聖書:詩編1編1~6節・ヨハネによる福音書14章6節
説教:佐藤 誠司 牧師
「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」 (詩編1編1~3節)
今日は旧約の詩編の第1編を読みました。今、私たちは創世記に始まって、旧約聖書の有名な御言葉を続けて読んでいますが、私たちが旧約聖書を読む時に、一つ心に留めておくべきことがあります。それは、旧約聖書を書き記した人々はイエス・キリストに出会っていないということです。イエス様のことを知らないで書かれたのが旧約聖書です。
しかし、私たちはイエスというお方を知っています。神様が御子イエス・キリストを送ってくださって、私たちの救いを成し遂げてくださったということを知っています。ですから、私たちが旧約聖書を読む時には、これを書いた本人よりも、もっと深い意味を御言葉の中から汲み取ることが出来る。そういう幸いが私たちにはあるということです。そういう意味で、私たちは今日、詩編の御言葉をキリストの光の下で読んでいきたいと思います。
「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。」
この詩編は、非常な感動を持った言葉で始まります。「幸いなるかな」という叫びのような感動が、ここには秘められています。それはちょうど、イエス様が山の上で語られた、あの言葉、「幸いなるかな心の貧しき者」というのと響きが似ています。詩編もイエス様のお言葉も、共に「幸い」を語っていますが、両方とも、どうも世間で言う「幸い」とは随分と違う世界を語っているように思います。この詩編は、いったい何を「幸い」と言うのでしょうか。
ここに「神に逆らう者」という言葉が出ております。これは、もう少し言葉を補って言うと「神無き人」ということです。これは神様なんかいるわけないよと思っている人。世の中、人と人との交渉だけで成り立っていると思っている人のことです。まあ、そんな人は世間にはたくさんいます。ひょっとして、皆さんのご家族の中にもおられると思います。ですから、この「神に逆らう者」というのは特別に悪い人というのではなく、むしろ普通の人のことです。普通の人が考えているのが「神様なんかいるわけない」ということなのです。神様なんかいるわけないと考えていますから、これはもう自分だけが頼りです。自分がなんとかうまく立ち回って人より上に行かなくてはならないと考える。そういう世間の人の生き方に従って生きて行かない人は幸い何だと詩編は語っているわけです。次に3節の言葉を読んでみます。
「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」
皆さんは、この3節の言葉をお聞きになって、本当にそうだと思われますか。むしろ、世間の現実を見るにつけ、本当にそうかなあと首をかしげたくなるというのが本心ではないかと思います。
ところが、聖書は確信を持って「そうだ」と言い切っています。どうしてなのでしょうか。それは、この詩編が語っている「繁栄」というのが、普通私たちが思っているような「繁栄」とは違うからなのです。私たちは普通、子どもの教育ひとつ取って見ても、有名大学に入れて、大きな会社に就職させて、お金持ちになってと、そういうのが「繁栄」だと考えています。
ところが、聖書はそういうのを「繁栄」とは言わないのです。聖書が言う「繁栄」というのは、あくまで「神様の祝福を受ける」ことだからです。天地の造り主である神様が私たちを祝福してくださる。たとえ今、目の前の生活が貧しく悲惨であっても、神様の祝福の下にある者は、必ず幸いを得る。これが、この「繁栄」という言葉の中に言われている信仰です。この信仰を持ってこの世を生きていくためには、どうしても忍耐が必要になってきます。忍耐というのは信じ続けることです。現実に押し流されないで、信じ続けるのです。
それに対して、1節にある「神に逆らう者」「罪ある者」「傲慢な者」というのは「そんなことあるか。神様なんかいるわけない。目に見えている現実だけが事実なんだ」と、そういうふうに考えます。
では、信仰を持って神様を信じて生きている人は、いったい、どういう生活をしているでしょうか。1節は、それを否定形で言い表しています。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず。これらは皆、否定形です。この否定形の裏返しが2節に語られている生き方です。
「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。」
この「教え」というのは、普通は「律法」と翻訳されることの多い言葉です。律法と聞きますと、私たちはすぐに堅苦しい「規則」のようなものを連想します。しかし、律法というものは、じつは、そういう規則ばかりではないのです。旧約聖書の初めにある五つの書物。創世記と出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、この五つを「モーセ五書」と呼んでいますが、普通のユダヤ人は律法といえばこのモーセ五書の事だと考えています。つまり、ユダヤの人々にとって「律法」とは、規則だけではなく、アブラハムの物語もイサクやヤコブの物語も、全部ひっくるめて「律法」と呼んだのです。
じゃあ、律法とは何かというと、神様が私たちを愛しておられる。その愛の御心が言葉になったものが「律法」だと言っても良いと思うのです。一つ、例を挙げますと、創世記の28章にあるヤコブの物語。お父さんを騙し、お兄さんを出し抜いたヤコブが家におれなくなって、放浪の旅に出ます。石を枕に野宿をした時、神様がヤコブに「わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを見捨てない」と言われました。これは神様の御心、愛の御心です。これを聞いてヤコブは大変に喜びました。そして、それ以降、この時の神様の言葉がヤコブの支えになりました。どんなに辛いことがあっても、ヤコブは、その度にこの言葉を思い起こし、口ずさんだことでしょう。これが「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ」ということです。
で、この「口ずさむ」と訳された言葉ですが、これは元々「喉を鳴らす」という意味のあった言葉です。皆さんはハトの鳴き声を聞いたことがおありでしょうか。まるで喉を鳴らすように、飽きもせずに同じフレーズを繰り返して鳴いている。あれが元になって出来た言葉です。ヤコブがそうしたように、人生の支えになった神様の言葉を、ハトのように飽きもせず、繰り返し唱えている。ハトのように同じ御言葉を繰り返し唱えるなんて、人が見たら変人だと思われるかもしれない。しかし、それが本当の幸いなのだと、この詩編は語るのです。
ハトの鳴き声は、同じフレーズの繰り返しです。たまに別の鳴き声が聞こえるなんてことはありません。御言葉も、これと同じです。聖書はこんなに分厚い書物ですから、それこそたくさんの御言葉があります。全部を口ずさみ、暗誦するのは大変です。
しかし、聖書の言葉は不思議です。全部の言葉ではなく、一つの言葉であっても、それが先ほど述べたヤコブのように、人生の原点、支えになった御言葉であるならば、ここに、じつに不思議なことが起こります。その御言葉を繰り返し口ずさみ、思いめぐらしていくうちに、じつに不思議なことですが、聖書のほかの言葉がそこへ、すうっと集中してくるのです。それは、喩えて言えば、注射をする時に似ています。注射器の中には、たくさんの薬が入っていますが、その薬が一度にどんと体に入って行くのではなくて、あの小さい注射針に薬が吸い寄せられて、さらに小さな針の穴を通って体に行き渡っていく。
聖書の御言葉も、これとよく似ています。あれもこれもでなくても、一つの大切な御言葉を繰り返し口ずさみ、思いをめぐらすうちに、その小さな御言葉に、聖書全体の命が引き寄せられて、注射針の先端のように小さな、その御言葉を通して、すうっと入って来る。そうしますと、ああ、これはこういう意味だったのかということが、だんだん分かってくる。そういうことが起ってきます。聖書全体を隈なく勉強することも、もちろん、素晴らしいことですが、その聖書の言葉が本当に私たちの中で、命となって働く時というのは、おそらく、一つの聖句が、まるで注射器の針がぶすっと立つように、私たちの魂にすうっと入って来るのではないかと思います。
そういう意味で、私は、皆さんお一人お一人が「これは」と言う御言葉を持っておくことは大事なことだと思います。一つの聖句を通して、聖書全体の命が私たちの中に入って来るからです。
昨年度、私は城之橋教会の代務を務めましたが、その最後にIさんという御婦人の葬儀をお引き受けしました。彼女が愛した聖句が、次の御言葉でした。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」
この人は夫に先立たれ、更にご長男とご長女を病で亡くされた。愛する家族を立て続けに失ったIさんが、なおもこの聖句を愛唱されていたことに、私は正直、驚きを禁じ得ませんでした。しかし、Iさんが耐え抜いた悲しみの底には、やはりこの御言葉が地下水脈のように流れていたのではないかと思います。「どんなことにも感謝しなさい」という御言葉との間に葛藤もあったでしょうし、格闘もなさったでしょう。しかし、やがてこの聖句を通して、聖書全体の命が、この人の中に宿ったのだと思います。だから、Iさんは「私は今も落胆していません」と言うことが出来たのでしょう。
「私の福音」という言い方をパウロはしましたが、「これが私の福音だ」といえる御言葉を皆さんがお持ちになることは、やはり意味があると私は思います。私はこの御言葉で神様の恵みが分かったという言葉を、聖書の中に見つけることが、ある意味、私たちが聖書を読む大事な目当てではないかと思います。そして、そういう言葉が与えられたら、それを嬉しい時も悲しい時も口ずさむ。ハトが繰り返し喉を鳴らして鳴くように、口ずさむ。そしてその御言葉を通して語られる神様の語りかけを受け止めて生きていくのです。
そうすれば、ここに言われているように、「その人は流れのほとりに植えられた木」のようになる。そして「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」と言われています。この「繁栄」というのは神様の祝福を受けているという意味なのだと申し上げました。すべて繁栄をもたらすと言われています。それほどに神様の祝福は大きいのです。ローマ書の8章に「万事が益となる」という御言葉がありますね。万事なのです。失敗だったなあと思われることも、ああ、あんなことやらなきゃ良かったのになあと後悔することも、そういうことも、すべて祝福に変わる。不幸なことも、悲しいことも、祝福の内にある。城之橋教会のIさんが言われたように、だから私たちは落胆しない。なぜ落胆しないのか。これは神様が用意された命の道だからです。教会の一枝とされて生きるとは、そういうことです。どうか、この生き方を大事にしていただきたいと思います。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
6月2日(日)のみことば
「主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。」(旧約聖書:詩編96編2節)
「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」(使徒言行録2章46節)
今日の新約の御言葉は、生まれたばかりのキリスト教会の人々の様子を伝える興味深い御言葉です。これを読んで、まず気が付くことは、「一つ」という言葉がキーワードになって、繰り返し出て来ることです。少し前の44節には「信者たちは皆一つになって」とありますし、今日の御言葉にも「心を一つにして」とあります。そして47節には「主は救われる人々を日々仲間に加え、一つにされた」と書かれています。なぜなのでしょうか。使徒言行録を書いたルカはパウロの弟子ですが、そのパウロの手紙のキーワードが、この「一つ」という言葉なのです。
パウロの手紙に出て来る「一つ」という言葉は、決して数を表しているのではありません。パウロが言う「一つ」とは、一人の人キリストと深い関係があるからです。典型的な御言葉がエフェソの信徒への手紙の第4章にあります。こんな御言葉です。
「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望に与るようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ、」
このように、パウロが言う「一つ」という言葉は、ただ一人の人キリストとの関連で使われる、まさにパウロにおけるキーワードの一つなのです。