聖書:詩編1編1~6節・ローマの信徒への手紙3章28節

説教:佐藤 誠司 牧師

「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」 (詩編1編1~3節)

 

今日は詩編の第1編を読みました。この詩編は次の言葉で幕を開けます。

「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。」

この詩編は「幸い」を告げる詩編です。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」は幸いだと、この詩編は語っています。

ところが、この「主の教え」と訳された言葉が私たちに一つの問題を提起します。この「主の教え」の「教え」というのは、「律法」のことなのです。私たちキリスト教会は、旧約聖書をキリストを証しする書物として読みます。旧約聖書のメッセージを、いつもキリストの光の中で読んでいく。これがキリスト教会の基本的な姿勢です。

このように、新約聖書との関わりの中で旧約聖書を読んで行きますと、すぐに一つの問題に突き当たります。それが律法の問題です。例えばパウロの手紙、ローマの信徒への手紙の3章28節に、こういうことが書いてあります。

「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」

有名な言葉です。有名なだけではありません。これは信仰義認といって、私たちプロテスタント教会が依って立つ軸足のような言葉です。この言葉と詩編の第1編は、いったい、どのような関係にあるのでしょうか。方や詩編は「主の律法を愛し、その律法を昼も夜も口ずさむ人は幸いだ」と歌っています。他方ローマ書は「私たちは律法の行いによって義とされるのではなく、キリストを信じる信仰によってのみ義とされる」と語っている。こういう、一見正反対のことが、同じ聖書の中で語られている。これを、わたしたちはどう受け止めたら良いでしょうか。

ところで、このローマ書の御言葉は、ある深刻な誤解を生じたことがありました。これはコリントの教会で実際に起こったことですが、私たちが義とされるのは、行いではなく、キリストを信じる信仰のみによるのだと聞いて、それじゃあ行いはどうでも良いのかと曲解をして、ふしだらな生活に走る人が出て来たのです。もちろん、これは信仰義認の表面だけをつまみ食いしたような誤解であって、パウロは行いなんかどうでも良いなどとは少しも言ってはいない。じゃあ、パウロは何を言っているかと言うと、私たちはイエス・キリストを信じることによって、律法の支配のもとに生きていた、これまでの生活とは全く違う生活に入った。「行いなんかどうでも良い」ではなく、「今までとは全く違う行いや生活が始まる」。そういうことです。

ところで、これまでとは全く違う新しい生き方になった時に、律法というものは、いったい、どういう意味を持ってくるのでしょうか。律法が初めてイスラエルの人々に与えられたのは、出エジプトの出来事のあと、シナイ山のふもとで、いよいよこれから神の民として生きて行くのだというイスラエルの人々に、モーセを通して与えられたのが十戒でした。これが律法の始まりです。ですから、律法には、それまで奴隷として生きてきた人々が神の民として生きていくために、どうしても必要な掟が書かれているわけです。

ですから律法で言われていることは、ものの当時のイスラエルの人々の歴史的・社会的な状況にとって、本当に正しい事でした。しかし、歴史的・社会的な状況が変われば、どうでしょう。状況が変われば、正しさの基準も変わります。そういう意味で、律法とは必ずしも絶対的な掟ではなかった。律法そのものが絶対に正しいということではなく、律法に導かれて、イスラエルの人々が神様と共に歩んでいく。それが大事なことだったのです。

ところが、実際はどうなったかと言うと、律法の絶対視が始まった。律法は人々が神様と共に歩んでいくために与えられたものなのに、その律法が人々と神様との間に立ちはだかって神様と人との交わりを阻害したのです。律法は悪い者ではないはずです。パウロが言うように、律法は聖にして正しいものです。しかし、その正しい律法を、人間がダメにしたのです。その中心になったのが、律法学者、ファリサイ派の人々です。この人たちは本当に真面目な人たちです。律法を神の言葉として一生懸命に研究し、守りました。ところが、イエス・キリストが語られるお言葉に、この人たちは真っ向から反対しました。しかも、律法の名において反対した。ここに、律法を絶対化する人間の罪が明らかにされました。

この律法に、全く新しい息吹を吹き込んでくださったのが、イエス・キリストです。主イエスは十字架につけられる前の晩に、弟子たちに「あなたがたに新しい掟を与える」と言われました。この「新しい掟」というのは古い律法に対して言われていることです。何が新しいのでしょうか。イエス様は続けてこう言っておられます。

「互いに愛し合いなさい。」

互いに愛し合うことが、新しい掟なのだと言っておられます。しかも、イエス様は、ただ漠然と「愛し合いなさい」と言われたのではありません。イエス様は、こう言われたのです。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

「わたしがあなたがたを愛したように」と言っておられるのです。イエス様が私たちを愛してくださった。だから、私たちも互いに愛し合うことが出来る。それも自分の手柄として出来るというのではなくて、キリストが私の中で生きて働いてくださる、イエス・キリストの御業として出来るようになる。それが大事なことです。

イエス・キリストが来られる前は、自分が一生懸命に努力をして、律法を守るしか道はなかった。自分が頑張るしか道はなかったのです。しかし、今の私たちは、そうではない。イエス・キリストが私たちの中で御業をなさってくださる。何も私たちが歯を食いしばって「やらないかん」という、そういうことではなくて、主の御業を信じて委ねる。そして主を信頼して、心を開く。そうすれば、不思議なことに、今まで出来なかったことが、出来るようになる。今までは、ただ文字としての律法しか知らなかった。けれども、私たちはキリストに導かれて、何をしたら良いかということが分かってくる。「主の掟」ということが、イエス・キリストにおいて初めて生きたものとなる。これらのことの根底にあるのが、イエス・キリストが語ってくださるという事実です。キリストが私たちの中で語ってくださる。私たちは、その御声を聞く。御言葉を聞く。これが大事です。

主の御声、御言葉を聞くと、どうなるでしょうか。それを語っているのが、詩編の第1編です。こんな御言葉がありました。

「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。」

前にもお話しましたが、この「口ずさむ」と訳された言葉は、元々「喉を鳴らす」という意味のあった言葉です。いちばん身近な例は、ハトの鳴き声です。皆さんはハトの鳴き声を聞いたことがおありでしょうか。まるで喉を鳴らすように、飽きもせずに同じフレーズを繰り返して鳴いている。あれが元になって出来た言葉です。キリストが私たちの中で御言葉を語ってくださる。すると、その御言葉を、ハトのように飽きもせず、繰り返し唱えるのです。ハトのように同じ御言葉を繰り返し唱えるなんて、よその人が見たら変人だと思われるかもしれません。愚かに見えるかもしれない。しかし、それが本当の幸いなのだと、この詩編は語るのです。

聞いた御言葉を繰り返し唱える。ハトが喉を鳴らして鳴くように、何度も何度も繰り返し唱える。キリスト教の生命線は主の御言葉を聞くことです。キリスト者の生命線も、そこにあります。主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。御言葉を聞くことが私たちの信仰の源泉です。同じように、聖書を読み、同じように説教を聞いていても、響き方がそれまでとは全く違うということが、私たちの人生の只中で起こります。

もう40数年も前になりますが、私は、大阪の母教会で献身して、同志社大学の神学部で学んでいたのですが、どうしたことか、献身の志が萎えてしまった。心の中で、もう自分は牧師にはならないだろうなと思っていました。しかし、教会から奨学金を頂いていたこともあって、それを言い出すことが出来ない。そういう献身者としてはどん底の時に、次の御言葉に出会いました。

「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

最後の晩餐の席で、主イエスがペトロに言われた言葉です。まさに衝撃的な出会いでした。礼拝で牧師が語っている説教なのに、イエス様が直接私に向かって語っておられる。そういうことが起こるのだと分かった時に、御言葉の扉が開かれた。「あなたは立ち直ったら」というのは「私があなたを立ち直らせる」という約束の言葉なのだと分かった。どうして分かったか。キリストが私の中で語っておられるから、分かったのです。

おそらく、こういうことは、どなたの人生にも起こることだと思います。そして、それは大抵、どん底の時です。ヤコブがどん底の時に神様の御言葉をききました。ペトロが、パウロが、どん底の時に主の御言葉を聞きました。詩編の第1編に、こんな言葉がありました。

「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」

この「流れのほとり」というのは「主の御言葉が豊かに聞けるところ」という意味でしょう。そう聞きますと、どんなに素晴らしいところだろうと思いますが、これは案外、「どん底」の事ではないかとも思います。

私たちは順風満帆の時に主の御言葉を聞くのではない。どん底で聞く。苦しみの時なのかもしれません。悩みの時なのかもしれません。悲しい出来事のさなかかもしれません。どん底のさなかで、なりふり構わず、主の御言葉を聞く。そして、その御言葉を繰り返し唱える。ハトが喉を鳴らして鳴き続けるように、飽きもせず、繰り返し御言葉を心に響かせる。それこそが、まことの幸いなのだと今日の詩編は語っている。そして、その幸いに、私たちを招いているのだと思うのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

7月14日(日)のみことば

「立って、あなたたちの神、主を賛美せよ。とこしえより、とこしえにいたるまで、栄光ある御名が賛美されますように。」(旧約聖書:ネヘミヤ記9章5節)

「言葉はあなたの近くにある。あなたの口、あなたの心にある。これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」(ローマ書10章8節)

礼拝に於いて、あるいは礼拝生活の中で、神様から与えられる言葉があります。教会生活を始める前と今では話す言葉がずいぶんと違ってきているのではないでしょうか? 決して言葉がお上品になったというわけではないのです。言葉の質が変化を遂げている。共に神を讃美し、主イエスを救い主と崇める礼拝を一緒にしているその中で、互いの心を建て上げていく言葉が与えられていきます。預言の言葉とは、そういうものです。

相手を非難し、傷つける言葉ではありません。そういう言葉なら世間に嫌というほど転がっています。しかし、それは本当の言葉ではない。本来の言葉とは、相手との関係を建て上げていく言葉です。家族の関係、夫婦の関係、親子の関係を建て上げるのは、そこで交わされる言葉なのです。だから、パウロは言いました。

「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」

愛の言葉が人を、教会を建て上げていくのです。