聖書:ルカによる福音書24章13~32節

説教:佐藤 誠司 牧師

「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」 (ルカによる福音書24章30~32節)

 

受難週が明けて、イースターの朝を迎えました。ふるくから、教会はイースターの前の晩を眠らずに過ごしました。一睡もせずに復活の朝を迎えたのです。初代教会では洗礼式はもっぱらイースターの礼拝で行われましたから、洗礼志願者のための祈りの集いが夜通し行われたのです。どうして眠らないのでしょうか? それはおそらく、主イエスの次の言葉があったからでしょう。

「目を覚ましていなさい。」

しかし、福音書をよく読みますと、主イエスは弟子たちだけに目を覚ましておれとおっしゃったのではないことが解ります。主イエスはこうおっしゃったのです。

「わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」

「私と一緒に」だったのです。これが主イエスというお方のなさりようです。弟子たちだけに何かをさせることは決してなさらない。常に弟子たちの傍らに寄り添っていてくださる。いつも「私と一緒に」なのです。私と一緒に生きなさい。私と一緒に歩みなさい。私と一緒に働きなさい。そして、私と一緒に父の前に立ちなさい。十字架の物語にも、同じ言い方が出て来ておりました。

「はっきり言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。」

私と一緒に―。この言葉を受けて、どれほど多くの人たちが絶望のどん底から立ち直ったことでしょう。自力で立ち直ったのではありません。一緒に歩んでくださる主イエスに引き上げられるようにして、いわば引っ張り上げられて、立ち直った。ガリラヤ湖で溺れそうになったペトロが、主イエスの手に引き上げてもらったように、主イエスの腕に抱き上げられて、彼らは立ち直るのです。

今日読んだエマオへ向かう二人の弟子たちも、そうです。ルカは、この二人の姿を十字架の物語との連続性の中で描いています。ルカは主イエスと共に十字架につけられた二人の犯罪人の姿を印象深い描写でこう語りました。

「一人は右に、一人は左に。」

何気ない表現のように見えますが、これは二人の真ん中に主イエスがおられることを暗示する描写です。これと同じ構図で、ルカはエマオに向かう二人の弟子たちの姿を捉えます。二人の人物が夕暮れの道を急いでいます。彼らは今、エルサレムを去って、自分たちの家のあるエマオという村に向かっているのです。二人とも、悲しげな顔をしています。いったい何が彼らを悲しませているのか? 14節にこう書いてあります。

「この一切の出来事について話し合っていた。」

一切の出来事とは、この一週間の間に起こったすべてのことという意味です。この日は週の初めの日。ちょうど一週間前に主イエスはエルサレムにお入りになった。ロバの子の背中に乗って、柔和な王としてお入りになったのです。人々は歓呼の声を上げて歓迎しました。ところが、人々の期待は裏切られて、期待は憎しみに豹変し、歓呼の声は嘲りの声に一変しました。

「十字架につけろ、十字架につけろ。」

そして主イエスは十字架の上でむごたらしい最期を遂げられた。この出来事を、彼らは道々、論じ合っていたのです。

すると、そこに一人の人物が近づいて来て、彼らと一緒に歩き始めます。ここでルカは注目すべき語り方をしています。15節と16節です。

「話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」

ルカはこの人物が主イエスであることを私たち読者に明かしているのです。しかし、二人の登場人物はそれを知らない。主イエスであることを知らないのです。こういう語り方はいかにも語り部ルカらしいところです。

この同伴者は二人に影のように寄り添いながら、こう問いかけます。

「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか。」

すると、二人は暗い顔をして立ち止まる。そして二人のうちのクレオパという人が、こう答えるのです。

「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存知なかったのですか。」

ずいぶんきついことを言ったものだと思います。あなただけが知らなかったとは、信じられない。そんな感じです。イエスというお方のことはエルサレム中の人々が知っているのに、あなただけが知らないなんて。彼らの呆れ顔が目に浮かびます。

ところが、この同伴者は動ずることなく、さらに問いかける。

「どんなことですか。」

この言葉に促されて、二人の弟子たちは語り始める。歩みを進めながら語るのです。

「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。」

ここまでは事実関係を語っているのですが、ここから先へ行くと言葉の調子が変わってくる。これこれこういうことが起こったという事実関係ではなくて、彼らが主イエスをどのように思っていたのか。また一連の出来事によって彼らがいかに大きな衝撃を受けたか、いかに戸惑ったかが語られていく。いわば彼らは自分たちの心の内面を、問わず語りにこの同伴者に向かって告白していくのです。

「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」

彼らは主イエスの弟子ではありますが、これを読みますと、やはり彼らも他のユダヤ人とあまり変わらない身勝手な望みを主イエスに対して抱いていたことが分かります。おそらく、これはペトロやヨハネといった使徒と呼ばれた一番弟子たちにしても同じだと思います。

つまり、主イエスの弟子とはいっても、主イエスに対して心に抱いていた期待は、普通のユダヤ人と何ら変わりはなかった。ということは、主イエスが何のために来られたか、何のために死なれたのか、その肝心要の一点に思いが至っていなかったということです。

さて、彼らの言葉はさらに続いて、この日の朝の出来事へと言い及んでいきます。

「ところが、仲間の婦人たちが、わたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

ここに至って、なぜ彼らが悲しげな顔をして途方に暮れていたのかが明らかにされます。彼らは主イエスが殺されたから途方に暮れていたのではなかった。いや、それも彼らの心を暗く悲しいものにしてはいただろうけれども、途方に暮れるというところまではいかない。むしろ、彼らを戸惑わせ、途方に暮れさせていたのは、主イエスの復活の出来事だったのです。

これは、私たちが復活の物語を読むときに、いつも心に留めなければならないことだと思います。主イエスの復活の知らせを受けて、エルサレムで一番戸惑ったのは、ほかでもない、主イエスの弟子たちだったのです。婦人たちが天使の告げた言葉をも彼らに伝えているのです。

しかし、それでも彼らは信じられなかった。いや、むしろ、主の復活の知らせが、弟子たちを困惑の極みに叩き落したと言ったほうが正鵠を得ているかも知れません。彼らの最後の言葉がそれを証明しています。彼らはこう言ったのです。

「あの方は見当たりませんでした。」

見当たらなかったと、彼らは言ったのです。見当たらないって、どういうことでしょう。皆さんは、いったいどういう時に「見当たらない」という言葉をお使いになるでしょうか? メガネが無い。うっかり者の私のことだから、きっとどこかに置き忘れたに違いない。そう思って探します。さあ、そんなとき、どういう所を探しますか? 身に覚えのある所、すなわち「心当たり」の場所を探すのではないでしょうか? ところが、心当たりを探しても、見つからなかった。そういうときに、こう言いますね。

「いくら探しても、見当たらなかった。」

これが「見当たらない」ということです。ここにあるに違いない、ここに隠れているに違いない。そういう心当たりに結び付くのが「見当たらない」という考え方です。でも、その場合の「心当たり」って、何なのか? 先入観なのです。彼らは無意識のうちに先入観を持っていたのです。どういう先入観でしょうか? あのイエスというお方は殺されてしまわれたのだから、墓の中に遺体となって横たわっておられるに違いない。葬られた場所におられるに相違ない。そうに決まっている。これが彼らの先入観でした。だから、天使は言ったのです。

「あの方はもうここにはおられない。」

これは言葉を換えて言えば、あの方はあなたがたの先入観の中にはおられない、ということです。先入観のあてが外れたときに、人は戸惑います。途上に暮れるのです。しかし、そこに主イエスの声が響く。

「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

主イエスの言葉に注目してください。「栄光に入るはずだったのではないか」と言っておられる。この「はず」と翻訳されたところは、原文ではもっと強い表現が使われています。こんな感じです。

「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入らねばならなかったのではないか。」

主イエスの言葉の中に「ねばならない」という言い方が出て来るときは、必ずと言ってよいほど、父なる神のご意思を表すときです。こうなるのが父なる神の御心ではなかったかと、そう言っておられるのです。父なる神の御心は、どこに現されているか? 聖書でしょう? だから、このあと、この同伴者は二人の弟子に聖書を説き明かすのです。こう書いてあります。

「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」

一歩一歩、歩みを共にしながら、聖書を説き明かしてくださったのです。なんという幸いであろうかと思います。すると、夕闇が迫るころ、ついに彼らはエマオの村に到着するのです。ところが、この同伴者は、なおも先に行こうとしている。別れが来たのか、と、そう思った瞬間、彼らの口から言葉が飛び出します。

「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから。」

一緒に泊まってください、一緒にいてください。ひょっとしてこれは、キリスト者の誰もが最後の最後に抱く願いではないでしょうか? 目的地に着いて、人生の歩みが終わろうとしている。これまで共に歩んでくださったお方は、さらに先へ行こうとしておられる。そのとき、思わず出る言葉がある。

「主よ、一緒にいてください。」

すると、この同伴者は、彼らの願いを聞き入れて家に入るのです。おそらくここは彼らの家です。大急ぎで夕べの食卓が整えられたでしょう。さあ、彼らがこの客人を食卓に招こうとしたそのとき、異変が起こる。客人であるはずの、この人が、なんと主人の座に着くのです。ここであの構図が出て来ます。あの十字架の構図です。

「一人は右に、一人は左に。」

主イエスが中心におられることを暗示する描写です。真ん中におられる主がパンを裂いて、二人に手渡してくださった。「取って、食べよ」と言って。すると、彼らの目が開かれるのです。悲しみに閉ざされていた目が開かれて、主イエスであることが分かった、主イエスが一緒にいてくださることが分かった、その瞬間、その姿が見えなくなったのだと、ルカは語ります。

なぜでしょうか? 姿が消えた、見えなくなった瞬間に、解ったからです。主イエスというお方は、こういう仕方で共にいてくださる。こういう仕方で共に歩んでくださる。主イエスは生きておられる。自分たちは、その生きておられる主イエスと出合ったのだ、と、それが解ったのは、主イエスの姿が見えなくなった時だったのです。

これが信仰です。見えるから解るのではない。肝心なのは見えなくなった時に、主イエスが共にいてくださることが解る。それはもう、信仰以外のことでは解らない真実ではないでしょうか? 彼らはついに、それが解った。すると、彼らは互いに顔を見合わせて、こう言い合うのです。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」

燃えるとは、どういうことか? 一時的に盛んに燃え盛って、あとは燃えカスだけが残る。そういう燃え方ではないのです。深く、静かに、しかし確実に燃え続けている。あの燃えた炎が、今もずっと、自分自身を暖かく照らし、周りを照らしている。平安の光となっている。

復活の恵みとは何でしょうか? それは復活の主が共に歩んでくださるということ。エルサレムを失意のうちに去らねばならなかった二人の弟子たちが悲しみと落胆の歩みを進めたとき、主イエスはすでに共に歩んでいてくださったのです。私たちもそうではなかったでしょうか。悲しみの一歩、失意や落胆の一歩を孤独のうちに踏み出したその一歩一歩を。このお方は共に歩んでくださる。復活の恵みとは、私たちの一歩一歩の中にある。今日のこの礼拝から送り出されて歩む一歩一歩のうちにある。だから、私たちは互いに言うのです。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」

イースター、おめでとうございます。復活の主が共に歩んでくださいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com