聖書:詩編145編17~21節・コリントの信徒への手紙一6章12~20節

説教:佐藤 誠司 牧師

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(コリントの信徒への手紙一12章3節)

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリントの信徒への手紙一6章19~20節)

 

今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を少しずつ学んでいます。使徒信条は父なる神、造り主なる神を信じる信仰をまず語り、次に父なる神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰を語ります。そこで私たちに問われるのは、イエスというお方を私たちがどう呼ぶか、ということです。これについては、私には一つの思い出があります。今も日曜日の講壇に立つたびに胸をよぎる、大切な思い出です。

今、私は説教の中で、イエスというお方を「主イエス」と呼びますし、時には「イエス様」とも呼びます。ところが、以前はそうではなかったのです。もう30年以上も昔の事になりますが、大阪の母教会で、私は月に一度、夜の礼拝の説教者に立てられたことがありました。その説教の中で、私は「主イエス」ではなく「イエス様」でもなく、「イエス」と呼ぶのを常としていました。これはおそらく、当時学んでいた同志社大学神学部のエートスが多少なりとも影響していたのかもしれません。「イエスは」「イエスは」と呼び捨てにしていたのです。

この夜の礼拝に、毎回出席して、私の説教を聴いてくださるご婦人がおられました。この御婦人が、ある日の夕礼拝の後で、私に近づいてきて、こうお尋ねになった。

「佐藤さんは、説教の中で、どうして『イエスは』『イエスは』と言うのですか。」

私が返答に困っていると、牧師が間に入って、「説教学の立場によっては、客観的・中立的に『イエス』で通すやり方もあるのですよ」と答えてくれました。助け舟を出してくれたわけです。その場は、これでおさまりました。

ところが、それから数日の後、私と牧師が二人きりになった時、牧師がこう切り出したのです。

「佐藤さん、あれは良くないよ。」

私が煮え切らない返事をしていますと、牧師が語気を強めて、こう言いました。

「説教者が『主イエス』と呼べない説教を聴いて、教会員が『主イエス』と呼べるか。」

ぐうの音も出ない、強烈な一言でした。これは呼び方の問題ではない。伝道者としての生き方の問題でした。牧師が声を荒らげてまで言いたかったのは、まさにそこでありまして、「佐藤さん、イエスと呼ぶか、主イエスと呼ぶかで、あなたの伝道者としての生き方が決まってしまうよ」と言いたかったのでしょう。重ねて言いますが、これは呼び方の問題ではない。生き方の問題です。説教者・伝道者というのは、主イエスの福音を語ります。福音を語るには、説教者自身が福音に生きていなければ出来ないことです。主イエスの福音に生きる時に、主イエスを客観的・中立的に「イエス」と呼べるだろうか。私は出来ないと思うのです。そしてこれは決して説教者・伝道者だけのことではないとも思います。

「主イエス」という呼び名は、もうそれだけで「イエスは主である」という意味を持つものです。「イエスは主である」といえば、使徒パウロがコリントの教会の人々に宛てて書いた第一の手紙の12章に次の言葉があります。

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」

これは大切な御言葉です。何が言われているかと言うと、イエス様を主と呼ぶというのは聖霊の働きによるのだということです。ですから、信じるということは、イエスを主と呼ぶことにほかならない。さらに言うなら、信じるということは、自分が身も心も主のものであると、喜んで告白することです。

今、私は「身も心も」と言いましたが、これはキリストを信じる信仰の、ある意味、本質を衝く言葉であると思います。心だけで信じておれば良いというものではない。「身も心も主のもの」となる。それが大事です。

ところが、この「身も心も主のもの」という信仰の要を揺るがす出来事が、コリントの教会で起りました。それを語っているのが、今日読んだ新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の6章の御言葉です。ここに、ぎょっとするような言葉が出て来ます。

「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。」

これを読むだけで、尋常ならざる出来事が起こったことが想像されます。いったい何が起こったのか。ギリシア最大の町コリントの教会に、娼婦の体を買って肉体関係を持つ人々が現れたのです。しかも、彼らは、それを悪びれることなく、むしろこれ見よがしに、大っぴらにやってのけた。パウロはそれを問題にしているのです。

どうしてそんな大それたことが出来たのでしょうか。この人たちは信仰を心の問題だと考えたのです。信仰というのは、詰まるところ、神様と自分との関係のことですが、その関係は心だけのことだと考えた。体・肉体は関係ないのです。だから極端な話、心さえ聖い生活をしておれば、肉体は何をやっても良いのだと。まあなんとも都合の良い考え方もあるものだと思いますが、これはこの人たちの考えというより、当時のギリシア文化の影響と見ることも出来る。当時のギリシア哲学は、しばしば、人間の魂・心の問題だけを重んじて、体を重んじることなく、心と体をきれいに切り離す考えがありました。これを霊肉二元論といいます。

しかし、パウロの批判はコリント教会の人々の倫理観やギリシア文化に向けられているのではありません。パウロは明確な根拠を持って、次のように批判しています。

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

代価を払って買い取られた。これはおそらく、当時の奴隷制度を背景に持つ言い方だと思います。奴隷は金銭で売買されたのです。しかし、私たちを贖うために支払われた代価は金銭ではない。十字架で流された主イエス・キリストの血潮が代価です。この代価によって、私たちは贖われて主人持ちになりました。「主」という言葉は、ここから生まれたのです。尊い代価を払って買い取られ、キリストの者となった。だから私たちは、イエスというお方を「イエス」と呼び捨てにすることは到底出来ません。「主イエス」と呼ぶ。「主イエス」というのは「イエスは主である」という信仰の表明の言葉だからです。

しかしながら、この日本という国でイエス様を主と告白して生きることは、思いのほか、様々な困難を伴うことでもあります。それは牧師の私よりも、信徒である皆さんのほうが、より切実に感じておられると思います。家族の中で、地域社会の中で、親戚関係のお付き合いの中で、あるいは職場で、学校で。日本の社会にはたくさんの主人が軒を連ねています。政治の力が、そうです。あるいは会社や企業が主人になって、私たちの人生を支配しにかかることもあるでしょう。地域社会の習わしが主人になって、私たちの内心の自由を束縛することだって、あるのです。社会の様々な力が、私たちの心と体を、それこそ身も心も支配しようとします。偽りの主人がたくさんいるのです。

信仰というのは、そういうすべての偽りの主人に「ノー」と言うことです。「イエス様こそが、私のただ一人の主だ」と明白に言うことです。初めにご紹介した第一コリント12章の言葉を、今一度味わってみたいと思います。

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」

この言葉を読むとき、私たちは、私たちの先達である明治の日本人キリスト者の信仰を思わずにはおられません。昨今では「カミングアウト」という言葉が日本語として通じるようになりましたが、これを日本で初めて実践したのが、明治のキリスト者でした。今よりもはるかに強い八百万の主人たちの力をはねのけて、彼らは「イエスは主なり」とカミングアウトしました。陰に陽に迫害があったでしょう。しかし、彼らは負けなかった。聖書の言葉を光の武具として身に着けた。「主我を愛す」「我弱くとも、恐れはあらじ」と歌う讃美歌が慰めとなった。

ここから分かることは、社会の中で「イエスは主なり」「イエスは主である」という旗を掲げる事は、いつの時代にあっても、一つの闘いであったということです。闘いというのは、敵がある、ということです。しかし、先ほど挙げた敵のほかに、もう一つ、最も手ごわい敵の存在を、私たちは忘れてはならないと思います。最も手ごわい敵。それは、ほかでもない、自分自身なのです。

私自身も思い当たることですが、私たちは、しばしば、自分の人生の主人になりたがります。今の日本は世界でも稀なほどの極度の幸福追求社会です。その只中で、私たちはかなりの影響を受けていると思います。その影響の中で、何が起こったかというと、自分の幸福追求が他者の干渉されることを極度に嫌う。そういう風潮がいつの間にか出来上がってしまった。子どもは親の干渉を毛嫌いします。他者の存在も、自分の幸福追求に役に立つ間は歓迎するけれど、そうでなくなれば、途端に冷淡にあしらってしまう。夫は妻の干渉に苛立ち、妻は夫の干渉というより、夫の存在自体が疎ましく思えて来る。要するに、誰もが自分が主人でいたいのです。

社会も、そういう生き方を「自主的な生き方」と呼んで、奨励しています。学校では自主的な生き方が勧められて、ハイスペックな人間を量産していますし、会社に行けば、目に見える成果が求められる。社会全体が「人間は自分で何でも出来るのだ」という神話の催眠状態になっており、人間が「勝ち組」と「負け組」に峻別されるのが当然とされていく。私は、これは無慈悲な社会だと思います。非常に研ぎ澄まされた能力第一主義のように見えながら、この社会の根底にあるのは、古い日本的な占いを重んじる気風だと思います。どんなに優秀な学者も、どんなに力ある政治家も、占いに心引かれている。自分という主人が唯一場所を譲るのが、魔術的な占いです。使徒言行録が見事に言い当てているように、占い社会はキリスト教を憎み、嫌います。パウロがフィリピの町で投獄されたのも、占いが原因でした。女占い師から占いの霊を追い出してやったことで、パウロは獄に入れられたのです。日本という国がキリスト教を陰に陽に阻害・迫害してきた理由は、そこにあると思います。この社会で、私たちがキリスト者として健やかに生きていくには、どうすれば良いかと思います。もう一度、あの御言葉を心の内に味わいたいと思います。

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

私たちの先達である明治の日本人キリスト者は、この御言葉を高く掲げて歩みました。御言葉を光の武具として身に着け、讃美歌を慰めとして歩みました。ここに、今も変わらない日本人キリスト者の生きる道が示されているように思います。この道に、主イエスは共におられます。この道をご一緒に歩みましょう。

最初にご紹介をしたあの牧師、私の献身を支えてくれたあの牧師は、ただ一つの事を求めました。それはイエス様を「主イエス」と呼ぶことでした。「主イエス」とは「イエスは主である」という信仰の表明です。信じさえすれば、だれもがここに立つことが出来る。ここに、ご一緒に立ちましょう。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

3月23日(日)のみことば

3月23日(日)のみことば

「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。」(旧約聖書:イザヤ書50章4節)

「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。」(新約聖書:第一コリント書9章16節)

「そうせずにはいられない」とパウロは言います。ここは昔の文語訳聖書では「止むをえざるなり」となっていました。キリストの福音があまりにも力強く迫ってくるので、止むを得ない。そうせずにはおれない。信仰のゆえに、そうせずにはおれなかった。そういうことが、どなたの身の上にも、一度や二度はおありだと思う。これを「強いられた生き方」といいます。「強いられた」と聞きますと、神様を知らない日本では「嫌々やらされる」ような印象を受けますが、それは間違いです。

これは福音が皆さんの中に生きて働いて、皆さんの手足を動かし、生き方を揺るがし、突き動かしているのです。だからパウロはこう続けます。

「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、委ねられている務めなのです。」

この「務め」というのがミッションです。神から与えられた務めのことです。この務めは、神様がお与えになったものですから、成し遂げる力も神様が与えてくださいます。