聖書:イザヤ書43章1~4節・ルカによる福音書19章1~10節

説教:佐藤 誠司 牧師

「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカによる福音書19章9~
10節)

 

今日はルカ福音書が伝えるザアカイの物語を読みました。主イエスがエルサレムを目指して旅をしてこられた。その旅も、もうすぐ終わりです。エリコの町まで来られたからです。エリコからはエルサレムは、もう一息というところですから、ここは通過点といいますか、通り道であったと思われる。ところが、主イエスはこの町に逗留することになります。ある人の家に客としてお泊りになったのです。

その人の名はザアカイ。彼は徴税人の頭でありました。この仕事は、当時のユダヤを支配していたローマ帝国に納める税金を取り立てる役目でしたから、徴税人は人々から大変に嫌われました。敵国に貢ぐ税金を同胞から取り立てるのですから、これはユダヤの人たちにとってみれば裏切り者です。しかも、ザアカイはその徴税人の頭でしたから、なおのこと、町中の人から嫌われていた。嫌われて嬉しい人は、いません。嫌われ憎まれている人の中で、必ず「腹いせに」ということが起こります。ザアカイもそうでした。彼は、規定以上の金を人々から取り立てて、私腹を肥やしていたと思われる。腹いせにやることというのは、それがどんなにひどいことであっても、良心の咎めがありません。ザアカイもそうだったでしょう。

そんなザアカイに対して、町の人たちは、どう思っていたか、というと、これはもうお決まりです。町の人たちは、自分たちがザアカイを嫌っている、憎んでいるだけでは煮えたぎる思いが満足しない。そこで神様を持ち出すことになる。あんな罪深いザアカイを、神は呪っておられる。今は栄えておっても、あんなヤツは、最後には滅びに至るに違いない。そうなりますと、ザアカイは安息日の会堂礼拝にも行くことが出来なくなる。完全に交わりから閉め出される形になっていたと思われます。

ところが、そこへ、イエスというお方が来られるという噂が聞こえてくる。罪人と呼ばれる人や徴税人とも親しく心を開いて食事まで共になさるとか。ザアカイの心は、急速に、まだ見ぬ主イエスに傾いていったに違いありません。そのイエス様がエリコの町を通られる。エルサレムを目指しておられるのだろう。だったら、エリコはただの通過点に過ぎない。そう思うと、ザアカイは、一目でいいから主イエスを見ておきたいという願いを押しとどめることが出来なくなった。

ところが、ザアカイが出かけて行くと、すでに街道沿いの道端は主イエスを見ようとする人々でごった返している。黒山の人だかりなのです。ザアカイは背が低かったものですから、うしろから主イエスを見ることも出来ません。まして、嫌われ者のザアカイに場所を譲ってくれる人など、いようはずがありません。つまり、この町にはザアカイの居場所が無かったのです。

そこで、ザアカイは一計を案じます。主イエスはエルサレムへ向かう街道を歩んでおられる。ならば、先回りをして、主イエスを待ち受ければ、その姿を、顔を、見ることが出来るだろう。ザアカイは走りました。先回りをした。すると、何を思ったのか、ザアカイは街道沿いに植えてあるイチジククワの木に登り始めたのです。ローマ帝国によって整備された街道には、旅人に木陰を提供するための街路樹が植えられていたのです。しかし、何のために彼は木に登ったのでしょうか? イエス様を見るだけなら、先回りをするだけで事足りたはず。大の大人が木登りをしたというのは、いかにも不自然と思われるかも知れません。

しかし、こういうことは考えられるでしょう。ザアカイは一目、イエス様が見たかった。しかし、見られたくはなかったのです。だから、木に登って、枝と枝の間に身を潜ませて、そっとイエス様の姿を見れば、それでよかった。私はこういうところに、ザアカイの孤独な心がよく現れていると思います。孤独で居場所の無いザアカイは、追い立てられるようにして木に登った。そして、枝葉の隙間から顔をのぞかせた。さあ、この姿、皆さん、どこかで見覚えはないでしょうか? 息を潜ませて、木の間に身を隠している姿は、創世記の第3章で、神に背いて禁断の木の実を食べてしまったアダムとエバが、神様の顔を避けて、木の間に隠れた、その姿を連想させます。あのとき、主なる神は彼らを呼ばれたのでした。

「どこにいるのか。」

これが、罪のために神の眼差しを避けて身を隠した人間に投げかけられた神の呼びかけだったのです。あなたはどこにいるか、あなたがたはどこにいるのか? この問いかけは、確かに罪の中にさまよう人間を求めておられる問いかけに違いはない。しかし、限界があるのです。

「あなたはどこにいるのか」。この問いかけは、確かに人間を求めている言い方です。しかし、捜してはいない言い方です。ですから「どこにいるのか」という言い方は、言い換えると「出て来なさい」という意味合いが強いでしょう。ところが、出て来れないのです。罪の中をさ迷っているから、神の前に出て来ることが出来ない。そんな人間に向かって「どこにいるのか」と問いかけること自体に、限界があるのです。

しかし、主イエスのなさり方は違いました。木の上で身を隠しているザアカイに向かって、「どこにいるのか」などとはおっしゃらない。名前を呼ばれたのです。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

どうして主イエスはザアカイの名前を知っておられたのかと、いぶかる人もあるそうです。理屈でいえば確かにそうですね。イエス様がザアカイの名前をあらかじめ知っておられたとは到底考えられませんから、ザアカイの名を呼ばれたのは不自然といえば確かにそうなのです。しかし、ルカが、そういう不自然さを犯してまで、言いたかったのは、もっと大きなことではなかったでしょうか。それは名を呼ぶことの意味の重みです。今日は栄冠幼稚園の先生方がたくさん礼拝に来てくださっていますが、栄冠幼稚園の子どもたちが大好きな賛美歌に「一人ひとりの名を呼んで」という讃美歌があります。

「ひとりひとりの名を呼んで 愛してくださるイエスさま どんなにちいさなわたしでも おぼえてくださるイエスさま」

名を呼ぶというのは「あなたはどこにいるのか」と問いかけるのとは全然違う意味を持っている。私はあなたを愛している。主イエスはザアカイに向かって、そう言っておられるのです。

そしてもう一つ、意味深いのは、5節で主イエスが木の上のザアカイを発見する場面です。ここに「上を見上げて」と書いてありますでしょう? ここは、ルカ福音書のキーワードとも言える言葉が使われています。直訳すると「再び見る」という意味の言葉です。これは、視力を回復するということではない。見失っていたものを、再び見いだす。失われていたものを捜し出すということです。主イエスがザアカイをご覧になったのは、単に見たというのではない。失われていたザアカイを見いだしてくださったということです。

ザアカイは驚いて、木から降りてきます。木から降りて、どうしたか? 主イエスの前に立ったのです。ここが大事なことですね。以前に12年もの間出血が止まらない女性の物語を読みましたが、うしろから主イエスの服に触って病気は癒された。しかし、彼女の魂はまだ救われてはいない。そのとき、主イエスはなんと言われたでしょうか? 「私に触ったのは誰か」とおっしゃったでしょう? 捜し出そうとされたのです。その言葉に、彼女は、震えながら前に進み出た。主イエスの後ろではなく、主イエスの前、つまり、主イエスの眼差しの中に身を置いた。ザアカイも同じです。孤独の中をさ迷って、木の枝の間に身を隠していたところから、主イエスに名を呼ばれて、主イエスの前、すなわち、主イエスの眼差しの中に身を置いた。そのとき、彼は生まれ変わるのです。騙し取っていた金を町の人たちに返します、と彼は言いました。これは、ザアカイが生まれ変わったことを物語っています。

私たちは、自分の力で生まれ変わることは出来ません。主イエスに名を呼んでいただいて、受け入れていただいて、初めて、生まれ変わることが出来る。主イエスは言われました。

「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

主イエスが泊まってくださって、翌朝、主イエスはエルサレムに向けて出発なさったでしょう。ザアカイも家を出ました。町の人々を一軒一軒訪ねて、騙し取っていた金を返して回った。莫大な金を、ザアカイは返したのでしょう。しかし、その間に、もっと莫大な身代金が支払われて、彼は自分が贖い取られたことを知ります。主イエスがエルサレムで十字架につけられて死なれた。そのとき、ザアカイは初めて知ったことでしょう。ああ、私は、自分が返した金によって救われたのではない。自分のために尊い命を身代金として支払ってくださった。あのお方が私の名を呼んでくださったとき、もうそれは起こりつつあったのだと。

ザアカイの物語は、主の命によって贖い取られた私たちの物語でもあります。主イエスは、私たちの名をも呼んでおられます。その御声を、今、主イエスが呼んでおられる語りかけ、呼びかけの声として聞くことが出来るか。そこに今日の礼拝の成否はかかっていると言っても過言ではありません。さあ、皆さんは、その呼び声を聞いてそれに応えて、主イエスの前に立つことが出来るでしょうか。イエス様がしばしば言われた「耳のある者は聞きなさい」とは、そういうことであると私は思うのです。

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

4月21日(日)のみことば

「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(旧約聖書:創世記3章19節)

「しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。」(ローマ書5章14節)

今日の新約の御言葉は、アダムが罪を犯したということは、アダムという個人のことではなく、アダムにおいて、すべての人間が罪の奴隷になったということを語っています。じつはこの「アダム」という言葉ですが、これはあの創世記に出て来る一人の人の名前であると同時に、ヘブル語では「人間」を意味する、そういう言葉です。ですから、アダムというのは一個人のことではなく、人間全体を表しているわけです。

しかし、聖書はアダムによって、ただ私たちの罪と死を語っているのではない、と。これがパウロの言いたいことです。確かに、すべての人がアダムの罪を引きずっています。しかし、これは、ここで終わるのではなくて、キリストによる完全な救いを指し示している。アダムの罪は、言うならば、キリストによる救いの「予告編」だった。アダムがすべての人を含んでいるということは、キリストによる救いがすべての人を含んでいるということの、予告だったのです。これがここで言われていることです。