている。私たち人間は、自分の姿がなかなか分からない。そんな私たちに、イエス様は「お前の姿は、こうだぞ」と、一瞬の一筆書きで、ズバリと示してくださった。それがこの譬え話だと思います。しかし、だったら、私たちは、どうすれば良いのか。神の前に豊かになるとは、そもそも、どういうことなのか。
アメリカから渡って来た教会行事の一つに、収穫感謝祭があります。私が中学生になって、わくわくする思いで英語の教科書を開いた時、一番初めの見開きページに、アメリカの年中行事がカラーのイラスト入りで書かれていました。その中に、11月の行事としてサンクスギビングデイというのがあって、白人の少年とインディアンの少年がナイフとフォークを持って、嬉しそうに一つのテーブルに着いている。「これ、なんですか」という私たちの質問に、英語の先生が、こんなお話をしてくれました。
1620年、102人のピューリタンの人たちが信仰の自由を求めてイギリスからメイフラワー号に乗ってやって来た。それが11月の中頃です。この人々は先住民族のインディアンの人々を追い払って土地を手に入れ、耕して、故国から持って来た野菜の種を植えるのですが、気候風土が全く異なるものですから、作物が全く育たなかった。102人の内、半分の人たちが栄養失調や病気で死んでいきました。失意の中にある時に、インディアンたちがやって来た。仕返しに来たのかと身構えると、そうではなかった。インディアンの少年が手のひらに握っていたのは、石つぶてではなく、トウモロコシの種でした。その種を、インディアンの人々が教えてくれたとおりに蒔くと、豊かな収穫があった。
その収穫を得て、この人々が最初にしたのが、 感謝の礼拝でした。そして、人々は感謝の食卓を囲んだのですが、彼らは、この食卓にインディアンの人々を招待した。アメリカという国は、神様への感謝の礼拝と、和解の食卓を土台にして発展したのだと、この先生は教えてくれたのです。
私は、この先生のしてくれたお話は、多少美談調ではありますが、アメリカという国が実際に持っているものの中で、最も優れた要素を際立たせて語ってくれたものと思っています。そして、アメリカのこの最も優れた要素は、北米の宣教師たちによって、やがて日本にもたらされ、私たちプロテスタント教会の中に引き継がれていると思います。それは、あの102人の人々が命がけで守り通したもの、ピューリタニズムにほかなりません。ピューリタニズムの中心は礼拝です。彼らは知っていたのです。どんな困難の中にあっても、神に感謝をささげる礼拝から始める。すると、必ず道は開ける。
今、世界は一つの曲がり角に来ていると思います。人間が造り上げた文明は、人間の制御力をはるかに超えて、もはや制御不能なレベルに達すると同時に、先が見えて来た。いったい、どうしたら良いのか。人間の知恵では答えは出ないでしょう。答えはキリストの言葉の中にある。あの放蕩息子は、父親から離れて、好き放題をやりました。しかし、にっちもさっちも行かなくなった。その時、彼はどうしたでしょうか。一切を振り捨てて、父のもとに帰ったのです。私には父がいたのだと、初めて気が付いた。これは放蕩息子一人のこととして語られていますが、じつはイエス様は、人間そのものを、この放蕩息子に譬えて、語っておられます。つまり、この譬え話は人類全体の悔い改めが必要になってくる。そういう時代の到来を語っておられるのです。
ヘビの誘惑に負けたアダムに、神様は「地はあなたのために呪われる」と言われました。人間が神様を押しのけて、自分の知恵で立とうとした時に、地は呪われたのです。その呪いを、今、私たちはまざまざと見ております。まさにこの地球が死の世界になり果てようとしています。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者は、このとおりだ」と主イエスは言われました。
私たち教会は、この世界が贖われるために、執り成しの祈りをしなければならないと私は思います。少数派の我々が、なにを大それたことをと思われるかもしれません。しかし、私たちの信仰の先輩は、たった102人でアメリカの土台を造ったのです。神はその独り子をお与えになったほどに世を愛してくださいました。悔い改めに遅すぎることはない。そのことを信じて、世界のために執り成しを祈る。そこに私たちキリスト教会の務めがあると思うのです。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
9月22日(日)のみことば
「主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工。わたしたちは皆、あなたの御手の業。」(イザヤ書64章7節)
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(ヨハネ福音書15章1節)
この有名な言葉によって幕を開けるヨハネ福音書の15章は、主イエスと弟子たちの最後の交わりを描いた章です。次の日には、イエス様はもう十字架につけられる。別れが迫っているのです。その一点を心に刻み付けて読みますと、ここで言われていることの尊さが、なお一層よく解ると思います。つまり、イエス様は「別れ」を前にして、互いにつながることをお求めになったのです。ということは、どうでしょう? イエス様がおっしゃる「つながり」というのは、死が引き裂くことの出来ないものということになります。主イエスは続けて語られます。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。(中略)わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」
「つながる」という言葉が畳み掛けるように出て来ていますが、その登場の仕方に一つの特徴があることにお気づきでしょうか? 最初は「命令」として、次に「約束」として出て来ています。最初の「私につながっていなさい」。これは命令です。次の「私もあなたがたにつながっている」。これはもう「命令」ではありません。「約束」なのです。じつは、これがイエス様の命令の大きな特徴なのです。イエス様というお方は、命令だけを下すようなお方ではないのです。命令と共に必ず「約束」をお語りになる。その約束を聞き取ることが大事です。