聖書:創世記12章1~4節・ヘブライ人への手紙11章8~16節
説教:佐藤 誠司 牧師
「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。』アブラムは主の言葉に従って旅立った。」(創世記12章1~3節)
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。もし、出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ人への手紙11章13~16節)
永眠者記念礼拝を迎えました。先に天に召された方々を偲び、先達の信仰に学ぶ、そのような日として礼拝を守りたいと願っております。召天者の方々の名前が記された名簿が私たちの前にあります。
この永眠者記念の礼拝にふさわしい聖書の御言葉は、いったいどこだろうと思案しましたが、やはり、私たちの信仰の原点とも言うべきアブラハムの旅立ちの物語を読みました。アブラハムが神様のお言葉を聞いて、今までの住み慣れた土地を離れて、新しい土地に出発をした。その出来事を告げる御言葉です。ここは、じつは、旧新約聖書全巻を貫く大動脈のような物語です。新約まで行って初めて決着が付く大事な出来事ですから、私たちは、この物語に入る前に、新約聖書がこの出来事、アブラハムの身の上に起こった出来事を、どう捉えているか、その一点を、あらかじめ明らかにしておいたほうが良いでしょう。それが今日読んだヘブライ人への手紙11章です。あそこに、こう書いてありました。
「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」
ここを読んで、私たちが非常に強い印象を受けるのは、「行き先も知らずに出発をした」ということであろうと思います。まあ、世の中にはいろんな冒険の話がありますが、どんな大冒険でも、大抵は行き先が示されている。示されている行き先が大変な所だから、それが冒険談になるわけです。ところが、アブラハムは行き先を知らないで出て行った。どこへ行くのか、分からない。随分、無茶な話だと、常識的に考えれば言えるでしょう。
これがもし、自分が計画を立て、自分が目標を設定しているのだったら、行き先が分かっていますね。けれども、アブラハムの場合、そうではない。神様が用意してくださる土地というのは、その時にならなければ、人間には分からないのです。その、分からない所に向かって出発をしなさい、と、そう言われる。これは理屈で考えたら、分からない。そうでしょう? 分からない所へ向かって出発する、というのは、論理的に矛盾しています。分からなかったら、向かうことも出来ないではないかと、頭の良い人ならすぐに分かる。でも、じつは、これが信仰といわれるものの、一つの本質なのです。知らない所へ、自分で何もかも分かったから行くというのではなくて、分からないけれど、神様を信じて行く。神様の約束を信じて行くというのが、信仰にとって大事な要素なのです。そういうことが無くなりますと、信仰の中身がボヤけてしまいます。自分で何もかも算段して、これこれこうだから、こうなるに違いないと、だから神様、どうかそのようにしてくださいと、そういうのは、神様に対して自分が主人になっているようで、おかしいですね。分からないけれど、神様が約束をしてくださっているのだから、信じて行きます。これが信仰の姿でしょう?
さあ、そう考えますと、行き先を知らずに旅立ったというのが、アブラハムだけの大冒険だったというのではなく、どなたの身の上にも起こり得る人生の姿ではないかと私は思う。私たちも、同じなのです。ですから、ここでアブラハムの身の上に起こったことに思いを巡らすことは、とりもなおさず、私たち自身の人生を考えることにもつながる。
行き先を知らないで出て行ったと、それだけを聞きますと、アブラハムという人は大変勇気のある、冒険心に富んだ人だなあと思ってしまいますが、これは間違いです。そういうふうに考えますと、信仰を持って生きるということが、何か特別なことで、偉い人にしか出来ない特別な生き方のような感じを持ってしまいます。
しかし、それは「行き先を知らずに出て行った」という言葉の表面だけを見るから起こる誤解です。アブラハムの、この旅立ちを考えるに当たって、一番大事なことがあります。それはヘブライ書の言葉を借りると「自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると」と書いてありました。召し出されたのです。召し出されるとは、上から呼ばれるということです。つまり、神様がアブラハムに「こうしなさい」と呼びかけられた。それに応える形で、アブラハムは行き先を知らないで旅立った。肝心なのは、アブラハムが神様の御言葉を聞いたという、その一点なのです。その神様の言葉が創世記12章の初めの所に書いてあります。これを見ますと、神様が何のためにアブラハムを選ばれたかが、よく分かります。それは、ただひとえに、アブラハムを祝福しようという、その一心で神様はアブラハムを選ばれたのです。「あなたを祝福する者を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う」と言っておられる。これは物凄い約束ですね。これは、言ってみれば、神様とアブラハムは一心同体ということです。この約束を、アブラハムは信じたのです。神様が「私はあなたを祝福する。あなたと私は一体だ。どんな時にも私はあなたを捨てない」と、そういう非常にハッキリした祝福の約束があって、この約束を土台にして、神様は「私の示す地に行きなさい」とアブラハムにお命じになった。そこがどういう所なのかは、全く分からない。そこへ行って何が待ち受けているか、さっぱり分からない。しかし、神様が祝福しておられるという一点だけは確かな事です。アブラハムはこの一点を信じて出発をした。ここが大事です。
神様が祝福をしてくださっている。だから、決して悪い事はない。どうでしょうか。ある意味、本当に単純なんです。しかし、信仰というのは、煎じ詰めれば、そういう非常に単純な所に行き着くのではないでしょうか。
人生というものは、行く先を知らないものであって、私たちは神様が祝福をしてくださっているという、その一点に身を委ねて生きていく。いつ死ぬかは分からない。怪我をするかも知れない。病気をするかも知れない。分からないことばかりだけれど、神様が私を祝福しておられる。そのことだけは確かな事だ。
この約束を信じて、アブラハムは決断をするのです。その決断とは、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」という、この命令に従ったのです。これは言い換えると、今までの慣れ親しんだ生活を捨てて、新しい生活に入りなさいということ。そのためには、今まで自分の生活を支えてきたもの、今まで自分が生きる支えにしてきたものを捨てなければならない。
さて、アブラハムは物凄い祝福を神様から頂いたわけですが、いったい、どうしてアブラハムはこんな祝福を得たのでしょうか。ここがじつは聖書の凄い所だと思うのですが、何も書いてないのです。アブラハムが大変有能な人だったから選ばれたのだとか、アブラハムが立派な行いをしたから神様は気に入られたとか、そういうことは一切書いていない。どういうわけかは知らないけれど、神様はアブラハムを祝福の源となるように、選ばれた。この祝福の源というのは、どういうことかと言いますと、ヨーロッパの有名な王家や貴族の系図などを見ますと、系図が一本の大木のように描かれているのをご覧になった方もあるかと思います。巨大な幹があって、そこから幾つもの枝が分かれて、それらが大木を形作っている。その枝の所に何代目の誰々というふうに顔が書かれている。あれ、ファミリーツリーというのですが、あれはアブラハム物語の「祝福の源」という言葉から生まれたものです。アブラハムという人が源となって、そこから祝福がいっぱい出て来るのです。これが祝福の源ということです。凄いことだと思います。
じゃあ、私たちは、どうでしょうか。アブラハムが祝福されたことは分かった。しかし、それはアブラハムの話であって、私たちには関係ないと、そういうふうに皆さん、感じられるのではないでしょうか。私たちは救いとか祝福ということを考える時、いつも資格があるか無いかで判断したがります。ところが、聖書は、そういうことを全く言ってはいないのです。これは新約聖書から見なければならないと思いますが、エフェソの信徒への手紙の1章4節以下に、こういうことが書かれています。
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」
これは、信仰とか救いとかを考える時、凄い言葉だと思います。私たちは信仰とか救いということを考える時、やっぱり自分の中にある資格とか条件とかで考えてしまう。熱心だから選ばれるんじゃないかとか、真面目だから救われるとか、そういう個人の資格で考えています。ところが、ここでパウロが言っているのは「あなたがたが選ばれたのは天地が造られる前からですよ」と、明言しているのです。天地が造られるその前ですから、もちろん、私たちは存在しない。私たちがまだ存在すらしない、その前から、神様は私たちを選んでおられた。どういうふうに選んだかと言うとキリストにおいて選んだ。神の子とするために選んだ。ここが肝心要です。
この救いの知らせが「福音」なのです。どんな人でも救われている。しかし、多くの人は、それを知らない。その救いの事実を告げているのが福音です。ですから、福音が該当しない人というのは、世界広しと言えども、一人もいない。世界中のありとあらゆる人に福音は該当している。
私たちは福音と聞くと、教えのように思ってしまいますが、福音は教えではないのです。教えというのは、私たちがそれを聞いて、気に入ったら受け入れる。参考にする。それで応用してやっていける。そういうのが教えです。
けれども、福音は教えではない。気に入ったら受け入れるとか、そういうものではない。神様のなさった事実を伝えるのが福音です。「神様はあなたの救いのために、こういうことをしてくださった。これは事実です。その事実をお知らせします」というのが福音です。単純にして明快なことです。
では、この福音にとって問題は何かというと、この福音を聞いた時に、これを信じて受け入れるかどうか、ということです。「信じる者は救われる。信じない者は救われない」などと路傍伝道でよく言われたものですが、これは、実を言うと間違っている。少なくとも聖書はそういうことを言ってはおりません。信じる者が救われるのではなくて、救われたから信じるのです。皆が救われている。それは事実です。しかし、その事実を受け入れるか、受け入れないか。そこが人生の分かれ道です。福音というんは、そういうものなのです。神様があなたを祝福しておられます。あなたが抱えている問題は一切合財、キリストが解決をしてくださった。あなたは価なく神の子とされている。神様があなたを愛し、導き、育んでくださる。だから、安心して人生を歩めば良い。そういう神様の約束が私たちに与えられております。これを自分のこととして受け入れるか、それとも受け入れないか。それが私たちの問題です。この福音の言葉を聞いて「そんな事あるわけない。聖書の言ってることなんか当てにならん」というふうに思ってしまえば、もうそれだけの話なんです。そこでお仕舞いです。
けれども、ここが大事なところです。アブラハムは、それを信じたのです。
「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う人をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
神様がこう語りかけられた時、アブラハムは「そんなこと、あるわけない」とは言わなかった。「証拠も無いのに、信じられん」とも言わなかった。「当てもない旅には出られん」とも言わなかった。彼が言ったのは、次の一言だけです。
「はい、信じます。」
そう言って彼は信じたのです。信じるというのは、行動するということです。「はい、信じました」と口で言いながら、何もしないで、じっとしていたら、これは信じたことにはならないですね。信じたら、行き先は分からないけれど、出発するのです。行き先も分からんのに、出発が出来るかと賢い人は言うでしょう。しかし、これは理屈の話を言っておるのではない。信仰の話を私はしているのです。信仰生活というのは、いつも出発を促される。御言葉によって促され、背中を押されていく。神様が無条件で私たちを選び、祝福の約束をしてくださり、そして祝福の地を備えておられる。それを聞いた時に、「はい、信じます」と言って、出発をする。ところが、どうも私たちは、神様のお言葉どおり行動しないことに理屈を付けたがる。「今さら、どうにもならんやろ」とか「もうこんな状態だから行かん」とか「これだけしかないのに、行けるわけない」とか、いろいろ理屈をつけて、出発しないことを正当化しようとします。
しかし、福音を受け入れ、信じるというのは、立ち上がることです。一歩を踏み出すことです。これは私たち一人一人のことだけではありません。教会にとっても言えることです。「うちの教会にはこれだけしかない」とか理屈を言わないことが大事です。私たちの教会は神様に祝福された教会、福音を喜んで聞き、喜んで伝える教会です。そのことを信じて、出発をしたい。その時に私たちは「主の山に備えあり」という御言葉を自分たちのこととして聞くことになります。
今日は永眠者記念礼拝を守っています。ここにある名簿は、私たちのファミリーツリーです。その根っこにアブラハムがいます。祝福の源として、アブラハムがいるのです。今日読んだヘブライ書に、こんな言葉がありました。
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。もし、出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」
この御言葉は、天にある故郷こそが、私たちの究極の行き先であることを告げています。アブラハムは、この行き先を目指して旅立ちました。この究極の行き先を知る者だけが、この地上において行き先を知らないまま出発することが出来るのです。私たちも出発しましょう。神は我らと共にいます。この言葉を胸に刻み付けて出発をしたいと願うものです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
9月24日(日)のみことば(ローズンゲン)
「主に従う人は御名に感謝をささげ、正しい人は御前に座ることができるでしょう。」(旧約聖書:詩編140編14節)
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって、わたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(新約聖書:ローマ書8章15節)
振り返ってみますと、私たちは日本的な精神風土に影響されて、神様という存在に、どこか恐れを抱いて生きていたのではないかと思います。「ああしたらいいだろうか、こうしたらいいだろうか」と、奴隷というのはいつも恐れている。やりそこなったら主人に叱られる、鞭で打たれる。だから主人を恐れているのです。これが奴隷の霊です。
しかし、キリストを信じる私たちが受けている霊は、そういう恐れの中に私たちを引きずり込む霊ではない。それは、天地の造り主である神様、私たちを愛し、私たちの人生を支配しておられる全能の神様が私の父なのだと、そういうことを腹の底から信じることの出来る、そういう霊が私たちの中におられる。それが聖霊です。この聖霊によって、私たちは神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来るのです。