聖書:使徒言行録13章1~12節
説教:佐藤 誠司 牧師
「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。』そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。」(使徒言行録13章2~3節)
使徒言行録の第13章に入ります。ここからいよいよ使徒言行録の中心部分に入っていきます。どうしてここから後が中心部分かと言いますと、ここからパウロの伝道旅行が始まるからです。聖書の巻末の地図をご覧になるとお解かりになると思いますが、聖書地図には必ずパウロの伝道旅行の地図が入っています。都合3回行われたパウロの伝道旅行は、福音の世界宣教を語る上で見逃せないと言うより、おそらく、パウロの伝道旅行がなければ、今のように福音が全世界に広まることは無かったでしょう。それほどに、大きな出来事だったのです。
ところで、私は今、「パウロの伝道旅行」と言いましたが、じつを言うと、この表現は注意しないといけません。パウロの伝道旅行という言い方は、学問的にも間違ってはいないのですが、誤解を招く言い方でもあると思います。どういう誤解かと言いますと、パウロの伝道旅行と聞きますと、何かパウロ個人の業のような印象を与えてしまいます。ところが、実際はそうではないのです。パウロだけではなくて、バルナバが参加していますし、他の弟子たちも同行しています。そして彼らのすべての働きを大きく包み込んでいるのが、教会なのです。アンティオキアの教会がパウロを、バルナバを立てて、伝道旅行に送り出すのです。ですから、これはパウロやバルナバという個人の業ではなく、教会の業であったと言うべきでしょう。
ルカも、そこのところはしっかり抑えておりまして、彼は、記念すべき第一回伝道旅行の有様を、アンティオキア教会の祈りから語り始めております。アンティオキア教会の人々が礼拝の中で祈りと断食をしていると、聖霊がこう告げたのです。
「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」
ここから分かるのは、パウロとバルナバの伝道旅行は神様が前もって決めておられたことだった、ということです。二人はそのために選ばれ、アンティオキア教会に導かれてきたのです。今、ようやくその時が満ちて、二人は礼拝の中で立てられます。人々は断食をして祈り、二人の上に手を置いて出発させます。今から始まるのは、教会の業であり、主イエスの業であり、神様のご計画なのだというわけです。
さあ、こうして教会から送り出された一向は、どういう道をたどったか。それは聖書の後ろのほうにある地図を見ていただいたほうが良いと思います。シリアのアンティオキアを出発した一行は、シリアの港町セレウキアに行き、そこから船出をしてキプロス島に向かいました。サラミスという港町で下船した一行は「諸会堂で神の言葉を告げ知らせた」と書いてあります。諸会堂というからには、複数の会堂でパウロたちは語ったということです。これは、後の第二回伝道旅行も第三回伝道旅行でも変わりません。パウロは、いつも向かった先の会堂に入って福音を語っているのです。パウロたちが目指しているのは異邦人への伝道でしょう? ならば、どうしてパウロたちはユダヤ人の集う会堂で御言葉を語ったのでしょう?
この疑問に答えるために、会堂について少し説明をしますと、会堂というのは、平たく言えばユダヤ教の教会のようなものですが、原語ではシナゴーグと呼ばれているものです。シナゴーグとは「共に集まる」という意味です。驚くべきことに、ユダヤの人々は10世帯が集まると、まず何を措いても会堂を建てました。建物を建て、ラビと呼ばれる律法の教師を招聘したのです。その結果、地中海世界からアフリカに至るまで、会堂が建てられました。会堂はユダヤの人々にとって、聖書の御言葉の説き明かしを聞く教会であり、子どもたちを教育する学校でもあり、さらに集会所でもありました。つまり、本国から遠く離れたユダヤの人々のアイデンティティを保障するコミュニティだったのです。この会堂で、ユダヤの人々は、遠くエルサレムを仰ぎ見て礼拝をしました。ですから、地中海世界に散らされた会堂は、すべて東を向いて建てられています。エルサレムを向いて建てられたのです。ここから生まれたのがオリエンテーションという言葉です。
そして、会堂はやがて、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも門戸が開かれていきました。割礼を受けてユダヤ教に改宗することはしていないけれど、聖書に親しみ、聖書の神を信じる異邦人のことを、ユダヤの人々は「神を敬う人」と呼んで、会堂礼拝に受け入れたのです。ルカ福音書の第7章に登場する百人隊長や、使徒言行録第10章に出て来た百人隊長コルネリウスは、この「神を敬う人」であったと思われます。つまり、地中海世界には、ユダヤ人と異邦人が共に集う会堂が数多くあったということです。ここに、パウロたちが行く先々で会堂で御言葉を語った理由があります。会堂で福音を語ることは、すなわち、ユダヤ人と異邦人の両方に福音を告げることだったのです。だから、パウロは会堂を拠点にして福音を宣べ伝えたと見ることが出来る。効率的だったからです。しかし、理由は、ただそれだけだろうか? 効率的だから、手っ取り早いからという、ただそれだけの理由で、パウロは会堂で福音を語ったのでしょうか? 私はそれだけではないと思うのです。では、パウロが会堂で福音を語ったのは、なぜか? じつは、今日の物語の急所は、そこにあると私は思っております。
さて、パウロとバルナバは島全体を回ってパフォスまで行きます。すると、「ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った」と書かれています。これはどういうことかと言いますと、バルイエスというユダヤ人の預言者を名乗る男がいて、彼は預言者を名乗ってはいるけれど、じつは預言者ではなく、預言者の皮を被った魔術師だったということです。この男が地方総督のセルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していたと書いてあります。じつは、ローマ帝国から派遣された地方総督は、ローマ帝国公認宗教の教師を招いて講義を受けることが公務の一つとなっていたのです。日本の皇族が学者を皇居に招いて講義を受けるのと似ています。
ところが、偽預言者の化けの皮がはがれる時がやって来ます。パウロとバルナバの噂を聞いた総督が、二人を総督の官邸に招いて、神の言葉を聞こうとした。すると、バルイエスはそれを妨害しにかかったのです。これによって、バルイエスは結局、神の言葉ではなく、自分の力を総督に誇示するために総督に取り入っていたことが明らかになります。そしてそれこそが魔術師の正体なのだとルカは言うのです。彼は占いや様々な不思議な業によって、総督の心を捕らえ、これこそが神の力なのだと、自分の力を誇示してきたのでしょう。しかし、それは、所詮、魔術です。異邦人伝道の旅に出たパウロたちが最初に直面したのは、このような魔術師との対決でした。使徒言行録が描く異邦人伝道には、しばしば魔術との戦いが出て来ます。すでに第8章のフィリポによるサマリア伝道のときも、魔術との闘いが出てきました。福音が異邦人世界に入って行くとき、まず対決しなければならなかったのが、魔術であった。これは象徴的なことではないでしょうか。
魔術と聞いて、そんなもの、科学が発達した現代には通用しないと言われる方もあるでしょう。しかし、現実はどうでしょうか。確かに近代科学の発展によって、自然界にある不思議な出来事が少しずつ解明され、多くの現象が合理的に説明できるようになりました。ですから、今の時代、「魔術師」という言葉は死語になったようにも見えます。せいぜい、いかさま師のような意味しか持たないようにも見えます。しかし、魔術的な力は、この現代においても、様々に形を換えて、生き続けているのではないでしょうか。魔術は、私たち人間の心の奥に潜む「恐れ」や「不安」を餌にして、増え続けているのです。ですから「恐れ」と「不安」が魔術の温床です。だから、科学的な知識が増大して、すべての現象を科学的に説明できたとしても、「恐れ」と「不安」がある限り、魔術的な支配力もなくなることはないでしょう。あのオウム真理教の事件を思い起こせば分かります。現代のエリートともいえる医師や科学者、弁護士たちが、なぜあのような魔術的な教えにころりと参ってしまったのか? それは、やはり「恐れ」と「不安」があったからです。人間の心にある「不安」を利用しながら、「恐れ」による支配がはびこっていきます。だから、今の世の中にも、祟りとか、呪いとか、因縁とかいう言葉は、強い影響力を持っています。若い人たちの間で、特にそうなのです。これは今の日本の若い人たちの心に、いかに「恐れ」と「不安」が蔓延しているかを示していると思います。
パウロとバルナバは、異邦人世界に蔓延する、この魔術の本質を見抜いていたと思います。だからこそ、彼らは会堂でまず福音を語ったのです。どうしてでしょうか? 会堂では「十戒」が徹底的に教えられていたからです。
ここで出エジプト記20章の「十戒」の言葉を見ていただきたいと思います。普通、十戒と言いますと、私たちは3節から後の部分を思い浮かべます。確かに3節以降に十の戒めが記されていますから、3節以降が十戒なのだと考え勝ちです。改革派の長老教会では十戒を唱えますが、多くの場合、3節以降の部分を唱えます。しかし、本当を言うと、十戒というのは、戒めの部分だけでは成り立たない。その前文と言いますか、1節と2節が大事なのです。まず1節を見てください。
「神はこれらすべての言葉を告げられた。」
新共同訳聖書はこうなっていますが、これは、じつは残念な翻訳です。口語訳聖書では次のようになっておりました。
「神はこのすべての言葉を語って言われた。」
語って言われたというふうになっていたのです。それを、新共同訳は「語って言われた」というのは二重の言い回しだから、一つにして「告げられた」というふうに訳しました。しかし、「語って言われた」という表現そのものに深い意味があるのです。どういう意味かと言いますと、「語りかけて言われた」ということなのです。十戒というのは、規則だ、戒律だというふうに我々は考えます。しかし、本当はそうではない。語りかけの言葉なのです。十戒は、非人格的な戒律ではなくて、神様がご自分の民の人々に向かって懇ろに語りかけておられる。熱い愛の心をもって語りかけておられる。この語りかけの心が十戒全体を貫いているわけです。ですから、十戒は1節と2節が一番大事だと言っても過言ではありません。続く2節で、神様はこう語りかけておられます。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
私はあなたの神なのだと言っておられる。これは、ただ上から目線で、私はお前の神なのだと威張って言っておられるのではない。語りかけて言っておられる。私はあなたの神。だから恐れることはない。不安に苛まれることはない。安心して私と一緒に歩みなさいということです。
では、安心して神様と共に歩むとは、どういうことか、というのが3節以降の戒めになるわけです。
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
これだけ切り離して読みますと、戒律になります。他の神様を拝んだらいかんぞという、戒律になってしまいます。しかし、この3節は2節と表裏一体、切り離すことが出来ないのです。あなたをエジプトの奴隷の家から導き出したのは、この私なのだ。あなたを恐れと不安から解放したのは、この私だ。だから、この私を信じて、委ねなさい。そう言っておられるのです。これはもう、戒律ではないでしょう? 神様の熱い思いがあふれている語りかけの言葉です。そして4節。有名な偶像礼拝を禁じる戒めです。
「あなたはいかなる像も造ってはならない。」
これはもう、皆さん、分かっていると思われるかも知れません。像を造って拝むなんてことは、我々クリスチャンはしていないと思われるかも知れません。しかし、そういう、目に見える像を造って拝むことをしなければ、偶像礼拝をしていないのか。それでおしまいだったら、いとも簡単なことなのです。しかし、偶像とは、いったい、何なのでしょうか?
じつは、これが魔術と深い関係にある。私たちが自分の心の中で、神様とはこういうお方に違いないと考えたものを、形にしたり、像に刻んだりするわけです。でも、その心は、非常にしばしば、恐れと不安に捕らわれている。そうしますと、偶像というものの元の正体は、木や石で作った像の形にあるのではなくて、恐れと不安に捕らわれている心にある。拝んでいる人の心にある、ということです。ですから、パウロは手紙の中で「彼らは自分の腹を神としている」と言っております。腹というのは胃や腸のことではない。心の奥底のこと。私たちの願いがあり、欲望があり、思いがある。そういうものを映し出したものを、これが神様だと思って拝んでいる。神様とは、これこれこういうお方に違いないと、恐れと不安に捕らわれた自分の心が勝手に描き出したイメージを神様だと思い込んで拝んでいる。恐れと不安に捕らわれた心が偶像礼拝を生むのであり、それが魔術を生み出していくのです。そういう心を本当の意味で解放するのは、生ける神様の御言葉です。主の御言葉です。だからパウロたちは、会堂で、神の言葉を語った。「恐れることはない」という、主イエスのお言葉を語ったのです。
魔術や偶像に走る心というものがあると思います。特にこの日本では、そうだと思います。魔術が手を変え品を変えて、人の心に忍び寄ってきます。魔術は人の心の中で、恐れと不安を餌にして大きくなっていきます。恐れと不安から、私の神様はこうあるべしと思い込んで、拝んでいる。その心を、いささかも責めることなく、「恐れることはない」と言って、私はあなたを背負って行くと言ってくださる。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを閉め出す」と言われております。悪霊を追放なさる主イエスの御業は、そういうことなのです。この福音を私たちの国にもたらすために、パウロたちは伝道旅行に出発しました。福音によって、私たちの心が造り変えられるためにです。この福音伝道の果てに、今の私たちが存在するのです。まことに感謝すべきことだと思います。
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