聖書:ヨナ書2章1~11節・マルコによる福音書10章32~34節

説教:佐藤 誠司 牧師

「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。』」(マルコによる福音書10章32~34節)

「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(マタイによる福音書16章4節)

 

 

4月に入りまして、私たちはマルコ福音書によって、主の受難と復活のメッセージを読み味わいました。2日(日)の棕櫚の主日では十字架の物語を読み、9日(日)のイースター礼拝では復活の物語を読みました。私たちは受難と復活のメッセージを経て、今日の礼拝を迎えたわけです。そこで、今日は主の受難と復活のメッセージを振り返りつつ、どうして主の受難が私たちの救いになるのかという、福音の要の部分をお話ししてみたいと思うのです。

さあ、主イエスの受難が、どうして私たちの救いになるのか。21世紀に生きる私たちは、2千年の教会の歴史に乗っかって聖書を読んでいますから、主イエスの十字架の受難が私たちの救いになることを、何の抵抗もなく、むしろ当たり前のことのように受け入れて読んでいますが、リアルタイムで主の死を目の当たりにした人々は、それこそ驚天動地、いったい何が起こったのか、想像すらできなかったと思います。そこで、今日、私たちは、当時の人々の心に寄り添いつつ、主イエスご自身のお言葉から、受難と救いの関係を読み解いていきたいと思います。

そのために、まず、基本となる主の受難予告を振り返って、おさらいをしておきたいと思います。最初の受難予告は8章31節以下。ここはフィリポ・カイサリアでのペトロの信仰告白に引き続いて、なされた受難予告です。「あなたはメシアです」と見事な信仰をペトロが告白した。その直後に、主イエスがこうおっしゃったのです。

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。」

これが最初の受難予告ですが、皆さん、もうお気づきと思います。受難予告と言いながら、ここには復活の予告も語られているのが目を引きます。これは、これ以降の2回目、3回目の受難予告でも同様でありまして、いずれにも受難と併せて復活が予告されています。今日、受難予告の史実性を疑う学者は、ほぼ皆無です。主イエスがご自身の受難を予告されたことを疑う人は、聖書学者の中にもいないと言っても差支えがありません。

ところが、こと復活の予告となると、事情は一変します。多くの学者が疑いました。殊に聖書学が飛躍的に進歩した20世紀の後半、復活予告は厳しい批判の目にさらされました。極端な場合、復活予告は後代のキリスト教会が創作して主イエスの口に入れたものではないかという批判まで出たようです。

しかし、私は思うのですが、主イエスの言葉を何よりも重んじて大事に伝えていた初代教会が、はたしてそのような創作めいたことをするだろうか。私は、受難予告も復活予告も、同じ主イエスの口から語られた言葉であり、その史実性は極めて高いと思っています。

さあ、そうしますと、ここに一つの疑問が生じます。主イエスはなぜ、受難予告と復活の予告を結び付けて語られたのかという疑問です。この疑問の答えは、今しばらく措くとして、さしあたっての問題として「メシア」の意味の変遷について、少しお話ししてみたいと思います。8章31節の最初の受難予告は「あなたはメシアです」というペトロの告白に続いてなされたものでした。どうして、「あなたはメシアだ」という信仰告白に続いて受難予告が語られたのかというと、そこにはやはり大きな理由がありました。

メシアという語は、今では「救い主」という意味に定着していますが、旧約聖書の時代、メシアは政治的な意味と宗教的な意味との間で揺れ動きました。この揺れ動きを反映して、旧約聖書には大きく分けて二つのメシアの系譜が見られます。一つはダニエル書が伝えるメシア像です。紀元前のイスラエルは有名なバビロン捕囚以降も、様々な大国によって占領され、国難に遭いました。ダニエル書が書かれた時代も、そうでして、ここから勝利者としてのメシア像が生まれて、人々の間にメシア待望の思いが募って行きます。

それに対して、もう一つのメシア像がイザヤ書53章が伝える「苦難の僕」としてのメシア像です。多くの人の身代わりとなって無残に殺されていくこの僕をメシアと結び付ける人は、当初、皆無であったと言われます。ところが、この「苦難の僕」の歌を虚心に読めば読むほどに、この僕の苦難と死が多くの人の救いに結び付いていることが分かる。そこで、人々は、勝利者ではなく、苦難の道をたどる救い主としてのメシア像が、ここにあるのではないかと。こうして、メシア像は旧約聖書の中では未解決のまま、二つのメシア像が並列する形で、キリストの到来を迎えるのです。

さあ、そうしますと、最初の受難予告の直前にペトロが言った「あなたはメシアです」という信仰告白も、その中身が改めて問われることになります。主イエスの時代、ユダヤはローマ帝国に支配されていましたから、人々の間にローマを打ち倒して国を解放するメシアを待望する思いが最高潮に達していました。ペトロもこれと同じメシア像を抱いていたことは容易に想像できます。ペトロはダニエル的な勝利者メシアを望んでいた。だからこそ彼は、主イエスの受難予告を聞いて、「主よ、そんなことがあってはなりません」と言って主を諫めたのです。これは何を表しているかと言うと、ダニエル的な勝利者としてのメシア像とイザヤ書53章の苦難の僕としてのメシア像は全く相容れないということです。

ところが、この水と油とも言える二つのメシア像が、イエス・キリストにおいてピタリと重なってくるのです。どういうことかと言いますと、主イエスが「苦難の僕」としての自己理解を持っておられたことは、もはや疑う余地がありません。しかし、それと同時に、主イエスは勝利者としての自己理解も持っておられたのではないかと類推できるのです。それを示しているのが、復活予告の言葉です。ここで改めて、3回目の受難予告と復活予告の言葉を読んでみたいと思います。

「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

いかがでしょうか。非常に具体的な受難の有様が語られています。侮辱し、唾をかけ、鞭を打つという具体的な行為が出ていますし、死刑のことが出て来ます。福音書が、いよいよ追い込みに入ったことが、これで分かります。復活の予告を見ますと「三日の後に」となっています。どうして「三日の後」なのでしょうか。

これについてはマルコ福音書は示唆を与えてはいません。しかし、マタイ福音書に決め手が出て来るのです。マタイ福音書の16章の1節以下です。ファリサイ派とサドカイ派の人々が主イエスを試そうとして、「天からのしるしを見せてほしい」と言いました。これはどういうことかと言うと、あなたがメシアであることの証拠を見せてほしいと彼らは言ったのです。これに対して、主イエスは次のようにお答えになりました。

「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

何を言っておられるかと言いますと、私がメシアだということのしるしは、一つしかない。それはヨナのしるしだと主イエスは言っておられるのです。ヨナというのは旧約の預言者の名前です。ヨナは神様からニネべに行って預言を語れと命じられますが、嫌だなと思って、船に乗って逃げてしまいます。すると、船は暴風雨に遭って、ヨナは海に投げ出されて、巨大な鯨がヨナを飲み込んでしまいます。こうしてヨナは三日三晩、鯨の中にいて、三日目に鯨が潮と共にヨナを吐き出して助かるというお話です。

ヨナの物語はユダヤ人なら子供でも知っている有名なお話ですが、この話をメシアと結び付けたのは、おそらく、主イエスだけだと思います。ここで主イエスは、ヨナが三日三晩、鯨の腹の中にいたように、人の子メシアも地の中に横たわる、葬られて三日の間、墓の中に横たわる。そのこと以外にしるしはないとお答えになったのです。

ここには二つ、大事なことが言われています。一つは、メシアは墓に葬られるということです。これは非常に独創的なことです。ダニエル的なメシアですと勝利者ですから、墓に葬られるなどということは、あり得ません。ですから、これは受難予告と結び付くメシア像です。

ところが、ヨナの物語には、もう一つ、重要なモチーフがあるのです。それは、ヨナは鯨の腹の中に三日間しかいなかったということです。墓の中に横たわるという苦難の決定的な預言を語ると同時に、そこに「三日」という言葉がついている。墓に葬られるという受難のメッセージと三日が過ぎると墓の中にはいなくなるという復活のメッセージが、ここに有機的に結びついているのです。「ヨナのしるしのほかに、しるしは与えられない」という言葉が主イエスの独創的な理解であると認めるなら、この言葉によって結び合わされた受難予告と復活予告が、共に主イエスが実際に言われた言葉であることは、もはや明白です。

というわけで、最後に残された問題に入って行きます。主イエスの受難予告を丁寧に読みますと、受難はあくまで救いの問題として語られていることが分かります。救いと切り離されて受難が語られているわけではないのです。これは大事なことですが、案外、見過ごされがちな点だと思います。主イエスの受難は無目的な受難ではないのです。救いのための受難です。救いというのは、救われる人間にどのような結果を呼び起こすかと言うと、平安が与えられる。そう言っても良いと思います。平安が与えられない救いというものは、考えられないわけです。

ところが、この受難や苦難が素のままで語られて、そこで終わっていたら、どうでしょうか。メッセージが受難に終始して、そこで終わってしまったら、聞く者に平安は与えられるか、という問題です。あなたが救われるために、救い主の十字架が必要だったのだと言われ続けたら、どうでしょう。おそらく、多くの人は一応は納得して受け入れるでしょうが、救いの結果である平安は決して与えられないと私は思います。なぜでしょうか。メッセージが責め道具になってしまうからです。

バラバという人がいます。主イエスの裁判が行われたとき、裁判官のピラトは、過ぎ越しの祭りのたびに死刑に処せられるべき犯罪人の内、一人を無罪放免にすることを常としていました。そこで、ピラトは「キリストと言われたイエスか、強盗のバラバか」と群衆に問いかけます。すると人々は「バラバを釈放せよ、イエスを殺せ」と叫んだ。こうしてバラバは主イエスの十字架の死と引き換えに、助かった。そういう人物です。彼は、その後、なんとかして、弟子の仲間に入りたいと願ったようです。しかし、なれなかった。なぜでしょうか。受難のメッセージしか聞けなかったからです。イエス様はあなたのために十字架についたのだと、そればかり、来る日も来る日も聞いた。熱心に聞いた。しかし、彼の魂に平安は来なかった。

なぜでしょうか。おそらく、十字架のメッセージを、彼ほど深く、身に染みる形で聞いた人は、いなかったと思う。なのに、「なぜ?」という疑問が残ります。

十字架の苦難が救いの本質に触れているのは疑いの無い事実です。十字架に足りないものは、何一つ無いでしょう。しかし、苦難が苦難を突き抜けるという出来事が起こることが大事です。苦難が苦難を突き抜け、死が死を打ち破る出来事、すなわち、復活のメッセージが出来事として引き起こされて行く。そのときに、平安と喜びが生まれる。受難者イエスは死と罪に対する勝利者としてよみがえられた。苦難のメシアと勝利者メシアは、主イエスの復活において一つとなるのです。私たちを、このメッセージに導くために、主イエスは受難予告と復活の予告を結び合わせて語られたのではないでしょうか。私は、ここに福音の要があると思うのです。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

4月16日(日)のみことば(ローズンゲン)

「焦って口を開き、心せいて、神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。」(旧約聖書:コヘレトの言葉5章1節)

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(新約聖書:マタイ福音書6章8節)

聖書が語る神は、私たち人間にとって絶対他者であり、両者の間には厳然とした断絶があります。そこには連続性はなく、接合点もありません。今日の旧約の御言葉が語る「神は天にいまし、あなたは地上にいる」というのは、そこのところを語っています。このことは、新約においても基本的には変わることはありません。神は絶対的な他者であり、神と人との間に連続性はない。これは揺るぎのない事実です。

しかし、その神が私よりも「私」に近い方として生きて働いておられる、というのが新約聖書の新たな主題になってきます。その典型を示しているのが、今日の新約の御言葉です。これは主イエスが弟子たちに「主の祈り」を教えてくださった、そのときの主イエスのお言葉です。私たちは「欲しいもの」は知っていても、「必要なもの」は知らないことが多いと思います。父なる神は、それを知っておられる。しかも、私たちが願う前から知っておられるのです。「私よりも『私』に近い方」の所以が、ここにあります。