聖書:イザヤ書6章1~13節・使徒言行録26章19~23節

説教:佐藤 誠司 牧師

「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』」(イザヤ書6章8節)

「わたしは神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり、わたしは、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」(使徒言行録26章22~23節)

 

使徒言行録の第26章の物語を読み味わいました。ここには未決囚として鎖につながれたパウロがヘロデ・アグリッパ二世の前で弁明を語る場面が描かれています。弁明というのは裁判に於いて被告に与えられた権利です。自分を弁護するためにする。それが弁明です。

しかし、お読みになって皆さん、お気づきのことと思いますが、はじめは弁明として語り始めた話の内容が、いつの間にか証しに変わっています。自分を弁護するために語り始めたものが、いつしか、キリストの御業を指し示す証しになっている。どうしてでしょうか?

その訳は26章の1節に記されています。アグリッパ王がパウロに「お前は自分のことを話してよい」と言って発言を促したからです。そう言われて、おそらくパウロは、はたと立ち止まったに違いありません。パウロにとって、自分とは、あくまでキリストに捕らえられた自分であって、それ以前の自分を、彼はとっくに捨て去っていたのです。パウロはフィリピの信徒への手紙の中で、ファリサイ派のエリートとして歩んでいた、かつての自分を「塵あくた」と呼んでいます。「塵あくた」とは、ゴミのことです。ゴミはさっさと捨て去るものでしょう? いつまでも置いておくと、周りまでが臭くなってしまう。そういうものです。パウロは、ファリサイ派のエリートとして華々しく熱心に生きていた過去の自分を、「もうこんなもの、要らん」と言って捨てたのです。

これは言い換えますと、キリストとの出会いが、それほど大きかったということです。それはただの出会いではありません。出会いというと、何か取り澄ました印象を持ちますが、パウロのキリスト経験は、枠には収まり切らない大きなものでした。彼は突然、天から襲ってきた光に打ち倒された。ぶちのめされたのです。その様子が、以前に読んだ12節以降に、証しとして述べられています。

彼がまだサウロという名前で、キリスト者を迫害していた頃、その日も彼はダマスコにキリスト者が潜伏しているという情報を入手し、祭司長から権限を委任されて、殺害の息を弾ませながらダマスコに向かっていた。ところが、彼がダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らしたと書いてあります。サウロは立っていることが出来ずに、地に倒れ伏します。すると、そのとき、彼は、呼びかける声を聞きます。

「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」

この語りかけの声を聞いて、サウロは、思わず、こう問い返しました。

「主よ、あなたはどなたですか。」

誰だか分からない声の主に向かって「主よ」と呼びかけた。サウロは直感的に分かったのです。声の主が誰だかは分からない。しかし、これは天からの声だと直感的に分かった。だから、彼は「主よ」と呼びかけることが出来なのです。この問いに対して、彼は決定的な答えを聞くことになります。

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」

この一言が彼に与えた衝撃は、計り知れないものがあると思います。今の今まで、サウロには、キリスト者を迫害しているという意識しか無かったのです。ところが、天からの声は「私がイエスである」と言っただけでなく、あなたは私を迫害しているのだと言ったのです。イエスというお方は、そういうお方であったのかと。キリスト者への迫害をご自分への迫害とし、キリスト者の痛みをご自分の痛みとされる。主イエスとは、そういうお方であったのかと、この瞬間的な出会いが、彼にどれほど深刻な衝撃を与えたか。

サウロはこれまで、イエスは神に呪われた者として処刑されたのだと信じ込んでいました。神に見捨てられて死んだのだと思っていた。その男の亡霊に突き動かされているだけのキリスト者は、まことに憐れむべき存在で、この迷える人々をユダヤ教の本筋に立ち返らせることこそ、自分の本分であり使命だとサウロは確信していたのです。

ところが、天の栄光の座から、ほかならぬ主イエスの声が響いたとき、彼のこれまでの確信は大きく揺らいだに違いありません。しかも、この声は、単なる声ではなく、パウロの魂の奥底に向かって呼びかけ、語りかける声だったのです。

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人とするためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。」

パウロがキリストに捕らえられた瞬間です。パウロの場合、この瞬間に、いくつもの事が同時に起こっているのが特徴です。パウロの場合、キリスト者になったのと、伝道者とされたのが、ほぼ同時です。これは極めて珍しいことです。そして、迫害者から伝道者へという具合に、生き方が180度、転換させられている。これは人間業ではない。人間業でないとすれば、いったい、何によって起こったことなのか? パウロはそれを、今日の個所で「天から示されたこと」と呼んでおります。

「アグリッパ王よ、こういう次第で、わたしは天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦

人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。」

天から示されたことに、自分は背かなかったのだとパウロは言うのです。ここは以前の口語訳聖書ですと「天からの啓示に背かず」となっていました。「啓示」という言葉が使われていたのです。

さあ、啓示って、何でしょうか? 啓示というのは、平たく言いますと、覆いが取られるということです。覆いに覆われていると、中の物が見えないですね。ところが、その覆いがさっと取り去られると、中のものがハッキリ見えるようになる。これが啓示ということです。

では、パウロの場合、何がハッキリ見えてきたのでしょうか? さあ、皆さんは、何だと思われますか? 今まで見えなかった真実が見えてきた。いったい、パウロに何が見えてきたのでしょうか? 「天から示されたこと」「天からの啓示」となっていました。「天から」というのが大事なところです。パウロには、ダマスコで語りかけられた声の主が復活の主イエスであることは分かっていたのです。

ところが、主イエスの復活と天におられる神様との関係が、どうしても掴めなかった。分からなかったのです。それはそうだと思います。主イエスの復活を人々に言い広めたペトロたち十二弟子たちも、そこのところは不明確のままだったのですから。そもそも、これは人間には分からないことだったのです。それを、神様のほうから示してくださった。神様ご自身が、覆いをさっと取り除いて、天から啓示してくださった。その啓示を、パウロは受けたのです。

これによって、パウロは天地の造り主である父なる神を信じることと、イエス・キリストを信じることがピタリと重なった。旧約の神を信じることとキリスト信仰が一本につながったのです。だから、パウロは、このあと、22節で「自分は、預言者たちやモーセが必ず起こると語った事以外には、何一つ述べていない」と述べております。これも大胆な発言です。パウロは何を言っているかと言いますと、「預言者たちとモーセ」というのは旧約聖書全体のことですね。つまり、パウロは、旧約聖書全体がキリストの到来を告げているではないかと、そう述べているのです。そしてパウロは最後に、23節で、こう述べております。

「つまり、わたしは、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」

ここ、よーく読んでみると、パウロがじつに不思議な言い方をしていることが

分かります。「光を語り告げる」とありますが、さて「光を語り告げる」のは、いったい、誰なのでしょうか? パウロでしょうか?

パウロはここで「生まれ変わった私が光を語り告げるのだ」と言っているのでしょ

うか? 違うのです。光を語り告げるのは、十字架で死に、三日目に復活されたキリストご自身なのだとパウロは、ここで述べているのです。

それでは、キリストご自身が語り告げる「光」とは、何のことなのか? そこ

が肝心要になってまいります。12節からのパウロの証しを見ますと、パウロは天からの光に打ちのめされて、倒れ伏したことが分かります。それほどに強烈な光だったのです。しかも、この光は決して自然の光ではない。何かの象徴なのです。

いったい、何の象徴なのでしょうか?

それを知るために、私たちは旧約のイザヤ書第6章の物語を読んでみたいと思います。

さて、イザヤは神殿におりまして、彼の肉体の目で見た神殿の礼拝は、もう堕落していて腐敗していて、形式だけのものになっている。神様なんかおられない、と心の中で思っていたのです。そういう現実しか見えては来なかった。イザヤの心には憤りしかなかった。しかも、この憤りは人々に対する憤りです。しかし、イザヤは、そこで信仰の目が開かれて、この神殿に神様は臨在しておられるという、隠された真実を見た。それは本当に身震いするような厳かな経験でした。イザヤが神の臨在に接したとき、彼は恐れおののきました。どうしてでしょうか? 自分の罪を自覚したからです。5節にこう書いてあります。

「わたしは言った。『災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。』」

神様の臨在に触れる。それは私たちからすると、大変に有り難いことです。しかし、同時に、それは私たちの罪が暴かれ、私たちが滅ぼされるときでもあります。ですから、モーセなどは、神様を見ることを恐れて顔を覆ったと書いてあります。イザヤはそれまで、自分の同胞の罪を深く感じて、それに憤りを感じておりました。人々の罪を強く非難しました。しかし、今、神の臨在に触れて、同胞の罪だけではない。実に自分自身が汚れた唇の者である、ということがハッキリ示された。これが大事なのです。

私たちが神様を知るときに、神様の恵みであるとか、神様のお守りとか、そういうことだけではない。自分の罪ということをハッキリ知らされる。今まで、自分は、汚れた民の中で、自分一人が熱心に神様に仕えてきたと思っていた。しかし、その熱心さが、いかに神様の御心から離れたものであったか。神様に背くものであったか。自分の言うこと、すること、考えること。それらがことごとく、神様から離れてしまっている。イザヤはここで初めてそれに気付くのです。

私は、これはパウロも全く同じではなかったかと思うのです。パウロも、自分の熱心さの中にある罪というものをハッキリ示されました。パウロは、フィリピの信徒への手紙の中で、過去の自分を振り返って、「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ち所のない者でした」と述べています。しかし、その熱心さは、詰まるところ、自分の義を求めるものであったと書いています。パウロも自分の罪を深く示されたのです。

イザヤに戻りますと、自分の罪深さをハッキリ知らされたイザヤに、セラフィムの一人が火箸を持って、祭壇から取った燃える炭火を持って来て、なんと真っ赤に燃える炭火をイザヤの口にひっつけたのです。そして、こう言った。

「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」

私たちが本当に神様の前に出て、神様の言葉を聞くとき、まず示されるのは自分の罪ということではないかと思います。その罪は自分でなんとか始末をつけようとしても、どうすることも出来ません。イザヤもそれを示されました。そのとき、神様は燃える炭火をイザヤの唇にひっつけた。燃える火というのは、聖書の中で、しばしば神の裁きを表します。罪が黙認されるわけではない。裁かれるのです。神様はイザヤの罪を裁かれた。なあなあで、水に流されたわけではないのです。お前だけは特別だとはおっしゃらなかった。

皆さん、想像してみてください。燃える炭火が口にひっつけられたのです。どんな思いがするでしょう。生きた心地がしなでしょう。そうなんです。これは古いイザヤの死を象徴している。古いイザヤは死んだ。そして、新しいイザヤが、ここに誕生した。人間というのは、神の裁きを受けて、古い自分が一度死ぬ。そして神様の力によって新しく生まれなければならない。イエス様がニコデモに言われました。

「人は誰でも、新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」

洗礼が、まさにそうですね。古い自分が一度死んで、新しく生まれる。イザヤが経験した燃える炭火などではない。古い自分が一度死んで、新しい命を受け取るのです。そのときに、この土の器の中に、信じ難いほどの宝が与えられる。主の声を聞き分ける力が与えられる。イザヤはこの力によって聞きました。「誰が我々に代わって行くだろうか」という御声を聞くのです。そのとき、彼はどうしても黙っていることが出来ずに、こう言います。

「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

パウロも主の声を聞きました。

「起き上がれ。自分の足で立て。行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。」

パウロを突き動かした天からの光とは、主の十字架と復活による罪の赦しと遣の象徴だったのです。私たちも同じです。主の日の礼拝は、この光をいただく

時です。この光をいただいた者は、そこから遣わされ、派遣されて行きます。和解の務めを果たす者、キリストの香りを放つ者として遣わされて行くのです。

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com