聖書:創世記32章23~33節・ルカによる福音書18章1~8節
説教:佐藤 誠司 牧師
「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません。』」(創世記32章25~27節)
今日は創世記32章のヤコブの物語を読みました。ヤコブはアブラハムの孫で、イサクの息子ですが、お父さんのイサクとは、まるで正反対の性格です。イサクという人は穏やかで、争いを好まない。人が無理を言って来ても、譲ってしまう。そういう人でしたが、ヤコブはそうではない。人のものまで奪い取ってしまう。世間で言う悪い奴なのです。
彼には双子の兄弟がありました。エサウという名のお兄さんですが、このエサウが当然、お父さんの跡を継ぐはずだったのですが、ヤコブはそれを出し抜いて、お父さんの目が悪くなっていたのを良いことに、お兄さんになりすまして、エサウが受けるべき祝福を奪い取ってしまった。当然ながらエサウは激怒します。お父さんが生きているうちは、まだこらえていますが、お父さんが死んだらヤコブを殺そうと。それほどまでに怒りが燃え上がった。それでお母さんのリベカが心配して「ここにいたら危ないから、逃げなさい」と言う。それでお母さんの里であるハランに、ラバンという叔父さんを頼って行けと言って送り出したのです。
今日読んだ箇所は、叔父のラバンがいたハランから、元居たベエルシェバへ帰る途中の出来事を伝えています。ヤコブはハランにいる間に結婚して、10人もの子供が与えられた。そして、たくさんの牛や羊、山羊、らくだが増えて、当然それらの家畜を世話する僕も増えて、一族郎党が栄えるまでになっておりました。そんな時、彼は神様から故郷のベエルシェバに帰るよう示されます。ところが、だんだんとベエルシェバに近づくにつれて、ヤコブの胸に重くのしかかって来る思いがありました。それは、かつてベエルシェバを逃げ出す原因になった、兄エサウとの問題です。ヤコブはそこを逃げ出したのですから、あの問題は未解決のまま、そっくり残っている。なんとかしてエサウと和解しなければ、ベエルシェバに帰ることは出来ないわけです。
そこでヤコブは一計を案じます。エドムの野に住むエサウに使者を遣わすことにしたのです。エドムはベエルシェバのすぐ隣ですから、ベエルシェバに帰りますと、もう目と鼻の先にエサウがいることになるので、これはもう挨拶をしておかないとまずい。そう思ってヤコブは使者を遣わした。そこでヤコブは使いを送って、兄さんに「弟ヤコブが帰ります」と挨拶をさせました。反応を見ようとしたのです。使いが帰って来て、兄さんの返事をもたらします。すると、なんと400人の僕を引き連れて弟を迎えに行くと言うのです。400人もの家来を連れて迎えに来るということは、きっとこれは仕返しに来るに違いないとヤコブは考えた。ただ喜んで歓迎するのなら、400人もの家来は要らんだろうと。これはきっと自分たちを皆殺しにするつもりだろうと。そう思ったのです。
そこでヤコブは策を弄します。自分の家畜を幾つにも分けて先に行かせて、まず家畜の群れとエサウを会わせるわけです。エサウが「この家畜は誰のものか」と尋ねて来たら、僕に「これはヤコブの家畜で、エサウ様にお土産として持って行くのです」と答えさせる。このやり取りを、家畜の群れの数だけ繰り返すのです。すると、貰える家畜がどんどん増えていくわけですから、次第にエサウの心も和むだろう。その上でヤコブはエサウと会おうと、そういう作戦を立てました。全く抜け目がありません。
しかし、それでもヤコブには不安が残る。そこで家畜の次は家族を分けた。奥さんが4人いましたので、子供たちも含めて、それを二つのグループに分けた。そして、こっちがやられたら、あっちへ逃げるというふうに、あらゆる手段を使って身の安全を計りました。
しかし、どうでしょう。こういう作戦・算段というのは、いくら巧みに張り巡らせても心の平安は得られるかといえば、決してそういうことではない。ヤコブもやはり、そうでした。ついにヤボクという川の渡しを渡る時に、彼は家族みんなを先に渡して、自分一人が残って、祈ったのです。
しかし、それで心に平安があったかと言うと、そうではなかった。ますます不安が募って来る。ヤコブは、石を枕にして野宿をした時、大きな経験をしました。「わたしはあなたと共にいる」「わたしはあなたを見捨てない」という約束を受けました。しかし、だからと言って、不安が無くなるわけではなかった。私は、こういうヤコブの姿を見ていますと、これは本当に信仰生活の実態を見せられる思いが致します。私たちは、人のことだと「祈りなさい」とか「委ねなさい」とか言いますが、なかなかそうはいかんのだということが、実際に大きな悩みの中にある人にはあると思うのです。そんな時、どうすれば良いだろうかと言うと、これはもう祈るしかない。
ヤコブは祈りました。この先、もう一歩踏み込んだら、兄エサウの土地だという、まさに土壇場で、ヤコブは祈った。「神様、もう動けません。どうしても、この川を渡ることは出来ません。助けてください」と祈ったんです。
この時のヤコブの祈りが10節以下に記されています。どういう祈りかと言いますと、嬉しくて祈っているわけではない。命にかかわる大きな心配事がある。自分も家族も殺されるかもしれない。どうかそこから救っていただきたい。助けてほしいのです。しかし、彼はその願いを言う前に、ここでもう一遍、神様が今まで私をどういうふうに守り導いてくださったか、そのことを確認しています。これは大事なことだと思います。
私たちは、信仰者の生活というのは、何か問題が起こった時に、真っ先に神様にお祈りをして、神様に従って行く生活だと思っています。まさに、そのとおりで、これは正しい理解です。しかし、聖書は、それだけではない。もう一つの生き方、もう一つの信仰者の姿というものを、私は語っているのではないかと思います。その典型がヤコブなのです。ヤコブという人は、私たち普通の信仰者の鏡だと思います。
私たちは、何か大きな問題が起こった時、心配のあまり、いろんな細工をします。いろんな細工や悪あがきをして、まあお祈りもしますが、人間的な小細工のほうが圧倒的に多いです。そうして、どうも自分は不信仰だなあと、自分の信仰が嫌になります。そんな経験を、皆さん、なさったことはないでしょうか。何か問題が起こったら、お祈りをして、委ねて、それで心が平安かというと、なかなかそうはいかない。お祈りをしても、やっぱり不安で、また何か小細工に走ってしまう。
そんな私たちがヤコブの話を読みますと、大変に慰めを受けます。ヤコブという人は、鏡に映った私たちの姿なのです。人間というのは、自分のことはなかなか分からない。けれども、ヤコブの姿を見ていますと、自分が持っている弱さや醜さ、愚かさというものが、まるで突き刺さってくるように分かる。突き刺さるのだけれど、決して耐え難い痛みではない。なぜでしょうか。ヤコブに、神様の慈しみの眼差しが注がれているのを知るからです。その同じ慈しみが、私にも注がれているのを知る。それがヤコブの物語を読む醍醐味だと私は思います。
ヤコブは、兄のエサウが400人を引き連れて迎えに来ると聞いた時、真っ先にお祈りをしたかというと、そうではなかった。怖くて怖くて、家族も家畜も二つに分けて、こっちがやられたら、あっちに逃げるという算段までやりました。そのあとで、お祈りしています。お祈りは二の次だったということです。しかも、お祈りをしたから、心は平安だったかというと、そうではない。なとかしてエサウの怒りを宥めたい。贈り物を選んで、それを幾つにも分けて、贈り物を受け取る度に、エサウの心が和むように策を弄した。本当に私たちとそっくりですね。
あれもこれも、考えられることはすべてやったヤコブですが、どうしても平安が得られない。家畜も僕たちも、家族も全部ヨルダン川を渡らせた。ヤコブだけが残りました。すると、そこへ何者かが現れて、ヤコブと格闘したと書いてあります。これが人なのか、それとも御使いなのかは分かりません。ただ分かっているのは、この人がヤコブと夜通し格闘したことと、この人はヤコブを祝福することが出来たということです。こういうところから、これは神ご自身なのだろうと、神様が姿を変えて来てくださったと理解するのが、現在の大方の理解です。
この人がヤコブと取っ組み合いの格闘をした。考えられる手は、すべて打った。お祈りもした。しかし、平安は無かった。どうしたら良いか。そこへ現れたのが、この取っ組み合いの格闘だった。さあ、この格闘は、何を表しているのか。皆さんは、どう思われますか。
私は、この格闘、体と体がぶつかり合い、互いの胸の高鳴りも感じることが出来るこの格闘は、やはり、祈りだと思います。神様はヤコブに祈りを教えておられるのです。そう聞いて、ヤコブだって祈っていたのだから、祈りを知っていたではないかと思われるかもしれません。たしかに、ヤコブも祈りを知っていたでしょう。しかし、その祈りは、どんな祈りだったでしょうか。打つべき手は打った。お祈りもした。しかし、平安が無い。平安を得たい。ヤコブの祈りは、自分の心、内面を見つめる祈りだった。しかし、祈りというのは、神様ご自身が相手になってくださる。ぶつかり合って、相手の心臓の鼓動が伝わってくる。そういう祈りの真相とも言うべきものを、ヤコブはこの取っ組み合いを経て、初めて知ったのだと思います。
この取っ組み合いの前の祈りは、大変に整えられた祈りでした。立派な祈りと言っても良いと思います。しかし、それでは解決出来なかった。ところが、この取っ組み合いを経たあとの祈りは、どうだったでしょうか。これは形としては全然整ってはいない。ちゃんとした祈りではないのです。ヤコブは何を求めているかと言いますと、彼はこう言ったのです。
「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」
たったこれだけです。しかし、この一言に尽きたのです。これは神様との取っ組み合いが生み出した祈りです。神様にしがみついている祈りです。これは、人の目から見たら、情けないと言いますか、あまり格好の良いものではないかもしれません。「祝福してくださるまでは、あなたを離しません」と言って、必死にしがみついている。確かに恰好は良くありません。しかし、やはりこれは本当の祈りだと私は思います。
ヤコブという人を振り返ってみますと、お世辞にも立派な信仰者とは言えない。迷いや惑いの無い、すっと筋の通った人ではないのです。惑いながら、迷いながら歩んだ人です。しかし、惑っているから信じていないかと言うと、決してそうではない。いろいろと小細工もしています。あっちへ行っては頭を打ち、こっちへ行っては痛い目に遭っています。しかし、彼は知っている。帰るべき所を知っているのです。神様と取っ組み合いをするような祈り、神様にしがみつく祈りへと、彼はいつも帰って行った。そういう人です。
皆さんは、ご自分の信仰を振り返って、なんとも情けないなあと思われることがあるかもしれません。けれども、それで良いのです。迷いながら、惑いながらで良い。最後の最後に、ヤコブのように祈ることが出来る。これはもう、私たちの信仰の力ではなく、その信仰を与えてくださった神様の恵みです。祈りは恵みなのです。取っ組み合いの祈り、しがみつく祈りを、神様は喜んでくださる。あの放蕩息子が父親のふところに顔を埋めて「お父さん」と言った。この祈りを、大事にしていきたいと思います。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
11月3日(日)のみことば
「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(旧約聖書:申命記6章5節)
「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ書8章26節)
今日の御言葉に、私たちが絶望的なこの世で信仰を守っていく秘密が語られています。私たちが現実の辛さの中で一生懸命に信仰を守ろうとして、自分を支えていく。そういう努力だけで信仰を守り続けていくことは、到底、出来ません。この信仰を現実の生活の中で守り続けていくために、聖霊が私たちを支えてくださっている、パウロがここで言いたいのは、そこなのです。
「霊も弱い私たちを助けてくださいます」と、パウロは述べております。この「弱い」というのは、力が弱いとか、勢いが無いとか、そういうことではなくて、この「弱さ」とは、私たちの信仰が動揺することです。現実の厳しさの中で、なかなか信仰を貫くことが難しい、動揺する。「本当に神様おられるのですか」と問い詰められて、たじたじとなることが、やっぱり、あると思うのです。そういう私たちを聖霊が助けてくださる。聖霊に助けられて、私たちは初めて信仰を持ち続けることが出来る。聖霊が弱い私たちを支えてくださるのです。