聖書:イザヤ書42章1~4節・マルコによる福音書14章32~42節

説教:佐藤 誠司 牧師

「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。」(イザヤ書42章2~3節)

「イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』少し進んで行って地面にひれ伏し、出来ることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」(マルコによる福音書14章34~36節)

 

今でこそ、私たちは十字架を仰ぎながら、礼拝を守っていますが、当時、主イエスの十字架の死は、多くの人にとって、ただの犯罪人の死でありました。しかも、名もない犯罪人の死です。その意味で、すぐにも忘れ去られるものだったのです。実際、当時の地中海世界の歴史を詳細に記したローマの歴史書にも、主イエスの十字架は、ほんの少し、影のように記されているに過ぎません。水面に広がる波紋のように、すぐにも消え去る運命だったのです。

ところが、それを救いの出来事、罪の赦しを得させる福音として伝え始めた人々がおりました。それは、なんと、十字架の出来事を前にして、主イエスを見捨てて逃げた弟子たちでした。彼らは、もとより、言葉巧みな人々でもなければ、物事を論理的に伝え得る人々ではありませんでした。主イエスの十字架の死を、神学的に、論理的に考察したり、解明したりすることなど、彼らには不可能でした。

しかも、彼らは、全員、主イエスを見捨てて逃げているのですから、主イエスの十字架の死を見届けているわけでもありません。目撃者ではなかったのです。その意味では証人となる資格すら無い人々であったわけです。そんな彼らが、どうして主イエスの十字架を救いの出来事として伝え得たのでしょうか?

身をさらして証しを語ったのです。主イエスを見捨てたこんな自分さえ、見捨てずに、贖い取ってくださった主イエスの御業を、心震えるような感謝をもって証しした。それが、人々の心を動かした。そして、それがそっくりそのまま、教会が語る福音の言葉になりました。どうして、彼らは立ち直ることが出来たのでしょうか? これは一つの謎であります。

福音書はその謎に、主イエスが祈ってくださったからだと答えています。主イエスの祈りがあったればこそ、弟子たちは立ち直ることも出来たし、福音のために働くことも出来た。まさに、主イエスの祈りこそが、弟子たちの力の源であり、それは今もって少しも変わってはいません。

確かに、主イエスは、その地上の生涯を通じて、常に祈りの人でありました。福音書は、その祈りの中身について、必ずしも詳しく語ってはおりませんが、主イエスがどれほど深い祈りをなさったか、時に夜を徹して祈られたことは、福音書が口を揃えて語るところです。

マルコ福音書の11章によりますと、主イエスはエルサレムにお入りになってからも、日中はエルサレムで過ごされましたが、夜はエルサレムではなく、近郊のオリーブ山のふもとにあるべタニア村で過ごされた。これがエルサレムにおける主イエスの日々の過ごし方だったのです。人々から離れて、主イエスは独りで深い祈りの時を過ごされたのです。

ところが、今日の個所を見てください。「ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われた」と書いてあります。いつもはお一人なのに、このときばかりは違ったのです。おそらく、主イエスが弟子たちを連れて行かれたのでしょう。ひょっとして、弟子たちに一緒に祈ってほしいと願われたのかも知れません。

しかし、もう一つ、考えられるのは、主イエスが、弟子たちをご自分の祈りに立ち合わせ、いわば、ご自分の祈りの証人になることをお求めになったのではないかということです。おそらく、主イエスはこのとき、すでに見抜いておられたと思います。弟子たちが全員、ご自分を見捨てて逃げてしまうことを見抜いておられた。だから、その前に、彼らがご自分の祈りの証人になることを求められた。弟子たちは、この祈りを知る者として、のちに主の十字架と復活の証人とされていくわけです。

さて、主イエスは「ひどく恐れてもだえ始められた」と書いてあります。イエス様が「恐れられた」というのは、福音書の中では極めて珍しい表現です。いったい何を恐れておられるのでしょうか。主イエスは弟子たちに、こう言っておられます。

「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」

主イエスは弟子たちをそこに残して、御自分だけ少し進んで、一人、地面にひれ伏して、出来ることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、さらにこう祈っておられます。

「アッバ、父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

杯と言っておられる。なぜ杯なのでしょう。そもそも、主イエスが言われる「杯」とは、何を意味するのでしょうか?

ここで思い起こしていただきたいことがあります。14章の22節以下に、いわゆる最後の晩餐の物語がありましたが、あそこで主イエスは杯を弟子たちに手渡しながら、こう言っておられるのです。

「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

もう、この時点で、主イエスは御自分の死ぬべき運命を知っておられたのです。死ぬことだけではありません。御自分の血潮が、多くの人のために流される契約の血であることも、すでに知っておられた。

さあ、杯とは、何なのでしょうか? 杯というのは、ただの容器ではありません。杯は、上から与えられるものであり、上から与えられた杯は、必ず飲み干さねばならなかった。断ったり、そのまま放置したりすることが出来ないものでした。こういうところから、杯は「避けることの出来ない運命」という意味を持つようになったのです。

さあ、神から与えられる杯とは何なのか? もうお解かりの方もおられると思います。死すべき運命なのです。十字架の死、贖いの死です。その死ぬべき運命を主イエスは、今、受け取っておられるのです。

ところが、主イエスが祈りを終えて、弟子たちのところへ戻ってご覧になると、どうでしょう。彼らは皆、眠り込んでおりました。眠るというのは、睡眠という意味ももちろんあるわけですが、聖書がいう眠りには、もう一つ、隠された意味があります。信仰が鈍くなって、眠ったようになっている。祈れなくなっている。それを聖書は眠りと呼んだ。だから、主イエスはしばしば弟子たちに「目を覚ましていなさい」とおっしゃったのです。

ここもそうです。悲しみの果てに眠り込んでいた。悲しみというものを、我々日本人は時に情緒的になって、何か美しいもののように捕らえがちですが、聖書はそうは考えない。悲しみはあくまで人間的な感情です。しかも、信じることの対極にある感情です。弟ラザロの墓の前で悲しみに暮れるマルタに向かって、主イエスは何とおっしゃったでしょうか? 「もし、信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」と言われたでしょう? 信じることは信仰による。その正反対が、悲しみなのです。

さて、そうしますと、弟子たちが皆、悲しみの果てに眠り込んでいたというのは、ただ単に悲しくて睡眠をとっていたということではないことが分かってきます。彼らは人間的な感情によって、信仰を鈍らせていた。祈れなくなっていたということです。そんな弟子たちに、主イエスは何とおっしゃったでしょうか? 37節38節にこう記されています。

「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」

誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさいとおっしゃった。

誘惑とは何でしょうか? 私たちの周りにも、多くの誘惑があります。誘惑というと、私たちは、つい、自分にとって心地よい快楽を求めてしまうことが、誘惑だと思っているように思います。

ところが、聖書がいう誘惑とは、必ずしもそういうものではないのです。聖書が語る誘惑。それは人を神様から遠ざけてしまう闇の力のことです。ですから、誘惑に捕らわれると、礼拝することの喜びが分からなくなってしまう。祈っても無駄だと思えてくる。罪の赦しの恵みが見えなくなってしまう。これらは皆、誘惑に負けてしまった結果、起こることです。では、弟子たちを襲う誘惑とは、どういうものだったでしょうか。

主イエスは弟子たちがご自分を見捨てて逃げていくことを見抜いておられるのだと言いました。彼らは主イエスを見捨てたことへの良心の呵責、自己嫌悪から、やがて自分で自分を裁いてしまう。つまり、罪の赦しの恵みが、主の十字架の意味が見えなくなってしまうのです。それが弟子たちを襲う誘惑です。だからこそ、主イエスは、弟子たちが誘惑に陥らないよう、祈ってくださったのです。この祈りは大きいと思います。弟子たちがことごとく倒れてしまう。主イエスを裏切り、見捨てて逃げた自分を責め苛んで、倒れてしまうことを、主イエスは見抜いておられるのです。だからこそ、イエス様は、弟子たちの信仰が無くならないように、祈ってくださった。その祈りの場に、弟子たちを立ち会わせてくださった。これがイエス様のなさり方です。

ですから、主イエスに救われた人というのは、一度ダメになった人です。胸を張った人や、ふんぞり返った人、順風満帆な人が救われるのではありません。一度ダメになって、倒れてしまった。周りの人たちも皆、ああ、この人はもう再起不能だ、二度と立ち上がれないだろうと思う、いや、周りの人たちだけではない。本人すらそう思う。ああ、もうオレはお仕舞いだなと心底思って観念した。どん底とはそういうものでしょう? しかし、主イエスはそこから人を立ち上がらせる。立ち直らせるのです。立ち直らせるだけではありません。そこから歩ませてくださる。新しい人生を歩ませてくださるのです。

今日読みましたイザヤ書42章に、こんな御言葉があります。

「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことがない。」

これは、まさにイエス様のことを預言した言葉です。傷ついた葦というのは、もう役立たないものの代表ですね。完全に折れているのではないけれど、折れかかって、もうグニャグニャになっている。無用のもの、不要物の代表みたいな存在です。さあ、そういう葦を手にしたら、人はどうするだろうか? 「もうこんな役に立たないもの、要らん」と言って、ぺシャンと折ってしまうでしょう? まだ折れ切っていない葦を、折って捨ててしまうでしょう?

暗くなっていく灯心だって、同じです。もう先が細くなって、燃え尽きてしまう。消えてしまうのは、もう時間の問題だと。そんな灯心を見たら、人はどうするだろうか? まだ消えていないにもかかわらず、フッと息を吹きかけて消してしまうでしょう。そして、こんなもの、要らんと言って捨ててしまうでしょう?

ところが、イエス様は、決してそうはなさらない。傷ついた葦を折ることがないばかりか、むしろ傷を癒して、もう一度、立ち直らせる。消えかかった灯心を消すことなく、もう一度、明るく燃やしてくださる。信仰の炎を燃やしてくださる。あのエマオに向かう二人の弟子たちが、絶望に捕らわれて、悲しみの歩みを続けていたとき、歩みを共にしてくださって、道々、御言葉を説き明かしてくださった。あのとき、彼らの心は再び燃えたでしょう? これが主イエスのなさり方です。これが主イエスの立ち直らせ方です。私たちも、この御手に支えられて新たな一歩をこの礼拝から踏み出したいと思います。

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

10月1日(日)のみことば(ローズンゲン)

「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。」(旧約聖書:ルツ記1章16節)

「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。」(新約聖書:コロサイ書3章13節)

今日の新約の御言葉に「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」とあります。まあこれだけなら、私たちが日頃聞く世間一般の教訓とあまり変わりが無いのですが、パウロはさらに続けて、こう言っております。

「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」

主が私たちを赦してくださったという、この大きな事実の上に、初めて、互いに赦し合うということが出来るわけです。そして、このことが教会の交わりの中で起こるときに、見えないはずのキリストが教会の中に見えてくる。そういうことが起こってきます。

イエス・キリストが教会を御自分の体とされたことは、教会の中に何もトラブルが無いということではありません。そうではなくて、そういう人間に絶えずつきまとっているトラブルやいさかいを、キリストの救いの事実によって乗り越えて行く。そのことを通して、また、キリストの救いというものが、どういうものであるかということが目に見えて現れて来る。そこにこそ、教会の交わりの秘密があると思うのです。