聖書:出エジプト記20章1~3節・マタイによる福音書16章13~20節

説教:佐藤 誠司 牧師

「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。』」(マタイ福音書16章15~18節)

 

今日はマタイ福音書16章のペトロの信仰告白の物語を読みました。ここを見ますと、イエス様が「私のことを誰と言うか」と、二度、弟子たちに尋ねておられます。その二回を比べてみますと、はじめは世間の人々のことを聞いておられる。世間では私のことを誰と言っているか。それに対して、弟子たちがあれこれ聞いてきたことを報告しております。

ところが、そのあとで、イエス様は居住まいを正して「それでは、あなたがたは私を誰と言うか」と尋ねておられる。これを見ますと、イエス様が世間一般の人たちと弟子たちとをハッキリ区別しておられることが分かります。どこで区別されるかというと、主イエスを誰と言うか、その一点なのです。

今日でも世間の人たちはイエス様のことをいろいろ自分流に解釈をして、自分流に評価をしています。作家や科学者、歴史家と、様々ですが、皆、自分の理屈が先にあるのです。しかし、教会というのは、そういう理屈や主観でもってイエス様のことを解釈する、ということをやらなかったのです。

さて、「あなたがたは私を誰と言うか」と問われて、シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。メシアというのはキリストということです。この答えに対して、イエス様はこうおっしゃった。

「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ。」

イエスというお方は私たちと同じ肉体を持った人間として、マリアという女性から生まれてくださいました。ですから、パウロがフィリピの信徒への手紙で言っているように、「人間と同じ者」となったのです。その人間であるイエス様を「神の子キリストです」と呼ぶためには、一つ、超えなければならない壁がある。それを飛び越えないと、そういう信仰告白は出来ない。それをペトロは告白した。それに対して、イエス様はあなたがこの告白をすることが出来たのは、人間の知恵によるところではない。父なる神様が教えてくださったからなのだ。あなたは幸いだね」とおっしゃった。これは、私たちが信仰の告白ということを考えるとき、いつも心に留めておくべきことです。信仰の告白というのは、私たちの中から出て来るものではない。神様がイエス様のことを「これは神の子キリストだ」と示してくださって、そういう恵みを受けて初めて、私たちは信仰の告白が出来るようになるわけです。

では「主イエスは生ける神の子キリストです」と告白をした。この告白の持つ意味は何なのか? それが次の問題になります。なぜなら、せっかく「イエス様は生ける神の子キリストです」と告白をしても、その意味が明確に捉えられていないと、あまり意味がないからです。世間でキリスト教と称しながら、じつはキリスト教と違った信仰内容を持つ人たちがいます。例えばものみの塔・エホバの証人と呼ばれる人たち。この人たちは自らキリスト教を名乗っていますし、世間でもそう思われているようです。

しかし、非常に重大なところで違いがあるのです。この人たちも主イエスがキリストであることは認めていますし、神の子であることも認めています。その意味では彼らもペトロと同じ信仰を告白してるじゃないかと思われるかも知れません。しかし、「神の子」という言葉の意味が、私たちとは全く異なるのです。

どういうことかと言いますと、私たちがイエス様を「神の子」と呼ぶ場合、それは神様と全く同じ本質を持つお方、つまり、父なる神に対する子なる神という意味で言うのですが、ものみの塔の人たちはそうではない。あの人たちはイエスは神の子だけれど、神ではないと言うのです。じゃあ、神の子って何なのだと言うと、神の使いのことなのだと考えるわけです。ですから、同じように「神の子キリストです」と告白をしても、意味がまるで違うのです。

このように言いますと、信仰にはそんな知性偏重の理屈は要らないではないか、知性や理屈抜きで熱心に信じておれば、それで十分ではないかと言われる方もあるかも知れません。しかし、キリスト教の信仰というのは、じつは知性というものを大事にするのです。ローマ書の第12章2節に、こんな御言葉があります。

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えるようになりなさい。」

有名な御言葉です。自分を変えていただくとか、何が神の御心であるかを知るというのは、大事なことだと誰しも思いますね。しかし、その大事なことが、どのようにして起こってくるかと言うと、「心を新たにすることによって」と書いてあります。この「心を新たにする」の「心」と訳されている言葉は、じつは「知性」という意味の言葉なんです。信仰というと、私たちは知性とは違う、情熱的な熱い心、感情とか熱心ということを連想しますが、パウロはそうではなくて、むしろ「知性が新たにされる」ことが大事なのだと言っています。

知性と言うのは、ものの道理を考え、判断する働きのことです。信仰生活というものは、ちゃんと目を覚ましてものを考え、受け取り、判断をする。そういうことが私たちの信仰生活の中で必要になってくる。そうでないと、信仰そのものがヘンな方向に迷ってしまう。この世に倣うようになってくる。だから、知性を新たにすることが、どうしても必要になってくるのです。しかも、その知性というのは、世俗の知性ではない。礼拝という霊的な営みの中で、聖霊が働いて造り変えられる。すると、ものの見方や考え方が変えられていく。そこで初めてイエス様を見て「ああ、この方こそ、生ける神の子キリストだ」ということを正しく判断することが出来るようになる。ですから、この「生ける神の子キリストです」という短い言葉を、単なる旗印にするのではなく、私たちは、よく考え味わって、自分の生活の中にきちんと受け止めて、それでもって生活ごと養われていくことが大事になってきます。キリスト教信仰というのは、極端に言えば、この「あなたこそ、生ける神の子キリストです」という信仰告白を、生活の中で、だんだんと深く受け止めていくことだと言い切っても差し支えがないと思います。それほどに、この告白は大事なんです。

さて、今日は読みませんでしたが、今日の個所のすぐあと、ペトロが信仰を告白して褒めていただいたその直後に、こんなことが起こっています。21節です。

「このときから、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』。イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている』。」

こういうこと起こったと、わざわざ書いてあるのです。つい今ほど、褒めていただいたペトロが「サタン、引き下がれ」と言って、叱られています。どうしてこんなことが起こったのでしょうか? これは、主イエスがご自分の受難を予告された。それに対してペトロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言ったので、叱られたのです。ペトロは「あなたこそ生ける神の子キリストです」という信仰告白を引っ込めたわけではないのです。今褒めていただいた告白は、ちゃんと持っている。ちゃんと信じているのです。それにもかかわらず、お叱りを受けた。どうしてこんなことになったのか。

じつは、ペトロが「あなたこそ生ける神の子キリストです」と言った時に、考えていたキリスト像は、ペトロ流の考えだったのです。例えば、イスラエルの国をダビデ王の時代のように立て直す、世直しをする。ローマ帝国を打ち倒す。そういう期待を持って、ペトロはこの告白をした。ところが、イエス様は「神の子キリスト」ということの本当の意味は、十字架にかけられて死ぬことなのだとおっしゃった。

つまり、告白の持っている意味が主イエスとペトロとでは大違い。ペトロのほうは、イエス様は何も傷つくことなく、神様の力で世の中を変えてしまう。それがキリストだと思っている。イエス様はそうではなくて、皆の罪を背負って、この世の一切のものを背負って、その責任を自分が負う。十字架につけられる。全く違いますね。ペトロが主イエスの言われたことを本当に理解したのは、彼が主イエスを裏切って逃げて、その罪が主の十字架によって贖われたことを受け止めた、そのときに初めて分かった。ペトロは、そういう信仰の歩みの中で、あの告白を自分のものにしていったのです。

私たちも同じです。私たちが、この簡単な告白の言葉を、信仰に入ったときは、ほんの輪郭だけ、「イエス様は神の子キリストなんだなあ、神様は私たちの救いのために、イエス様を送ってくださったんだなあ」と、そういう大雑把な輪郭だけで始ったでしょう。けれども、信仰生活を続けていくうちに、いろいろな信仰の問題や葛藤と出会ううちに、この言葉の持っている本当の内容を「ああ、こういうことを言ってたんだなあ」と、段々と内容が具体的に蓄えられていく。それがまた信仰生活の持っている大事な意味だと思うのです。

ところで、もう一つ、この信仰告白の言葉について、言っておかなければならないことがあります。それはどういうことかと言いますと、私たちは「神の子キリスト」という言葉には注目しますが、その前の「生ける神の子」という「生ける」という言葉に、どれだけ注意を払っているでしょうか? 「あなたこそ、神の子キリストです」と言ったって、良かったではないかと思われるかも知れません。しかし、ペトロは「あなたこそ、生ける神の子キリスト」と告白をした。これはどういう意味なのでしょうか? 「生ける」というのは「生きておられる」ということですが、これはじつは生きていない神々、つまり「偶像」に対して言われた言葉なのです。私たちが信じる神様は偶像ではない生ける神様なのです。じゃあ「生ける神」とは、どういうことなのかと言うと、もちろん天地の造り主とか、世界の支配者という意味もありますけれども、この「生ける」という言葉の一番切実な意味は「私の救いのために行動してくださるお方」ということ。それが「生ける」という言葉の本来の意味です。

その生ける神様が私たちを救うために、今、何をしてくださったか? 神ご自身が人となって、ナザレのイエスという人となって、私たちのところまで降りて来てくださった。そして、自ら私たちの罪を背負って、十字架にかかられた。私たちの罪を全部贖って、私たちを神様の子どもとしてくださった。これが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」という告白の中に込められている大切な意味です。ですから、十字架というのは偶然の成り行き上の出来事ではない。神様が私たちを救うために、全能の力、全知を傾けて成し遂げてくださった救いの御業です。私たちはこのキリストの十字架の前に立って、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白をします。そういう告白が出来るということは、人間の知恵ではない。「これは天の父なる神様があなたに現してくださったことだ。あなたは幸いだね」と、主イエスは言ってくださいました。そういう告白の上に立っているのが、教会なのです。人となった神様なんて、世間の人から見れば、なんという矛盾、なという訳の分からんことを信じているのかと、そう思われるでしょう。あのナザレの人イエスという一人の人間を、神の子、神様と信じているなんて、なんと馬鹿げたことだろうと、思うかも「知れません。けれども、この人の目からは馬鹿げたことに思われることの中に、じつは、神様の計り知れない救いのご計画があり、素晴らしい力が隠されている、そのご計画と力に、直接頼ることが私たちには許されている、それが私たちの望みです。この望みの上に、私たちは信仰生活を建て上げていくのです。

 

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

6月30日(日)のみことば

「神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。」(旧約聖書:詩編82編8節)

「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。」(ローマ書11章30~31節)

今日の新約の御言葉はパウロがユダヤ人の救いについて語った部分です。「彼ら」というのがユダヤ人です。パウロはここでユダヤ人の不従順は神様の御業だったのだと言い切っています。ユダヤの人々が神様に背いている。それさえも、神様の深い計画の中にある。それは、このことを通して神様の御心がいかに深く大きいかということを、私たちに知らせるためなのだ。これがこの問題の結論ですが、この結論に行くまでに、パウロは本当に心を痛め悩んだ末に、神の救いの計画、選びの計画の深さ大きさについて、私たちに深い示唆を与えてくれています。

私たちに絶えず起こってくる問題は、人間の側の心の状態や態度によって、私たちの救いが左右されるのではないかという不安であると思います。また、人間の側の状態を問うことによって、あの人は救われるとか、あの人は救われないに違いないとか、そういうことを心の底で思ってしまいます。そういう不安や欺瞞に対して、いや、そうではない。人の思いをはるかに超えた神様のご計画があるのだ、そのご計画の前に膝を屈めることが大事なのだと教えているのが、このローマ書のユダヤ人問題ではないかと思うのです。これは福音の真髄を、いつもとは違う側面から示す大切な御言葉であると私は思います。