聖書:使徒言行録10章23b~43節
説教:佐藤 誠司 牧師
「ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。ペトロは彼を起こして言った。『お立ちください。わたしもただの人間です。』(使徒言行録10章25~26節)
「よくおいでくださいました。今、わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」(使徒言行録10章33節)
「そこで、ペトロは口を開き、こう言った。『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。』」 (使徒言行録10章34~35節)
ローマ人に福音が届く。これは歴史上、全く画期的なことでした。なぜなら、これまでキリストの福音は、サマリア人やエチオピアの宦官に伝えられることはあっても、それはあくまで例外的で突発的なことでありまして、福音はいまだユダヤ人だけのものだったからです。しかも、ユダヤの人々は自分たちを征服しているローマ人をとりわけ忌み嫌っておりましたから、ローマ人とユダヤ人はまさに水と油、決して交わりようが無い関係と言いますか、両者の間には超え難い溝があったのです。
ところが、この溝の中に、神様は介入して来られたのです。介入して来られただけではありません。ユダヤ人とローマ人の双方から人を選び、その両方に、ご自分のビジョンを示されて、二人を出会わせてくださるのです。選ばれたユダヤ人はペトロでした。この人選は的を得たものでした。そしてローマ人はイタリア隊の百人隊長コルネリウスという人物です。この百人隊長コルネリウスについて、少し振り返ってみますと、ルカは10章の2節で次のように描写しています。
「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」
またそのすぐあとには、彼が午後3時の祈りを守っていたことが記されています。午後3時の祈りは、敬虔なユダヤ教徒が守っていた祈りですから、この人が相当に熱心な信仰者であったことが、これで分かります。しかし、私たちがここで弁えておかねばならないことは、彼の信仰はあくまでユダヤ教の信仰であったということです。律法と預言者は知っている。つまり、旧約聖書は知っている。しかし、キリストのことはまだ知らないのです。このコルネリウスに、キリストの福音を告げ知らせるために選ばれたのが、ペトロだったのです。神は幻の中でコルネリウスに語りかけます。
「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。」
神様は明らかにコルネリウスとペトロを出会わせようとしておられるのです。コルネリウスは、ただちにこれは神様の御業であると信じて、二人の召使と信仰心のあつい部下一人を使者に立ててヤッファに送り出します。
翌日、この三人が旅をしてヤッファに近づいた頃、神様は今度はペトロに働きかけられます。昼の12時の祈りのとき、ペトロは空腹を覚えて、我を忘れたようになった。すると、これもおそらく幻なのでしょう。天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅を吊るされて地上に降りてくるのを見たのです。ペトロがその中を見ますと、様々な獣や鳥たち、地を這うものが入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」という声が聞こえた。ところが、ペトロは驚いて、こう言います。
「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことはありません。」
これは何を言っているかと言うと、神様はユダヤ人のアキレス腱を突いておられるのです。ユダヤの律法には大変厳しい食物規定があります。こういうものは食べてはならない。汚れた物や清くない物には絶対に手を出してはならない。自分が食べないだけではありません。そういう類のものが出て来る可能性のある食卓にユダヤの人々は着かなかった。つまり、異邦人とは食卓を共にしなかったのです。「これを食べなさい」という天からの声に、ペトロが即座に首を横に振ったのも、この食物規定があったためです。すると、天からの声が、また聞こえました。
「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
こういうことが三度あってから、その入れ物は天に引き上げられたと書いてあります。ペトロが今見た幻の意味は何であろうかと思案に暮れていると、ちょうどそのとき、家の表から声が聞こえます。コルネリウスから遣わされた人々がシモンの家を探し出して「ここにペトロと呼ばれるシモンという方は泊まっておられますか」と尋ねたのです。なおもペトロが思案していると、神様はペトロを促します。
「三人の者があなたを探しに来ている。さあ、立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。」
ペトロは階下に降りて行きます。すると、明らかにローマ風のいでたちをしている人物が三人、ペトロを待ち受けています。ペトロは「どうして、あなたたちは、私を探しているのか」と問います。すると、彼らはこう答えるのです。
「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」
ペトロはこのとき初めて悟ったのだと思います。ああ、これは神様がローマ人との出会いを備えておられるのだと悟った。だから、彼は三人の使いを泊まらせるのです。23節に「ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた」と書いてありますね。これは宿泊させただけではないのです。食卓を共にしたということです。これはユダヤ人なら絶対にしないことです。つまり、これで分かることは、ペトロは律法に凝り固まったそれまでの生き方を捨てたということです。
さあ、こうして迎えた翌日、ペトロは三人の人々と共に出かけて行きます。「ヤッファの兄弟たちも何人か一緒に行った」と書いてあります。兄弟たちというのはユダヤの同胞ということです。この人々が、後にこの件がエルサレムで問題視されたときに、証人となるのです。
コルネリウスは家族や親しい友を呼び集めて待っています。ペトロが来ると、コルネリウスは家を出て、ペトロの前にひれ伏します。どうしてわざわざ家を出て迎えたかと言いますと、コルネリウスはユダヤ人が外国人の家に入らないのを知っているからなのです。しかし、ペトロはコルネリウスを起こして、言います。
「お立ちください。わたしもただの人間です。」
そしてペトロはコルネリウスの家に入って行きます。ペトロは言います。
「あなたがたもご存知のとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」
この言葉に促されて、コルネリウスは昨日示された幻について語ります。天使が現れて、ヤッファに人を送ってペトロと呼ばれるシモンを招きなさいと語った次第を話して、その最後にこう言います。
「よくおいでくださいました。今、わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」
いかがでしょうか? 今、自分たちは神の前にいるのだとハッキリ言ってますでしょう。先ほど、ペトロは何と言いましたか? 「私もただの人間です」と言いましたね。ところが、コルネリウスの認識は違いました。彼も、ペトロが自分たちと同じ人間だということは百も承知しているのです。ただ、彼は、ペトロを通して語られる神の言葉を聞こうとしている。神の言葉を語るペトロの前にいることは、すなわち、神の前にいることなのだとコルネリウスは言うのです。おそらく、ペトロは、この言葉にビックリ仰天したに違いありません。「私もただの人間です」とペトロは言ったのです。しかし、コルネリウスは違いました。あなたの前に出ることは、すなわち、神の御前に立つことなのだと言ったのです。ペトロは深く心を動かされて、こう言います。
「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」
そしてペトロはこのあと、イエス・キリストのことを「この方こそ、すべての人の主です」と言っておりますね。つまり、ペトロはここで、こう言ったことになります。神は決して人を分け隔てなさらないこと。そして、神は、どの国の人をも受け入れてくださること。そして、イエス・キリストはすべての人の主であること。
さあ、この三つを一つにまとめると、どうなりますか? 神は、イエス・キリストを主と信じる人なら、どこの国の人であろうと分け隔てすることなく、受け入れてくださる。いかがでしょうか? これは2千年来、今も変わることのないキリスト教会の福音のメッセージでしょう? さあ、ルカは、ここで何を語っているかと言うと、これはじつに大胆なことだと思うのですが、キリスト教会が語る福音のメッセージは、ローマ人に向き合ったときに初めて完成したのだと、ルカはそう語っているのではないでしょうか。イエス・キリストはすべての人の主である。神はどの国の人も、主イエスを信じるなら、受け入れてくださる。これは、じつは、旧約聖書の問いかけに対するキリスト教側の回答でもあります。
創世記の12章に、神様がアブラハムになさった約束の言葉がありますが、旧約聖書というのは、言ってみれば、このアブラハムへの約束がいったいどうなっているのか、ということを問い続けている書物です。その中で問われたのが、3節の次の言葉です。
「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
この「地上のすべての氏族」というのは、いったい、どこからどこまでなのか? ユダヤ教の伝統的な厳しい解釈は、これを「イスラエルの十二部族」のことなのだと考えるのです。
アブラハムからずっと後、モーセに率いられたイスラエルの人たちは、確かに約束のとおり、カナンの土地に入りました。そこで定住して国を建てたのです。ダビデの時代に大変な繁栄を見せました。その時、神がアブラハムに言われた約束は成就したのでしょうか? 確かに、ちょっと目には、約束が成就したかに見えた。しかし、それもほんの一時でした。やがて王国は南北に分裂し、北イスラエル王国も南ユダ王国も滅んでしまった。では、いったい、神様の約束はどうなってしまったのか。この厳しい歴史の中で、いろんな苦しみに遭い、祖国を失ってしまったイスラエルの人たちが、いつでも突き当たるのは、じつはこのアブラハムへの約束でした。神様がアブラハムに約束をなさった。「私はあなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者を呪う」というあの約束は反故にされたのか。神様は本当に「あなたと共にいる」と言われたその約束を守っておられるのだろうか。皆さんが旧約聖書をお読みになると、いたるところで、この問題が噴出しているのをお認めになると思います。それほどに、アブラハムへの約束はイスラエルの人々にとって深刻な問題だったのです。本当に神様は自分たちを愛しておられるのか。本当に神様は自分たちと共にいてくださるのか?
そういう難問に直面して、イスラエルの人々は、いろいろに考えまして、それは自分たちが罪を犯したから、こうなったのであろうと、そこに行き着いた。罪ということに行き着いたのです。そうしたら、神様は罪を犯した私たちを罪のゆえに捨ててしまわれるのだろうか。アブラハムへの約束とは、そんなものだったのだろうか。いや、そうではない。私たちは確かに取り返しのつかない罪を犯したけれど、神様はその罪を赦して、アブラハムへの約束を神自らが成就してくださるに違いない。私たちがこんなに苦しむのは、世界の人々が贖われるためではないかと、それこそが「地上のすべての氏族が祝福に入る」ということではないかと、そこまで旧約の信仰は行き着くのです。しかし、決定的なところで、止まってしまう。
どういうことかと言いますと、旧約には様々なことが出て来ますね。そういう問いかけの中で、人間というのは本当に愚かで弱い存在であって、どうしても神様に従っていくことが出来ない。しかし、神様はそういう愚かな人間を捨てない。捨てないで生かす。この罪を犯した私たちを救うお方が来られるのではないか、というのが、旧約聖書が持っている望みなのです。ここから、救い主・メシアを待ち望む信仰が生まれました。ですから、メシア・救い主への信仰というのは、旧約から生まれたものです。さらに言えば、ユダヤ教から生まれたものだと言っても良いでしょう。
ところが、ここから先で、ユダヤ教とキリスト教は分かれるのです。メシア・救い主とはいったい誰なのか? そして、やはり罪の問題ですね。メシア・救い主は罪の問題をいかにして解決するのか? 十字架なのです。ユダヤ教ではメシアが十字架につけられるなどということは、考えられられなかった。しかし、神様は独り子を十字架につけてまで、人々の罪を贖い、人々をご自分のものとして受け入れてくださった。だから、ここに、あのペトロが語ったメッセージが生まれるのです。神は、イエス・キリストを主と信じる人なら、どこの国の人であろうと分け隔てすることなく、受け入れてくださる。ペトロは最後にこう言いました。43節です。
「この方を信じる者は誰でも、その名によって罪の赦しが受けられる。」
福音とは、つまるところ、罪の赦しなのです。そして、この罪の赦し、十字架による贖いが、旧約から新約への扉を開きます。旧約が終わって、新約聖書が始まるその冒頭に、イエス・キリストの系図が記されました。アブラハムに始まったあの約束は、イエス・キリストにおいて成就している。そのことを宣言して、聖書は新約の時代の到来を告げているわけです。
「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
ペトロのメッセージが終わらないうちに、御言葉を聞いているコルネリウスたち一同の上に聖霊が下ります。それを見て、ペトロとヤッファから来たユダヤ人たちは非常に驚きます。異邦人が、しかも、ユダヤ人とは決して交わりが無かったローマ人が、神を賛美し、キリストを信じる信仰を言い表したからです。ペトロは言います。
「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい、誰が妨げることが出来ますか。」
そして、ペトロは、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと彼ら命じます。そしてコルネリウスたちは洗礼を受ける。ローマ人が洗礼を受けるのです。そして、これと同じ恵みが、今、私たちのこの国にも豊かに備えられていることを思い、感謝にたえません。そして今、あのときペトロが語ったのと同じメッセージを私たちも語れるようにしてくださったのです。神は人を分け隔てなさいません。神は、どの国の人をも喜んで受け入れてくださる。イエス・キリストはすべての人の主である。
この決して揺らぐことのない福音にしっかりと立つ者でありたいと思います。