聖書:イザヤ書9章1~6節・ヨハネによる福音書1章1~5節
説教:佐藤 誠司 牧師
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しみように。彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、あなたはミディアンの日のように折ってくださった。地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた。ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」(イザヤ書9章1~5節)
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」 (ヨハネによる福音書1章1~5節)
待降節の時が満ちて、この朝、私たちはクリスマスの礼拝を迎えました。今年は降誕日と日曜日が重なります。例年ですと、どうしてクリスマス・イヴの前にクリスマス礼拝をやるのかなあと、不思議に思うのですが、今年はイブ讃美礼拝の翌日にクリスマス礼拝を守るという、本来の姿になりました。このめぐり合わせですと必ず、翌週の日曜日が元旦になります。聖餐式のある礼拝が続きます。そこで聖餐にふさわしい御言葉によって、二度の礼拝を守ろうと、ヨハネによる福音書によってクリスマスを祝い、新年を祝おうということに致しました。
ご存知のように、ヨハネ福音書は降誕物語を語っていません。ここにはマリアやヨセフ、博士たちや羊飼いたちも登場しませんし、ベツレヘムの名前も出ては来ません。しかし、それはヨハネ福音書が主の降誕を軽んじているからではありません。ヨハネ福音書はさらに深い仕方で、主イエスの降誕を語っています。それは一言で言いますと「人となった神」ということです。主イエスの降誕。それは神が人となってくださったことなのだと、ヨハネは語る。その一点を語るために、ヨハネ福音書は特別な言葉遣いで幕を開けます。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
じつに不思議な始まり方であると思います。私が教会に来始めた頃、ヨハネ福音書を読んだときの衝撃は忘れられません。なんだか分からない。分からないのだけれど、不思議に心を捕らえる響きがする。どうして「言」なのか。しかも、普通、「ことば」というのは漢字で「言の葉」と書くのが一般的なのに、言語の「言」と書いて「ことば」と読ます。これはいったいどういうことなのか。あるとき、牧師が教えてくれました。この「言」というには「キリスト」のことなのだと教えてくれたのです。
「初めにキリストがあった。キリストは神と共にあった。キリストは神であった。」
なるほどと思います。しかし、今になって思いますと、ここに「キリスト」と書かないで「言」と書いてあるということには、じつは深い意味がある。それは、どういうことかと言いますと「キリストこそが神の言である」ということを言い表しているわけです。
言葉って、何でしょうか? 改めて考えてみますと、言葉とは、私たちの心を表し、その心を相手に伝えるのが言葉です。心は皆が持っているのですが、ではその心を見せてくれと言われても、それを直接見せることは出来ません。その心を表すことを、私たちは言葉によって行うのです。
神様も、やはりそうでありまして、私たちが直接神様を知ろうと思いましても、神様は目には見えません。神様って、いったい、どういうお方なのか。なかなか分かりにくいですね。その神様の心を私たちに知らせるものが神様の言葉です。そしてイエス・キリストこそ、その神様の言葉であると、そういうことを、この福音書は最初に語っているわけです。
神、神様という言葉は誰もが使います。いろんな意味で使います。安直なのもありますし、大変に峻厳な教えものもあります。しかし、どんなに深い教えであっても、その多くは人間の宗教心が造り出したイメージです。そのイメージを言葉にしたり、像に刻んだりして、神様とはこういうお方だと人に教えます。しかし、それらはすべて人間の心が描き出した神様です。
これは、この世界を造り、私たちの人生を支配しておられる、生けるまことの神様とは関わりの無い、いわば人間の好みです。どうしたら、私たちは、まことの神様にお会いすることが出来るか。いろいろ瞑想したり、思索をしたりしても、私たちは神様に至ることは出来ません。ただ一つの道は、神様ご自身が「私はこういうものだ」と言って、私たちに語りかけてくださる。その神様のお言葉によって、ああ、神様とはこういうお方であったかと、私たちは初めて分かる。イエス様は、そういう神様のお言葉であると、こういうことが、ここに言われているのです。
その神様のお言葉であるキリストは、初めからあった。初めからあったというのは、途中で造られたのではないということです。神様が万物をお造りになる。その前からキリストは神と共にあった。そのあとに「言は神であった」と言われております。イエス・キリストというお方は神様なのだと、これがヨハネ福音書の根本です。そして14節を見ますと、こう書いてあります。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」
私たちがどんなにしても知ることが出来ない、天地の造り主である神様が、御自分を何とかして私たちに知らせようとして、人間になってくださったのです。人の言葉で語り、人としての交わりをなし、人としての行いをすることによって、神様は御自分を現わそうとなさいました。これはキリスト教だけが持っている特別なメッセージです。
神様はイエス・キリストにおいて、人間となって私たちの所に来てくださった。だから、私たちがこの目で見ることが出来、そのお言葉を聞くことが出来るイエス・キリストというお方を知れば、神様がどういうお方であるか、私たちに対してどういう思いを持っておられるか、そのすべてのことが明らかになる。次週の礼拝で読みます3章16節にこう書いてあります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
神様はこの世を愛しておられる。このことを神様は、キリストが人間となってこの世に来てくださったことによって、私たちに語ってくださったのです。私たちは理屈で考えますと、神様が世界を支配しておられると考えます。しかし、どうでしょう。現実に私たちが生きているこの世界を、神様が愛しておられるということを、実感できるでしょうか? 戦争が長引いていますし、大きな災害が重なりました。様々な苦難があり、悩みや悲しみが満ち満ちている世界です。神様がこの世を支配しておられるのだったら、なぜこんなことが起こるのか。なぜ神様はこういうことを防いでくださらないのか? そういう思いが致します。
また、皆さんの中には、大変な重荷を負うておられる方がおられるでしょう。なぜ神様は私にこんな重荷を負わせられるのか。そういう現実に直面したときに、神様はこの世を愛しておられるという、一片の観念ではどうしようもない。理屈では太刀打ち出来ないのです。本当に神様はこの世を愛し、私を愛してくださるのだなあと、そのことが分かるのは、イエス・キリストを通して神様のお心に触れたときに、初めて分かるのです。あらゆる悲惨や矛盾にも係わらず、神様はこの世を愛し、私を愛していてくださる。それを知ることが出来る。それがイエス・キリストに対する信仰です。
その信仰を告白して、今日、3人の若い人たちが洗礼を受けます。この人たちのことをヨハネ福音書は、こう語っています。
「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」
悲惨な事故と事件に明け暮れたかに見えるこの一年、それはまるでイザヤ書が言うように闇の中を歩む民のようでした。どうかその私たちに光を見せてくださいますように、その光を失うことなく、証しすることが出来ますように。このクリスマス、恵みの上に恵みを増し加えてくださいますように。ご一緒に祈りましょう。
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