聖書:イザヤ書53章1~12節・ルカによる福音書23章32~38節
説教:佐藤 誠司 牧師
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。渇いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」(イザヤ書53章1~7節)
今日はイザヤ書53章の御言葉を読みました。ここは第二イザヤにいくつかある「主の僕の歌」の中でも、最も鮮やかに僕の御業を描いたもので、「苦の僕の歌」と呼ばれる箇所です。この歌は、こんな言葉で始まります。
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」
これは何を言っているかというと、主イエス・キリストの受難を通して神様の救いが成し遂げられたというのが福音の中心です。ところが、その福音を聞いて、誰が信じることが出来るであろうか、と預言者自身が驚いている。疑念をあらわにしているのです。それほどに、前代未聞のことが起こるのだと、預言者は驚きを隠さない。預言者は続けて言います。
「渇いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。」
若枝という言葉が出ています。私たち日本人が若枝と聞きますと、何かみずみずしい、生命力に満ちたものを連想するかもしれません。ところが、イザヤ書が言う若枝というのは、そういうものでなく、からからに乾燥した砂漠地帯で、命からがら、やっと芽を出している、必死になって生きる闘いをしているような若枝のことです。ほこりだらけの、傷だらけの芽吹き。そういうふうにして、彼はこの世に現れたのだと第二イザヤは語ります。続いて彼の容姿について、第二イザヤはこう語っています。
「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」
いかがでしょうか。救い主と聞きますと、私たちは自分のイメージで、何か神々しい姿、美しい容姿の人物を連想します。それは必ずしも私たちの勝手なイメージとも言えないのでして、旧約聖書は神に選ばれた人を描く時、「美しかった」と書くことが多い。ヨセフやダビデなどは顔だけでなく、肉体も美しかったと書いてあります。神様に選ばれた人は美しいのだという考え方が、旧約聖書には根強くあるのです。ですから、第二イザヤが、神に選ばれたこの僕について「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」と述べているのは、大変に珍しいことです。これは、この僕が神に選ばれた僕ではありますが、その選ばれ方が普通ではない、尋常ではないことを示しています。
では、この僕は、いったい、どういう選ばれ方をしたのでしょうか。3節と4節に、それは記されています。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」
この最後に、この僕が神に選ばれた、その選ばれ方がハッキリと書かれています。
「神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいる。」
かつて、このような選びがあっただろうか。この一点に、第二イザヤは驚きの叫びを上げたのです。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」と言われています。「病を知る」とは、どういうことでしょうか。私たちが「知っている」と言う場合、同じ経験をしたから分かるとか、別々の道、別の人生を歩んでいるけれど、同じような経験をしたから分かるという意味で使うことが多いと思います。「私もあの病気は知っていますよ」とか言うのは、そういう意味です。
ところが、第二イザヤが言う「病を知っている」というのは、そういう他人行儀なことではない。別々の道ではない。私のいるところに、この僕もいる。私の病の中に、この僕は共にいる。この僕は誰かというと、これはもうイエス・キリストを措いてほかはないわけです。
皆さんは「インマヌエル」という言葉をご存じでしょうか。これは旧約聖書以来の古い歴史を持つ言葉ですが、長い間その本当の意味が分からなかったのです。とは言え、言葉の意味そのものは分かっていた。「神は我らと共におられる」という意味だと分かってはいたのです。ところが、聖書の大切な言葉というのは、国語辞典を調べて意味が分かれば、それで「はい、分かりました」というものではない。「インマヌエル」という言葉も、そうだったのです。言葉の意味は分かっていた。「神は我らと共におられる」ということだと分かっていたのです。ところが、それがどういうことなのか。それがイエス様が来られるまでは分からなかったのです。
では、イエス様の到来によって分かった「インマヌエル」の本当の意味とは、どういうことなのでしょう。先ほど、「病を知っている」という3節の御言葉についてお話をしました。普通、ある人に私たちが「私もその病を知っています」と」言う場合、私はその人と別々の人生を歩んでいるけれども、私もその病をやったことがある。経験がある。だから「その病を知っていますよ」と言えるのだと、そういうお話をしました。その場合、二人は、どこまで行っても別々の道であり、別の人生なのです。
ところが、イエス様は、そうではない。私と同じ病の中に、私と共にいてくださる。「インマヌエル、神は我らと共におられる」とは、そういうことです。私が病の中にある時も、どんな苦しみの中にある時も、そして、私がどんなに深い罪の中にある時も、そこに一緒にいてくださる。詩編の139編が、このことを次のように歌っています。詩編139編の8節です。
「陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」
いかがでしょうか。陰府に落ちても、なおそこに、主がおられる。陰府というのは、死んだ人が必ず行くところです。陰府には望みが無いと言われます。天の光も、陰府には届かないとも言われます。ですから、陰府に落ちたら、もう望みは無い。もう滅びしか無いと、誰もが思う。
ところが、そこに、主はおられる。私と共におられる。この詩編の言葉は、長い間、その意味が分からなかった。陰府にまで共にいてくださる救い主が、本当におられるのか。これは詩編の詩人の言葉の綾ではないかと、多くの人が困惑し、疑った言葉だったのです。
ところが、主イエスは本当に陰府にまで落ちて行かれた。すべての罪人が落ちて行く陰府に、主イエスは落ちて行かれた。罪人と同じ道を、主はたどられた。それが十字架の受難が持つ、大きな意味です。さらに5節に、このように書いてあります。
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。」
十字架の上で、主イエスは「我が神、我が神、なにゆえ、わたしをお見捨てになったのですか」と言われました。あれは地獄に落ちる者の叫びです。神様に見捨てられた人間の、なんとも言えない悲痛な叫びが、神の御子の口から出たのです。「なにゆえ、わたしをお見捨てになったのですか」と言われました。これは、理由を尋ねておられるのではない。絶望の叫びです。罪を犯したことのない神の御子が、どうしてこのような絶望の叫びを上げなければならなかったか。それは、このお方が私たちの罪を負うたからです。私たちが絶望の叫びを上げている、そこに主イエスが一緒におられて、絶望の叫びを一緒になってあげておられる。「インマヌエル、神は我らと共におられる」の究極の姿が、ここにあります。
そして「インマヌエル」には、もう一つ、大事な側面があります。皆さんは「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という主イエスの言葉をご存じのことと思います。この言葉のすぐ後で、主イエスはこう言っておられる。
「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」
軛というのは二頭の牛を、首の所でつなぎ合わせる農機具です。そう聞きますと、軛なんてたまらん。いい加減、自分の人生を生きていくだけで、しんどいのに、その上イエス様の軛まで負わされてたまるか。だからキリスト教はいかんのだと、そう思う人は多いと思います。けれども、私たちがイエス様の軛を負いに行くのではない。逆なんです。私の軛を、イエス様が負うために来てくださった。私の罪の軛、悩みの軛、悲しみの軛をイエス様は一緒に負うてくださる。それを、イエス様は敢えて「私の軛」と呼んでおられるのです。なぜでしょうか。つながれて歩む、その歩みを導いてくださるのは主イエスだからです。そして、その歩みは十字架まで続く。主が共に負うてくださる軛の最後が十字架です。6節に、こう書いてあります。
「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」
さあ、ここで初めて「罪」という言葉が出て来ました。これまで、第二イザヤは、私たちの罪を直接には言わずに、「痛み」とか「病」「背き」「咎」という言葉に言い換えて語って来たのですが、ここで満を持したかのように「罪」という言葉を出してきた。それほど、ここは大きなことが言われている、ということです。主なる神は、私たちの罪をすべて、この僕に負わせたのです。ここから第二イザヤは、この僕の過酷な死の有様とその真相を語って行きます。
「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」
いかがでしょうか。私は、こういうところは一切の解説無しで、素読するのが一番だと思います。素読する中で、十字架に向かって歩む主イエスの姿が見えてくるというのが醍醐味なんです。9節に、注目すべき言葉が出て来ます。
「彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」
これは実際にあったことです。主イエスの十字架を見た人は多かったのです。しかし、このお方が私たちの罪の赦しのために死んだのだと、誰が思い巡らしただろうか。誰も思わなかったのです。そしてこれは、11節以下へとつながっていきます。
「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しいとされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」
この僕は黙って死んで行った。それが主なる神の望まれたことであった。それゆえに、この僕は多くの人を戦利品として受ける。戦利品というのは勝利の証しです。主イエスが十字架で死なれたのは、勝利であった。罪と死に対する勝利だったのです。そして、この勝利によって贖い取られたのが、私たちです。「インマヌエル、神は我らと共におられる」の究極の姿が、ここにあります。十字架の主が私たちと共にいてくださって、共に歩んでくださる。このことを知ることが、私たちの信仰を生かす命になります。そして、このことを礼拝のたびに繰り返し知っていくことが大事です。「まことに主が共におられるのに、わたしは知らなかった」という驚きの連続が私たちを天へと導きます。そのことを信じて、今週も礼拝から始まる一歩を踏み出したいと思います。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
8月25日(日)のみことば
「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。」(旧約聖書:イザヤ書40章1節)
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」(ローマ書3章21節)
今日の新約の御言葉はローマ書の前半の山場とも言うべき大切な箇所です。「ところが今や」という言い方が、目を引きます。「今や」という言葉は、一つには、今まで話してきたことと全く別次元のことをこれから話す、そういう気持ちが込められています。しかし、それだけではなくて、かつて無かったものが生じた、特別な出来事が起こったと、そういうことをパウロは語ろうとしているのです。それは何かというと「神の義が律法とは関係なく示された」ということです。
これまでパウロは、人間がいかに深く罪に支配されているか、その絶望的な状態を語りました。そこで何が問題になってきたかと言うと、「人間が神様の前で義とされる」ということが問題になってきたのです。つまり、人間の側が問われてきたわけです。ところが、今日の箇所では「神の義が示された」となっています。人間の側ではない、神様の側のことが、ここで語られている。これが今までとは違うところです。「神様の義」が示される。じつはこれが福音の原点なのです。