聖書:詩編2編1~12節・マタイによる福音書3章16~17節
説教:佐藤 誠司 牧師
「天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲り、憤って、恐怖に落とし、怒って、彼らに宣言される。『聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた。』主の定められたところに従って、わたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子。今日、わたしはお前を生んだ。』」 (詩編2編4~7節)
「イエスはバプテスマを受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(マタイによる福音書3章16~17節)
待降節の第二の主日を迎えました。この日、開かれている御言葉は、詩編の第2編の御言葉です。一読しただけで、大変に劇的な表現がしてあることが判ります。一方で神に逆らう人々の姿が描かれており、それに対して神様が厳然として主権を貫かれる。そういうドラマチックな対決が描かれています。
1節から3節にかけて、その劇的な対決が語られています。地上の王たちや支配者たちが主なる神様に逆らい、主の油注がれた方に逆らっている。そう語られています。この「主の油注がれた方」を誰と理解するかが、一つ大事な点です。「油注がれた方」というのはメシアのことです。このメシアをギリシア語にしますと 「キリスト」になる。そこで、この「主の油注がれた方」をキリストのことなのだと理解するのが、私たちキリスト教会の伝統的な読み方になりました。ということは、どうでしょう。この1節から3節は、地上の王たちや支配者たちは、すべからく神様と神の御子キリストに敵対していると、そう語っていることになります。
このように考えますと、この詩編は大昔に書かれたものではありますが、今の世界の現状を映し出したものであることに、改めて気づきます。今の時代というのは、神様を無視するというよりは、それがさらに進んで、神様を押し出している。相撲の決まり手に「押し出し」というのがありますね。取り組みの相手を土俵から追い出す決まり手です。
人間の知恵や知識、技術というものが果てしなく広がって、何でも自分たちで出来る。神様を畏れ敬うなんてことは、幼稚で幼いことであって、どんなことも自分たちでやって行ける。そんな思いが人間の心と魂を支配しています。これらは皆、神という存在を土俵から押し出してしまった結果だと思います。何事も人間が主人であり、支配者である。その結果、どうなったかと言うと、人間が作り出した文明や技術が、今度は人間の命や存在そのものを脅かし始めた。
これはどういうことかと言うと、自分の人生を考える時に、神がおられるということを土台にして考えて行く、生き方を決めて行く、そういうことを捨ててしまったということです。これが今の時代の真相であると思います。
ところが、この詩編は4節から6節にかけて、そういう人間の欲望を神様が拒否なさったということが書かれています。
「天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲り、憤って、恐怖に落とし、怒って、彼らに宣言される。『聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた。』」
神に逆らう地上の王たちに対して、神様が新しい王、まことの王を即位させたのだと言われています。ここで私たちが読み過ごしてはならないのは、このカッコにくるまれた部分「聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた」という部分です。このシオンというのはエルサレムのことです。つまり、神様はエルサレムにまことの王を立てたということになります。これを素直に読めば、神に逆らう王たちや支配者たちに対して、神様は世界を支配する王をエルサレムに立てて世界を統一するのだと、そういうふうに読めるわけです。
ところが、歴史を振り返れば明らかですが、そんなことは一度も起こらなかったのです。ダビデ王やソロモン王の時代、イスラエルは栄えたように見えますが、あれとても、ほんの小さいパレスチナのことですし、それ以降イスラエルは衰退の一途をたどった、というのが歴史が教える事実です。世界を支配する王がエルサレムに立てられたという事実はないのです。
それでは、この詩編が語っているのは、単なるユダヤ人の夢なのか。ユダヤの人々が辛い現実を忘れるために書いた夢物語なのでしょうか。現実を見れば、そうとしか思えないですね。しかし、この詩編を読んでいて、私たちには、一つ、はたと思い当たることがあります。それは7節の言葉です。
「主の定められたところに従って、わたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子。今日、わたしはお前を生んだ。』」
この御言葉が新約聖書の福音書の決定的な場面に出て来るのです。それが今日読んだマタイ福音書の第3章の17節に記されています。
「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」
これは、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになった時に、天から聞こえた声です。このカッコにくるまれた部分が、詩編の言葉と全く同じではありませんが、詩編第2編の引用であると思われる。
そして、もう一か所、同じような言葉が、山の上でイエス様の姿が光り輝いた「山上の変貌」の物語にも出て来ます。驚く弟子たちに、天からの声が聞こえた。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。あなたがたはこれに聞け。」
これも天からの声でした。この「愛する子」というのが誰のことなのか。それはもう明らかだと思います。神様はイエス様を「わたしの愛する子」と呼んでおられる。神様はこの独り子を通して、この世に御心を行い、この世界を御心のままに支配しようとしておられる。このことが、詩編の第2編では大変に劇的に描かれていましたが、この同じことが実際の歴史の中で事実として実現していく。それはいったい、誰によってなされるのか。先ほど私は2節の「油注がれた方」というのは「メシア」のことであり、これを「キリスト」のことだと理解するのがキリスト教会の伝統的な読み方だと言いました。実に、イエス・キリストにおいて、この詩編に言われていることが実現したのです。
ですから、この詩編は、没落したユダヤの人々が過去の栄光を振り返って心に描いた夢物語などでは決してなく、神を土俵から押し出したようなこの世界に、神が主権を確立される。御子イエス・キリストにおいて確立される。そのことを宣言しているのが、この詩編です。
この詩編のいちばんの中心はどこかと言いますと、やはり6節の「お前はわたしの子。今日、わたしはお前を生んだ」という言葉でしょう。先にも言いましたが、このシオンというのはエルサレムのことです。正確に言えば、エルサレムの町が立っている山がシオンという山なのです。そこに「我が王を即位させた」と神様は言われるのですが、いったいどのようにして、神様は王をお立てになったのか。そこが第一の鍵になります。世界を従わせるような王、例えばアレキサンダー大王やジンギスカンのような覇者としての王はエルサレムに立ったことはないのです。じゃあ、いったい、どのような王がエルサレムに立てられたのか。
ここで思い出すのが、主イエスのエルサレム入城です。主イエスはロバの子に乗ってエルサレムにお入りになりました。あの姿はじつは旧約の預言書に記された「柔和な王」の姿です。そして、主イエスの十字架の上に掲げられた「捨て札」と呼ばれる罪状書きに、何と書かれていたでしょうか。そう、「ユダヤ人の王」と書かれていました。エルサレムに立てられた王とは、十字架のキリストのことだったのです。何の抵抗もせずに鞭打たれて、惨めに殺されていったキリストこそ、神様がシオンに立てた王だったのです。
主イエスがヨハネから洗礼を受けられた時、神様は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われました。神様の御心に適う王であるイエス・キリストが神の御心に適って、どういう道を歩まれたか。十字架への道を歩まれた。そして、十字架で死ぬことによって、この世に神の主権を確立された。これが神様の主権の在り方です。こういう主権があるなんて、誰も思いもよらなかった。だから、イエス様の弟子たちも、全く理解しなかった。十字架の死が神の主権だなんて、考えたこともなかったのです。
理解しなかっただけでなく、弟子たちは、こんなこともやっています。弟子の仲間内で順位争いがあったのです。ただの順位ではありません。彼らは、主イエスが王位に就いた時に、誰が主イエスの両側に座るか、その席次争いに熱中していたのです。そんな彼らに、イエス様はおっしゃいました。
「この世の国では王が民を支配し権力を振るう者が崇められている。しかし、あなたがたはそうであってはならない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、皆に仕える者となり、上に立つ人は、いちばん下の者になりなさい。」
主イエスが弟子たちに言われた言葉ですが、これをそのまま実践なさったのは、主イエスお一人でした。世の中にはいろんな悪があります。こんなこと、赦すわけにはいかん、と腹を立てたり、憤ったりすることが増えました。私たちは、それを非難したり、法によって裁いたりしますが、そのような人間の罪や、その罪の犠牲になった人たちを、いったい誰が本当に責任をもって回復するでしょうか。出来ないのです。この国のやることは、悪い事をした人間を捕まえて死刑にしたり、被害者に補償をしたり、そんなことぐらいしか出来ない。そのくらいのことで罪の始末をつけたと思っているのが、この世の国家です。しかし、神様は人間がするような中途半端な責任の負い方ではなく、誰も負うことが出来なかった罪を御子イエス・キリストが負う。そして十字架で死ぬという仕方で始末をつけてくださった。
そして、「死んだらおしまいだ」と誰もが思っている時に、神様は御子を復活させて、新しい命に生きる道を開いてくださいました。御自分だけが復活されたのではありません。「初穂」として復活された。後に続く者があるのです。そして、私たちが重荷に感じているこの肉体にも、新しく生きる道を開いてくださいました。肉体というのは、存外に厄介な重荷になるものです。若い頃は気にならないことが、少しずつ重荷となってきます。いくら長生きしても、ちっとも幸せではない、なんてことが起こってきます。
ところが、キリストは私たちに「体の贖い」ということを約束してくださいました。「あなたがたの体が贖われる。肉の体が栄光の体に変えられる」という約束を、復活のキリストが御自分の体によって示してくださったのです。こうして、今日私たちが持っている科学とか文明では、どうしようもない根本的な問題をことごとくキリストが負うて解決なさった。この解決によって、神の支配というものを確立なさる。それは力と武力による支配ではなく、愛と恵みと贖いによる支配を確立なさった。それがこの詩編に言われている「聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた」ということの意味です。キリストの十字架は、敗北にしか見えなかった。惨めな死に様だったのです。しかし、それこそが、神が深い知恵をもって私たちのために備えてくださった救いです。これを信じるか、信じないか。それが私たちの人生を決定します。
詩編は10節から、すべての地上の王に悔い改めを迫ります。
「すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。畏れ敬って、主に仕え、おののきつつ、喜び躍れ。子に口づけせよ。」
本当の知恵というものがあります。それは神様を土俵から押し出して成り立つ人間の知恵ではありません。イエス・キリストにおいて現わされた神様の福音の恵みを受け取って、そこから生まれて来る愛に基づく知恵というものがある。聖書が指し示す知恵とは、本来、そういうものです。神様によらないで立てた人間中心の計画は、いつの日か、必ず滅びます。今まで起こった強大な国々、世界を征服して永遠に続くと思われた国で、滅びなかった国は、一つでもあったでしょうか。主イエスは「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われました。人から出たものは必ず滅びるといことです。
神様がイエス・キリストの十字架において現わしてくださったこの秘儀の前に、私たちはもう一度膝を屈め、へりくだって学ばなければならないと思います。そのことを詩編第2編は、次のように言い表しています。
「いかに幸いなことか。主を避けどころとする人はすべて。」
「主を避けどころとする」という言い方は詩編独特の言い方で「主に寄り頼む」ということです。平たく言えば「神様を頼りにする」ということです。信仰というものは、決して難解なものではない。ただ私を愛してくださる主がおられる。そのことを信じて、自分を委ねるということ。極めて単純な事なのです。それをやるか、やらないか。これが私たちの生き方を決定します。主を避けどころとする人は、まことの幸いを得るのです。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
12月8日(日)のみことば
「主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる。」(旧約聖書:哀歌3章25節)
「先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」(ルカ福音書5章5節)
今日の新約の御言葉は、シモンの生き方を根こそぎ変えた言葉です。シモンにも、漁師としての経験に基づく判断があったはずです。こんな真昼間に、しかも魚がいそうもない沖へ漕ぎ出して網を降ろすなんて、プロの漁師ならやりませんよと、軽くいなすことも出来たはずです。無茶ですと言って断っても良かったのです。それがプロの漁師としての経験であり、見識というものでしょう。
ところが、シモンがそういう経験や判断に逆らってまで、主イエスの言葉に従った。それは彼が今まで積み重ねてきた経験や判断の世界から一歩、外へ踏み出したということです。自分の知らない世界、経験や判断がモノを言わない世界へと踏み出してしまったのです。何を根拠にして、踏み出したのか? もはや自分の経験や判断が根拠ではないことは分かっています。では、何が彼に一歩を踏み出させたのか? シモンはこう言ったのです。
「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」
主の言葉によって踏み出したのです。