聖書:詩編1編1~6節・ローマの信徒への手紙10章8節
説教:佐藤 誠司 牧師
「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」 (詩編1編1~3節)
「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。」(ローマの信徒への手紙8章2節)
今日は詩編の第1編の御言葉を読みました。全部で150ある詩編の幕開けを告げる御言葉です。ここに言われていることを一言で言えば、「主の教えを愛し、これを守る者は、幸いだ」ということです。これは、常識的に言えば、何も問題がない。ある意味、当然なことです。
ところが、この詩編の言葉を新約聖書との関わりの中で読みますと、なかなか微妙な問題をはらんでいることが分かります。私たちキリスト教会は、旧約聖書をキリストを指し示す書物として読む、というのが基本的な立場です。そういう立場から、この詩編を読みますと、すぐに一つの問題に突き当たります。それは律法と福音の問題です。パウロがローマの信徒への手紙の3章28節で、次のように語っています。
「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」
これはもう、私たちが基本中の基本としている事です。「キリストは私たちを律法から解放してくださった」という言葉もあります。これはもう、私たち福音主義の教会にとって信仰の中心と言っても過言ではない。そのことと、この詩編の第1編とは、どういう関係にあるでしょうか。詩編が言う「主の教え」というのは、じつは「律法」のことです。この詩編は「主の律法を愛し、これを守る者は、幸いだ」と歌っている。それに対してパウロは「私たちは律法の行いによって義とされるのではなく、キリストを信じる信仰にいって義とされるのだ」と力説している。こういう正反対とも言えることが、同じ聖書の中に言われている。これをどう受け取ったら良いのか。これがまず私たちに与えられている課題です。いきなり、なかなかの難問です。
そこでまず、手近なところから行きますと、先ほど挙げたローマ書の3章28節の言葉を、私たちはどう理解したら良いでしょうか。私たちが神様の前で正しい者と認められるのは、私たちが律法を忠実に守ったからではなくて、ひとえにキリストを信じる信仰による。行いではなく信仰によるのだと、ローマ書の御言葉は語っています。そこで出て来るのが「じゃあ、行いはどうでも良いのか。ただイエス様を信じさえすれば良いのだから」という考えです。これは実際にコリント教会にこういう主張をする人たちが現れて、パウロを悩ませたようですが、これは理屈の上では間違いではない。どんな罪を犯した人であっても、キリストを信じ、その贖いの御業を信じるならば、神様のまえに正しい者と認められ、受け入れられる。まことにそのとおりです。
しかし、皆さん、どうでしょうか。私たちはキリストと出会って、キリストを信じて、信仰者としての生活を始めるわけです。その生活が、やはり問われると私は思う。その時に、信じているのだから、行いはどうでも良いのだと言えるのか。パウロは本当に「信仰さえあれば、行いはどうでも良い」と言っているのか。パウロはそんなこと言ってないのです。じゃあ、何と言っているかと言うと「イエス・キリストを信じることによって、今まで律法の支配のもとで生きていた生活とは全く違う生活に入るのだ」とパウロは語っている。「行いなんかどうでも良い」ではなくて「今までとは違う行いが生まれてくる」ということです。
私たちはパウロという人は律法を否定した人だと思い込んでいますが、これは本当に正しい理解なのでしょうか。パウロはローマ書の7章12節で次のように語っています。
「こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。」
パウロは律法を「聖なるもの」であり「善いもの」だと語っています。それが、どうして私たちを命に導くことが出来なかったのか。この問いに答えるために、律法の成り立ちをもう一度、振り返ってみたいと思います。
律法の代表である十戒が与えられたのはイスラエルの人々がエジプトの奴隷の身分から救い出されて、荒れ野の旅を経てシナイ山に導かれて来た時でした。これはどういう時であったかと言いますと、これからいよいよ神の民として歩んで行こうとする、大切な節目なのです。そういう時に、「あなたたちは、神の民にふさわしい生き方をしなさい」と言われて与えられたのが十戒でした。
奴隷というのは自由も無ければ責任も無い。そういう人たちが、一つの群れとなって、社会を築き、国を造っていかなければならない。大変です。そこで、今日の国家に法律があるように、様々な事柄について「これはこうしたら良い」「これはこうしないといけない」という具合に取り決めをしないと社会は秩序を維持することが出来なくなります。そこで、与えられたのが律法なのです。ですから、律法というのは、それが与えられた時のイスラエルの人々の歴史的な状況と固く結びついているということを、私たちは弁えておく必要があります。状況が変われば、同じものを、絶対的なものとして押し付けるのは正しいことではありません。律法というのは、確かに神様が与えてくださった聖なる掟です。しかし、状況が変われば、律法は絶対に正しいものとは言えなくなる。そういうものです。
私たちを取り巻く状況というのは、しばしば劇的に変化します。数年前に平気だったことが忌み嫌われたりします。以前は通用していた考えが、否定されたりします。状況は変わるのです。その変わりゆく状況の中で、私たちは何を求めるかと言うと、神様の導きを求めるわけです。今の状況の中で、神様は何を求めておられるか。何を命じておられるか。それこそが私たちが求めるべき神の掟です。ですから、律法というのは、それ自体が絶対のものではなくて、私たちがそれに導かれて神様の御心を知っていく。そのために与えられたのが律法だったのです。
ところが、実際はどうであったかと言うと、律法を絶対のものと理解して、それを守ることこそが神の導きに応える唯一の道だと考えた。それがイスラエルの人々がたどった道で、これを私たちは「律法主義」と呼んでおります。それは福音書を見れば分かります。律法学者、ファリサイ派と呼ばれる人たちが、イエス様とどのように対立していったか。彼らは本当に真面目に律法を守ったのです。そんな彼らに、イエス様は「あなたがたは、自分が神の国に入らないばかりでなく、入ろうとする人の邪魔をしている」と言われました。まことに的を射た言葉だと思います。ファリサイ派、律法学者といわれる人たちは、本当に真面目に、誠実に律法を守りました。しかし、イエス様がおっしゃるように、彼らはその真面目さの故に、罪を犯しました。律法を、自分の正しさを証明するための道具にしてしまった。そこに人間の拭い難い罪があります。イエス様は、私たちを、そういう罪から解き放ってくださったのです。そうして、何が起こったかと言いますと、パウロがローマ書の8章2節で、こんなことを言っています。
「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。」
ここに「法則」という言葉が二度、出て来ていますが、これは、いわゆる意訳でありまして、聖書の元の言葉は「ノモス」という言葉で、これは普通は「律法」と訳されることが多い言葉です。ですから、意訳をやめて、ここを「律法」と訳すと、次のようになります。
「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。」
いかがでしょうか。私は、こっちのほうがパウロの本意ではないかと思います。同じ律法でありながら、片方は「罪と死の律法」です。ところが、それがイエス・キリストにあっては「命をもたらす霊の律法」になった。どういう違いがあるのでしょうか。これについて、コリントの信徒への第二の手紙の中で、パウロは「文字は殺しますが、霊は生かします」と言いました。「文字」というのは文字として書かれた律法のことです。それに対して「霊」というのは律法の背後にある神様の愛の御心のことです。律法を文字のとおりに杓子定規に守ろうとする時に、律法は「罪と死をもたらす」ものになってしまいます。これが「律法主義」と呼ばれるものです。
しかし、私たちは、聖霊の助けを頂いて、この律法を新たに見直すことが出来ます。その時に、律法は「命をもたらす霊の律法」になるのだと言われています。
ヨハネ福音書によれば、主イエスは「わたしは、新しい掟をあなたがたに与える。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われました。主が私たちを愛してくださった。だから、私たちは互いに愛し合う。これが新しい掟、つまり「命をもたらす霊の律法」です。無理やり、精一杯頑張って愛し合うのではありません。主が私たちを愛してくださっている。だから、私たちは、欠けの多い器ではありますが、互いに愛し合うことが出来るわけです。
「命をもたらす霊の律法」という場合、私たちが考えておくべきことが、もう一つ、あります。どういうことかと言いますと、今までは自分が一生懸命に努力をして、律法を守ろうとしてきました。しかし、今はそうではない。聖霊が私たちの中におられることで、イエス・キリストも、父なる神様も、私たちの中で働いて、御業をなさる。何も私たちが肩怒らせて、歯を食いしばって「やらないかん」という必要はない、ということです。イエス様が私の中で御業をなさっておられる。そのことを信じて委ねる。そうすれば、今まで出来なかったことが、まことに不思議なことに、出来るようになるのです。しかも、自分の手柄としてではなく、キリストの御業として出来るようになる。こうして、主の掟ということが、イエス・キリストにおいて全く新しいものになりました。
その掟を、私たちはどうすれば守ることが出来るか。この問いの前に姿を現わしてくるのが、あの詩編第1編の言葉です。
「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。」
この「教え」というのは、「律法」のことなのだと言いました。そして「口ずさむ」と訳された言葉ですが、これは元々「喉を鳴らす」という意味のあった言葉です。ハトがくうくうと喉を鳴らして鳴いている。飽きもせず、同じフレーズを繰り返して鳴いている。あれが元になって出来た言葉です。どうしてそんな言葉が選ばれたのかと言いますと、主の掟をいつも口で繰り返しつぶやいている。口だけではありません。心の中で繰り返し、そらんじている。繰り返すというのは、自分の心に刻み付けているということです。キリスト教信仰の生命線は御言葉を聞くことです。繰り返し、繰り返し聞く。それが大事です。御言葉を聞き続けると、どうなるか。それを詩編第1編は次のように語っています。
「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」
皆さんは、この言葉をお聞きになって、本当にそうだと思われますか。むしろ、世間の現実を見るにつけ、本当にそうかなあと首をかしげたくなるというのが本心ではないかと思います。
ところが、聖書は確信を持って「そうだ」と言い切っています。どうしてなのでしょうか。それは、この詩編が語っている「繁栄」というのが、普通私たちが思っているような「繁栄」とは違うからなのです。聖書が言う「繁栄」というのは、あくまで「神様の祝福を受ける」ことです。しかも、この「祝福」は苦難を通して与えられるものです。旧約聖書にヨブという人が出て来ます。ヨブが最後に受けた祝福が、まさにそうですね。天地の造り主である神様が私たちを祝福してくださる。たとえ今、目の前の生活が貧しく悲惨であっても、神様の祝福の下にある者は、必ず幸いを得る。これが、この「繁栄」という言葉の中に言われている信仰です。この信仰を持ってこの世を生きていくためには、どうしても忍耐が必要になってきます。忍耐というのは信じ続けることです。現実に押し流されないで、信じ続けるのです。その時に、本当に力になるのが、主の御言葉、主の掟です。
苦難の中で、主の掟、主の御言葉を繰り返し口ずさんで分かってくることがあると思います。それは「神様は生きておられる」ということです。他人事のように生きておられるのではない。私と共に生きておられる。そのことが分かること。それが「幸いな人」と呼ばれています。人生の試練や苦難の中に「幸いな人」は生まれます。苦しみに遭っても、ちょうど流れのほとりに植えられた木のように、絶対に枯れることがない。生かされているからです。詩編第1編の御言葉を通して、改めて私たちの「幸い」を確認し、感謝したいと思います。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
11月24日(日)のみことば
「主は恵みを与えようとして、あなたたちを待つ。」(イザヤ書30章18節)
「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。」(ヨハネ福音書12章12~13節)
今日の新約の御言葉の「なつめやしの枝」という所が、以前の口語訳聖書では「棕櫚の枝」と訳されておりました。だから、主イエスがエルサレムにお入りになった日曜日を「棕櫚の主日」と呼ぶようになった。この日、エルサレムの人々は棕櫚の枝を振りながら、次のように言って主イエスを大歓迎したのです。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」
人々が口にしたこの言葉は、ユダヤの人々が王を迎える時に歌った詩編の言葉です。つまり、エルサレムの人々は主イエスを自分たちの王として迎えたことが、ここから解る。この頃のユダヤは、すでにローマ帝国の属国です。ローマ皇帝を王としなければならない。しかし、ユダヤの人々はそんなローマの支配を打ち破って自分たちに真の自由をもたらす王の出現を待ちわびていたのです。今、エルサレムに入って来られたイエスこそ、その王なのだと口々に歌っているのです。勝手な期待と言えるかも知れません。皆さんご存知のように、今喜んで主イエスを王として迎えている人々が、ほんの数日後には主イエスに失望し、さらに敵意を募らせ、ついには「十字架につけろ」と叫ぶようになるのです。