聖書:出エジプト記3章13~14節・ルカによる福音書20章27~40節
説教:佐藤 誠司 牧師
「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたがたに遣わされたのだと。』」 (出エジプト記3章14節)
「イエスは言われた。『この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。』」 (ルカによる福音書20章34~38節)
教会の葬儀に出席された方から、キリスト教の葬儀は明るいですね、と、よく言われます。しかし、キリスト教の葬儀が、いったい、どういう望みを持って行われるかというと、来世に対するいろんな解釈とか、そういうことではないのです。そうではなくて、イエス・キリストが復活なさった。そのことだけを見つめている。なぜ、キリストの復活を見つめるのか。それは、キリストの復活こそが希望の源泉だからです。私たちが抱いている希望は、復活の希望なのです。
今日はその一点を心に留めていただいて、ルカ福音書の不思議な物語に入っていきたいと思うのです。
福音書を読んでいますと、当時のユダヤで、主イエスと敵対する二つのグループが存在したことが分かります。一つはファリサイ派の人々、もう一つはサドカイ派と呼ばれる人たちです。ファリサイ派は律法学者を多く輩出しました。大変に禁欲的で真面目、律法に忠実なファリサイ派の人々は、復活を信じていました。
それに対して、死人の復活なんてあり得ないと主張したのが、サドカイ派の人々です。この人たちは神殿に仕える祭司の中でも、上級階級の祭司を多く輩出し、中でも大祭司や祭司長と呼ばれる上級祭司のほとんどがサドカイ派でした。そういうことからサドカイ派の人々は「神殿貴族」とも呼ばれたのです。貴族ですから、暮らし向きも豊かです。もうそれだけで、彼らの思想が浮かび上がってきます。サドカイ派の特徴は現世中心主義なのです。生きてるうちが花という考え方です。ですから、死後の復活などに望みを繋がない。
そういう人々ですから、世俗的で現世利益を追求するサドカイ派と宗教的で禁欲的なファリサイ派は、まさに水と油です。わけても、この二つのグループが最も深刻に対立をしたのが復活をめぐる論争です。サドカイ派の人々が復活をめぐってファリサイ派の人たちをやっつける。そのための論法が今日の個所に出て来ます。彼らは主イエスにこう尋ねたのです。
「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。」
じつはサドカイ派の人々はモーセの教えを大変に尊んだことで知られます。旧約の最初の五つの書物、創世記から申命記までの五つの書物をモーセ五書といいますが、サドカイ派の人たちはモーセ五書さえあれば、ほかは要らないとまで考えたようです。28節の括弧にくるまれた言葉も、モーセ五書の一つである申命記25章の言葉です。その言葉を根拠にして、彼らは主イエスに問うのです。
「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は誰の妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
いかがでしょうか? 私は、これは不真面目な議論だと思います。実際にこういう女性が存在していて、その女性が、自分が復活した時、いったい誰の妻になるのかと思い悩んでいて、サドカイ派の人たちがこの女性に深く同情してイエス様に相談にきたというのではない。これは明らかに架空の想定に基づく空論です。実際、彼らは復活を信じていないわけですから、復活の時どうなるかという問いかけは、議論としても成り立たない。不真面目な言葉遊びです。
しかし、そう思いつつ、私は、現代に生きる私たちは、案外、このサドカイ派の人たちのような考え方をしているのではないかとも思います。では、サドカイ派の人たちの問題点とは何でしょうか? それは、せっかく申命記の御言葉を引用しておきながら、自分の腹の中にある常識や本音から一歩も外に踏み出そうとしていない点にある。聖書の御言葉によって自分が変えられていくのではなくて、逆に聖書の言葉を常識や本音という自分の土俵の中に引き込んで、自分の物差しで聖書の言葉を解釈している。そこが問題なのです。
しかし、そういう問題は、何もサドカイ派だけのものではないと私は思う。復活をめぐってサドカイ派と対立をしていたファリサイ派の人々は、どうであったか? じつは、この七人の兄弟と一人の妻の話は、当時、サドカイ派の人々がファリサイ派の人々を論破するために用意していた難問集の一つなのですが、ファリサイ派の人々はこれに答える模範解答のマニュアルをちゃんと作っていたそうです。それによりますと、ファリサイ派の人々は、この女性は復活した後は、最初の夫である長男の妻となるべきだと答えたというのです。
さあ、これをお聞きになって、皆さんはどう思われたでしょうか? 私は、やはりこれも空しい議論だと思います。ファリサイ派の人たちの答えは、一見、見事に、サドカイ派の人々の仕掛けた難問に答え得たかに見える。しかし、結局は同じレベルなのです。まず、自分の常識や本音があって、そこに合わせて聖書の言葉を自分流に解釈している。だから、聖書の言葉、神の言葉によって自分の生き方が根底から変えられていく、という肝心要の一点に思いが及ばないのです。まさに、その一点において、サドカイ派とファリサイ派は、導き出された結論は正反対ではありますが、ものの考え方においては、双子の兄弟のように似ています。
さあ、そういう議論に、主イエスは、どうお答えになったか? イエス様はサドカイ派の人たちの議論が持っている不真面目さを見抜いておられたと思います。ですから、主イエスは彼らの問いかけを無視なさっても良かったはずなのです。しかし、主イエスは、そうはなさらなかった。主イエスはこうお答えになったのです。
「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
さあ、ここは大事なことが言われておりますので、心して読み取りたいと思います。主イエスはここで何を言っておられるのでしょうか? めとったり嫁いだりする。あるいは、この女性は誰の妻で、この人は誰の夫か、この人は誰の子で、誰の親か。そういうことはこの世の絆なのだ。復活というのは、そういうこの世の絆を引きずったまま起こるのではない、と、主イエスはそう言っておられるのではないでしょうか。誰の妻、誰の夫、誰の子、誰の親ではなく、等しく神の子とされる。復活とはそういうことなのだと主は言われるのです。だから、復活とは、純粋に神の御業であり、人が詮索すべきことではない。神様が天地創造の昔に、命をお造りになったことを信じるならば、一度死んでしまった命を、この世の終わりに、神様がもう一度よみがえらせてくださることを、どうして信じないのか? イエス様が言っておられるのは、そういうことではないでしょうか。
しかし、まだ一つ、ひっかかることが、ある。おそらく、ここで皆さんが一番困惑を覚えられるのは、37節の言葉ではないでしょうか?
「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。」
この「柴の個所」というのは、出エジプト記の第3章、燃える柴の中から神様がモーセに語りかけられたところです。あそこで神様はモーセに自己紹介をなさいました。「私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃった。でも、どうしてそれが、死者の復活をあらわす言葉になるのでしょうか。
じつは、こういうところは、日本語の翻訳では伝わりにくいのですが、神様はここでモーセに自己紹介をするのに、現在形で言っておられる。過去形ではないのです。どういうことかと言いますと「私はかつてアブラハムの神でした、次にイサクの神になりました。ヤコブの神もやってました」というふうには言っておられない。あくまで現在形で語っておられるのです。しかも、この現在形は、私たちの思いをはるかに超えて、大変に強い意味を持つ、いわば特別の現在形なのです。言葉を補って言いますと「私は今もなおアブラハムの神である。今なおイサクの神であり、ヤコブの神である」というふうに「今もなお」とか「今に至るまで」という非常に強い意味が秘められている。そういう現在形なのです。
これは、どういうことかと言いますと、「私はアブラハムの手を離していない」ということです。確かにアブラハムは死にました。イサクも死にましたし、ヤコブも死んだのです。だから、聖書は彼らの墓のことまで記します。おかしな表現ですが、彼らはちゃんと死んだ、きちんと死んだのです。しかし、神様は、生前のアブラハムを選び、導いたその手を、今もアブラハムから離してはおられない。
私たちは、愛する人が亡くなりますと、亡き人の手にすがり付いて涙します。しかし、いつかは、すがり付いた手を離さなければなりません。これはもう、どうしようもないことです。棺が閉じられるとき、斎場の炉の扉が閉ざされるとき、手を離さざるを得ない。私たちは、愛する人の手を、いつかは離さなければならないのです。しかし、神様は手を離さない。離さないで、ご自分の御手をもってアブラハムの死んだ命をしっかりと支えておられる。だから、神様は「私は今もアブラハムの神であり、今もなおイサクの神であり、ヤコブの神である」と現在形で言われる。
そして大事なことですので、聖書が語る現在形について少しお話ししますと、モーセが神様から使命を託されて、神様に問い返しますね。人々があなたのことを聞いてきたら、どう答えればいいですかと尋ね返しました。そのとき、神様はどう言われたでしょうか?
「わたしはある。わたしはあるという者だ」とおっしゃたでしょう? あれも現在形ですね。「私はあった。私はかつてありました」という過去形ではない。しかも、この現在形は大変に強い意味を持っている。決して古びないのです。普通の現在形は、まるで日めくりのように、日がたてば過去のものになってしまいます。今日の現在形は明日になれば過去形になってしまう。
しかし、神様の言葉の現在形は違います。決して古びない。永遠の現在形とでも言いましょうか。100年たとうが1,000年たとうが、私はある、ということです。これはどういうことかと言いますと、私は今、あなたに語りかけている、ということなのです。だから、私たちは、2千年前の聖書の言葉を、今、私たちに語り掛けられている今の言葉として聞くことが出来るわけです。
主イエスもこれと同じ現在形でご自身を現されました。ヨハネ福音書にそれは出て来ております。
「わたしは甦りであり、命である。」
これは、かつてイエス様がこうおっしゃいましたよ、というのではない。生ける主が、今、この礼拝の中で私に語りかけておられる、ということです。復活を信じるとは、このお方にすべてを委ねることです。その主イエスが「すべての人は神によって生きる」とおっしゃいました。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、モーセも、そして私たちが先に天に送った親しい人々も、神によって生きる。これも永遠の現在形です。神が生きて働いておられる。手を離すことなく、しっかりと命を支えて御子の命に与る者としていてくださる。だから私たちは復活の望みに生きることが出来る。そこにこそ私たちの望みはあるのです。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
9月29日(日)のみことば
「主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。」(詩編146編8節)
「お父さん、わたしは天に対してもあなたに対しても罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。」(ルカによる福音書15章21節)
今日の新約の御言葉は、主イエスがお語りになった「放蕩息子」の譬えの一節です。無一文になって父のもとに帰って来た息子が、赦してもらおうと、一生懸命に言い訳をしている場面です。しかし、この父親に言い訳は必要なかった。父親は息子の言い訳には一切耳を貸さずに、我が子に最良の服を着せ、履物を履かせて、息子に跡継ぎの印である指輪をはめさせて、喜んだ。息子に向かって「反省しろ」などとは言わなかった。この子が生きて帰って来てくれた。自分のことを思い出して帰って来てくれた。そのことだけが父の喜びだったのです。
この息子は、お父さんのことを思い出して、道々、どう言い訳しようかなどと思っているときは、まだお父さんの心が分かっていないのです。ここに来て、まさに無条件で自分を抱いて喜んでいる父親のふところに顔を埋めたときに、彼は初めて、お父さんの心はこうだった、父の愛はこうだったと分かった。これが、この息子のお話をとおしてイエス様が言おうとなさったことではないでしょうか。